昨日、今日と豪雨のニュースに心が痛い。
「助けてください」
そう叫ぶ彼女の腕の中には、生後数ヶ月の幼児がいる。もはや、誰が見ても明らかに死んでいる幼児を抱えながら彼女は奔っている。
奔って走る彼女の眼の前に
「死人がいない家をみつけてきたら、生き返らせてあげる。」
という人物が現れる。いわゆる、仏陀である。
彼女は必死に頼む。みつけてみます、だから、助けてください、と。
しかし、歩けど歩けど死人が出ていない家が見つからない。徐々でありながら、彼女は自らの運命を「受容」してゆく、そして、仏陀のまえで、抱き続けた、我が子を葬るように頼む(諸説あり)。
我が子が、葬られてゆくなかで彼女の哀しみなどの感情も、ある意味「昇華」されてゆく。彼女にとって幸いだったことは、聴いてくれる耳や視てくれる目があり、そして感じてくれるこころが存在したことだと、私は思う。
昨日、今日と豪雨のニュースに心が痛い。
他者の自己の苦しみとして静かに聴く耳の需要はいつもあるはずだ。何故なら、悲しみ苦しみ傷付く人いつもいるから。
「人間」とはよく創られたことばだと私は思う。「人間」は人(ひと)と人(ひと)の間柄的存在なのだから。
昨日、今日と豪雨のニュースに心が痛い。何も出来ていない自分を直に視ると情けなく、かなしくなる。まず、目の前のことをみつめ、みなおし、 やれることから考えてみたい。
ここまで読んでくださりありがとうございます。また、次回。