おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

DSM-5が「バイブル」になってしまうまで①-ピネルからクレペリン、フロイトを経てDSM登場へ-

2024-07-22 07:38:38 | 日記
近代科学に比べると、精神医学にルネサンスと啓蒙が訪れたのは、19世紀初め、と、思いのほか遅かった。

テーマがあまりにも複雑であったためであろう。

また、天文学や生物学で一般法則を他見つけ出す方が、精神医学で明確な発症機構を見つけ出すよりも早かったのである。

さらに、近代科学は一般理論化に適したテーマをはじめから賢明に選んだともいえるかもしれない。

さて、ピネルが近代精神医学を創始したあと、独創性に富んだ精神疾患の分類が続出した。

19世紀の後半には、精神疾患のさまざまな分類法が次々に提案されたのである。

初期のシステムはフランスで作られたが、科学の重心はドイツへと移り、クレペリンによる統合失調症と双極性障害の決定的な区別に結実した。

クレペリンの兄が優秀な動物学者であったことは、幸運な偶然であったことはことは間違いないであろう。

そのおかげで、クレペリン自身の観察手腕は磨かれ、また、兄弟での東南アジアの調査旅行の資金をなんとか工面するべく、クレペリンが頑張ったため、精神医学の歴史を変わったのである。

実に、クレペリンがそのようにして頑張って書いた教科書は大好評を博して、際立った影響力を及ぼし、なんとその目次は当時のDSMとなり、のちには、私たちのDSMの基礎となったのである。

しかし、クレペリンには大きな弱点もあったのである。

それは、彼が大学病院の医師であり、外来患者をまったく診なかったことである。

その精神医学の概念は、長期の入院が必要なほどの重症患者から生み出されており、また、そこに限定されたものであって、現在、診断される人々のほとんどにとっては、クレペリンの分類に適切な場所は設けられていなかった。

そこへ、フロイトが現れて、この欠陥を補うという幸運が重なるのである。

フロイトと聞いたとき、世間が連想するのは、治療であって診断ではないかもしれない。

しかし、クレペリンが入院患者のためにつぎ込んだ頑張りに匹敵する努力を、フロイトは、外来患者の分類を生み出すためにつぎ込んだ。

ちなみに、フロイトの努力も、彼がひどくお金に困っていたからである。

フロイトは、結婚して家庭を作るためのお金を工面したくて、分類学者になった側面もあるのである。

駆け出しの頃のフロイトは、とても有望な神経科学者で、脳の働きにおける神経細胞のシナプスの重要性を世に先駆けて理解したひとりだった。

しかし、大学で、働き口を見つけられなかったので、やむなく研究室を出て、神経科の開業医になった。

フロイトはかなり落ち込んだようだが、科学者として評価されるという当初の野心を決して捨ててはいなかったのである。

そこで、フロイトは、研究対象を、プレパラートから人々へ切り替えることにした。

じきに、フロイトは、研究室のダーウィンとなり、
「無意識の生まれつきの本能が、どのようにして、私たちの人となりや感情や思考や行動に中心的役割を演じているか」
ということについて、鋭い臨床観察を通じて、驚くほど正確に推測したのである。

現代の認知科学や脳画像化技術は、フロイトの最も深遠な洞察を強力に裏付けている。

確かに、他の推測には、今となっては突飛で珍妙に聞こえるものが在ることは事実ではある。

さらに、フロイトは、今やアタリマエのようになっている、外来患者専門の精神科医というこれまでにない職業をはじめ、新たな患者たちの分類法も示した。

当時、軽度の症状は、当時は神経科医の縄張りであり、神経科医はそれらの症状が、神経の病気によって引き起こされると考えて、「神経症」と名付けた。

フロイトは、精神分析、という、まったく新しい分野を育てながら、「神経症」は心理的葛藤によるものだと、解釈し直した。

つまり、「神経症」は、脳内の生理に左右されるが、単純な脳疾患ではないと解釈し直したのである。

そして、フロイトは、そこから神経症の分類に取りかかった。

悲嘆とうつ状態を区別し、パニック障害と恐怖症、全般性不安を区別し、強迫性障害と性的障害とパーソナリティー障害について記述した。

フロイトは、熟練の神経科医であり、精神医学を研究しはじめてからまだ数ヶ月しか経っていなかった。

しかし、矛盾しているのだが、フロイトは、神経科医の大部分からは無視されたのにも関わらず、 やがて精神科医から熱狂的に崇拝されるようになったのである。

初期の精神科医は、少数で入院患者のいる精神科病院でのみ働いていて「エイリアニスト(疎外者を診る者)」という肩書きまで付けられていたのだが、フロイトののち、すべてが速やかに変わったのである。

精神科医の主たる専門は、重症の入院患者から、さほど重症でない外来患者へと移った。

精神科医は、次々に大病院を離れて、外来患者のための診療所を開いた。

1917年には、開業医は精神科医の約10%に過ぎなかったが、現在では大部分を占めている。

アメリカ国内の精神分析医の数も、ナチスから逃れることが出来た著名な亡命者と、心理学と社会福祉の新たな専門職の発展が生み出した、精神保健の臨床医が加わることで増えた。

セラピストたちは急増し、精神分析から派生した、新しいゆるやかな診断法を用いて、数はずっと多いが、症状はずっと軽い外来患者を治療したのである。

同時に、皮肉なことだが、ふたつの世界大戦が精神医学の領分を広げ、表舞台に迎え入れた。

精神病は、戦争遂行の大きな妨げになる、と見なされたからである。

精神病は、兵役免除の理由にされ、戦傷病者のなかにもよく見られ、帰還兵の長期にわたる職業不能の原因にもなった。

既存の分類では、うまくいかないことが増えたことから、システムを改良し、兵士を常に臨戦態勢に置く方法を見つけるために、精神科医が集められたのである。

その多くは高級軍人にまで昇進し、なかには、将軍になった者もいたため、兵士の徴募や確保、戦傷病者の治療にかかわる決断に対して、きわめて大きな影響力を持った。

陸軍が、診断の広範な新分類を作り、退役軍人庁がそれを修正し、アメリカ精神医学会が、さらに、修正をして、
『精神の疾患の診断と統計マニュアル』第一版として、1952年に、発表したのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


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