おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

DSM-5が「バイブル」になってしまうまで②-DSM-1からDSM-3まで-

2024-07-23 07:27:36 | 日記
第二次世界大戦後、精神医学は、確かに発展した。

皮肉なことに、戦時に意欲的に動いたため、戦後、精神医学は、市民生活でも卓越した地位を得ることが出来たのである。

アメリカでは、どの医学校にも精神科の学科がはじめて設立され、ほとんどの総合病院でも精神科が新しく開かれた。

有力なモデルになったのは精神分析であり、中心は治療であり、雰囲気は熱心で専門家としての自信にあふれていたようである。

しかし、「精神科の診断」はこのルネッサンスの恵みを受けなかったのである。

周囲の興奮をよそに、「精神科の診断」は、退屈で、活気もない沈滞した分野として、全く顧みられなかったのである。

1952年に発表されたDSM-1も、1968年に発表されたDSM-2も、読まれず、好まれず、使われもしなかった。

しかし、1970年代はじめに突然、診断は精神医学を転覆させかねない懸念材料だ、と、暴かれてしまったのである。

精神医学が、やっと、れっきとした医学分野である、というお墨付きをもらったばかりだというのに、ふたつの文書が広く出回り、精神医学の存立をおびやかしたのである。

ひとつは、イギリスとアメリカの共同研究により、たとえ、同じビデオテープで同じ患者を評価する場合であっても、大西洋の東側と西側で精神科の診断が、大きく異なることを示すものである。

ふたつめは、心理学者が、精神科医を容易く不正確な診断に誘導できるのみならず、まったく適切でない治療にも誘導できることを示すものである。

さらに、この指摘をした心理学者が教える大学院生数人は、別々の救急救命室へ行き、幻聴が聞こえる、と訴えたところ、その院生たちはみな、ただちに、精神科病棟へと移され、その後は完全に正常に振る舞ったにもかかわらず、数週間から数ヶ月も入院させられた事実が、白日の下に晒されたのである。

その結果、精神科医は信頼できない時代遅れで、信用ならない、とされ、ちょうどその頃、全医学分野を最新化しつつあった研究革命に加わる資格が無いかのように見られたのである。

精神医学には、救いが、なんとしても必要な状況であった。

このようなとき、ひとりの人物が、職全体を救うなどということは、稀有なことであるが、ボブ・スピッツァーのお陰で、精神医学は存在意義を失うことや、戦前のような立場へ逆戻りすることを免れたのである。

当時、コロンビア大学の若手研究者であったボブ・スピッツァーは、精神科の診断を系統を信頼できるものにする仕事に着手していた。

彼は、研究診断基準のチェックリストを作った先駆者のひとりであった。

研究診断基準のチェックリストは、基準に基づいて症状を疾患に分類する方法であり、研究に参加した判定者による診断の一致率を高めたのである。

また、各症状の有無を判定するために行う質問の順序や言い回しを統一することによって、定型アンケートに近い方法も開発した。

スピッツァーの方法を用いた、「初期」の結果は確かに有効であった。

同じ質問を行い、症状の数から診断へと進む際に同じ交通規制を用いれば、かなり一致した判定が得られたのである。

これにより、国際共同研究が提起した難題に対処できた。

さらに、信頼できる診断システムのおかげで、分子生物学、遺伝学、脳画像化技術、多変量統計、偽薬(プラシーボ)を用いた臨床試験などの強力な新しい武器を精神医学の研究でも利用できるだけの資金が得られたのである。

にわかに、精神医学の研究は、医学研究の末席から寵児になった。

NIMH(アメリカ国立精神保健研究所)の予算は急増し、アメリカのほとんどの医学校では、精神科が学科の2番目に大きな研究資金源になったのである。

研究資金において、内科を少し下回るだけで、他の基礎科学や臨床系の学科を大きく引き離すようになると、製薬企業もまた、やはり、多額の研究資金をつぎ込み始め、儲けの大きな精神科の新薬を開発しようと競り合ったのである。

確かに、スピッツァーは、精神医学の研究活動の基礎を築いた。

しかし、スピッツァーは、それだけでは満足しなかったのである。

スピッツァーは、
「基準に基づく診断法が、研究でこれほど有効であるのならば、日々の臨床医療にも用いてみてはどうだろう」
という思いを抱いたのである。

これは、言ってしまえば、とてつもなく大胆不敵な野心であったのだが、アメリカ精神医学会は、それを実現する機会を提供したのである。

1975年、スピッツァーは、DSM-3の作成委員長に任じられ、目標を設定し、方法を決め、共同研究者を選ぶなど、幅広い権限を与えられた。

スピッツァーの目標は、
「精神科の医療を、世界中のあらゆる場所で、精神保健のあらゆる分野で熱心に行われるものへと変える」
ことであった。

DSM-3は、診断の混乱を終わらせ、より的確で目的に適った治療を選ぶための必須条件である慎重な診断に注意を向けさせ、臨床研究と臨床精神医学の間に待望の架け橋をわたす「はず」であった。

しかし、DSM-3作成には大きな欠陥が在った。

当時は、判断の拠り所として利用できるだけの科学的な証拠が、ごく限られていたのである。

どの疾患をマニュアルに載せ、それぞれの疾患を記述するのにどの症状を選ぶべきなのかについて、スピッツァーは、各疾患の専門家を集め、基準を定義する最善の方法を見つけ出すことで、この大きな欠陥を補おうとしたのである。

確かに、当時はこれが診断システムを開発するためには、最善の方法であったのだろう。

驚いたことに、この方法は「とりあえず」はうまくいき、効果を上げ、役に立ったのである。

しかし、診断システムを開発するための方法としては、あらゆる先入観の影響を受けやすかった。

スピッツァーの同僚として、基準の作成に当たった人たちは、大部分が、精神医学の急進派であったのである。

彼ら/彼女らは、台頭しつつあった生物学好きの研究者たちから成る親密な集団であり、自分たちは、この分野を他の医学に近づけて、かつて権勢を誇った精神分析や社会的モデルから遠ざける先鋒だ、と考えているフシがあった。

DSM-3は、病因学の理論とは無縁であり、治療の生物学的、心理学的、社会的モデルのどれにも応用できると宣伝された。

これは、字面ではその通りでも、実際は違っていたのである。

基準が表面的な症状に基づいていて、原因や治療について、何も触れていないことは、事実であった。

しかし、表面的な症状に基づく方法は、精神疾患の生物学的、医学的モデルと、とても、うまく噛み合い、それを大きく発展させたのである。

もっと推論に頼った心理的概念や社会的背景を拒んだことは、これらの他のモデルには、不利に働き、言うなれば、精神医学に還元主義の拘束衣を着せることになってしまったのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


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