おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

ひとりの中世人の精神のかたちを表すような、アレグリの「ミゼレーレ」を聴いて

2024-06-12 06:09:23 | 日記
クロード・ドビュッシーは、妻が心筋梗塞で倒れた時、まず最初に、財布を奪うことを考えていた。

彼は、文字通り財布を妻に握られていたので、自由に使える金を手に入れりチャンスを虎視眈々と狙っており、妻が倒れたとき、財布を奪ったのである。

しかし、妻は身体が動かないだけで意識はあったので、夫のこの情けない行動の一部始終を見ていた。

彼女が一命を取り留めた後、離婚したのは、言うまでもないだろう。

ドビュッシーのこの行動は人間としてはかなり下劣な部類に入るが、彼が作る音楽は下劣どころか、極めて繊細かつ高貴である。

芸術家の人間性とそれが生み出す作品とは関係がないものなのだろうか。

美しい魂が美しい音楽を創り出すなどというのは幻想なのだろうか??

確かに、人間の品性というものは、その生み出す作品に反映される部分もあるのかもしれない、とも、思うことがある。

ワーグナーの音楽は勇壮で魅力的だが、同時に鼻持ちならない押し付けがましさ、成り上がり者に特有の傲慢さが、その音楽にも表れているのも事実ではないだろうか。

ドビュッシーについて弁護すれば、彼は、単に私たちが持つ道徳感覚とはズレており、稼いだものを自分の手に取り戻そうという無垢な心で財布を奪ったのかもしれない......。(→無理があるか......。)

では、弁護の必要もないほど清廉潔白で、才能のある作曲家はどんな音楽を作るのであろうか。

ひとつの例が、グレゴリオ・アレグリの「ミゼレーレ」ではないかと、私は、思う。

アレグリは、ローマ教皇ウルバヌス8世に寵愛され、システィーナ礼拝堂専属の聖歌隊の歌手として、そして作曲家として活躍した。

その人柄は
「神父のような慈悲と慈愛に満ち、貧しい者には救いの手を差し伸べ、不遇をかこつ者には、心の支えとなり、苦しみにある者には自己を犠牲にしても助けを与えようとした」
と伝えられている。

これほとまでに褒めすぎていると、かえって、中世文学お得意の過剰修辞なのではないかと疑いたくもなる。

しかし、「ミゼレーレ」を聴くとき、その音楽に滲み出る高潔さに、この言葉はあながち嘘ではないと思えてしまうのだから、不思議である。

曲は、9つのパートからなる合唱曲なのだが、それにより音楽が複雑になるどころか、むしろ素朴さと、抑揚の効いた感情表現に留められている。

音楽はドラマチックではなく、
「miserere mei,Deus......(神よ、私を哀れんでください......)」
という、神への縋るような、ひそやかな思いが全曲を貫いているのである。

この曲はシスティーナ礼拝堂において、秘曲中の秘曲として限られた機会にしか演奏されず、また、その楽譜も門外不出であり、持ち出した人は破門されることになっていた。

現代の私たちが「ミゼレーレ」を聴くことが出来るのは、ひとえに、モーツァルトという天才のおかげである。

14歳のモーツァルトは、この10分ほどの9声部の音楽を1度聴いただけで暗譜してしまい、さらに、記憶をもとにして楽譜を再現してしまったのである。

その楽譜はイギリスの出版業者の手に渡り、広く世に知られることとなったのである。

なお、モーツァルトの暗譜の正しさは、ローマ教皇庁自らによって認められた。

ローマ教皇庁は、モーツァルトの楽譜が完全であることを
認め、まさにその神業を讃え、ローマ教皇自ら、14歳の天才少年に黄金軍騎士勲章を授け、門外不出の楽譜を外部に出したことを不問に付したのである。

アレグリの生涯についての記録は、ほとんど、ない。

カストラートであったとも伝えられているが、それすらも定かではない。

特筆すべきことがないほど平穏な人生だったのかもしれない。

アレグリは、死ぬまで、システィーナ礼拝堂を離れることはなかった。

ミケランジェロの作品に囲まれながら、世俗を離れ、静かに神への音楽を書き続けた、ひとりの中世人の精神のかたちが、この「ミゼレーレ」なのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


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