人間の品性というものは、その生み出す作品に反映されるものかもしれない、と思う。
たとえば、リヒャルト・ワーグナー(1813~1883年)の音楽は勇壮で魅力的だが、同時に鼻持ちならない押しつけがましさ、成り上がり者に特有の傲慢さが、その音楽に表れてもいるようになんだか感じる時があることは(少なくとも私とたぶんリストにとって)、事実である。
そのワーグナーが、妻のコジマ・ワーグナーに
「また、お前の父親が変な音楽を弾いている。どうしようもないな。さっさとあの雑音をやめさせろ」と言った。
ここで、ワーグナーが問題にしているコジマの「父親」は、フランツ・リスト(1811~1886年)である。
リストといえば、若かりし頃には社交界の花形であり、美青年でピアノの名手であり、自作の超絶技巧曲の演奏を聴いた女性はその場で失神した、と言われるほどである。
確かに、リストも作曲はしたのであるが、技巧だけが自慢のピアニストであるリストが作る曲は、やはり底の浅さが知れていた。
若いときはその美貌のためにちやほやされたが、加齢とともに美貌は消えてゆき、曲の音楽性そのものが問われるようになると、リストは、自らの音楽性の欠如に恥じ入るようになるのであった。
確かに、人はみな、若さによる力や美貌は衣装に過ぎないと、老いとともにそれらが剥ぎ取られてゆくときに、失われた若さの輝きに気付くのかもしれない。
そして、すべてが剥ぎ取られたとき、貧弱な醜い、そして老いた自らの姿に直面して、初めて鏡を見た『テンペスト』の怪物キャリバンのように、自分への怒りのために悶絶せざるを得ないのである。
「巧言令色鮮し仁」と言うが、リストの作る曲は、その技巧性の高さゆえに、かえってその精神の空虚さがあからさまになっているようである。
老いてからようやく自分の人生とその創作物の空虚さに気付いたリストが一心不乱に始めたのは、偉大なる先人たちの音楽を、特に交響曲をピアノに移植する作業である。
近代のピアノという楽器は、演奏者の技量によっては、ひとつのオーケストラ凌駕する表現力を持っている。
そのピアノの表現力を極限まで拡大したのは、このリストの晩年の仕事であったのである。
リストは、自らの音楽に精神性が、ドラマ性が欠如していることがわかっていた。
正しく言うなれば、彼は、「自分は人生を生きたことなど一度も無かった」と認識したのである。
だからこそ、人生を生きた先人の音楽を編曲することによって、精神の高みあるいは深みに達しようと目論んだのである。
まず、ベートーベンの交響曲をピアノに編曲して楽聖の精神に触れた。
次に、娘のいけ好かない婿、そう傲慢不遜なワーグナーの作品である。
ワーグナーは人間としては最低だが、その作り出す音楽はリストを打ちのめすものであったのである。
とりわけ、楽劇『トリスタンとイゾルデ』はリストに深い衝撃を与えた。
そこには、
「真に孤独な人間が初めて心を通わす相手を見つけ、愛に燃え上がり、愛の喜びの最中に死ぬことこそ人生の目的である」
という、ピアノを弾くことだけは上手だけれど、結局、凡庸な生活人としてのリストには思いもよらなかった世界観が、色彩豊かに、説得力をもって描かれていたのである。
ワーグナーが描いたのは、強烈な恋愛至上主義である。
生は愛のために存在するのであり、愛が成就すれば、その頂点で愛も生も終わりを迎えなければならないという、常識を越えた過激な心中の思想を、ワーグナーは音楽に描いたのである。
否、過激な思想というものなどなく、思想とはそもそも過激なものなのかもしれない。
思想は、言葉によって語られるだけではない、絵画や音楽もしそうを語る言語である。
ここが手先が器用なだけの人間には到達し得ない境地なのかも知れない。
これまで到達し得なかった境地に行くため、リストは、一心不乱にワーグナーのスコアに取り組む。
その過程で、ワーグナー自身も気付いていないような、新しい美を見出す。
リストの超絶技巧は、ワーグナーの音楽を咀嚼する中で、ピアノの表現力それ自体を拡大し、ピアノでなければ伝わらない美を表現するに至ったのである。
皮肉なことに、作曲者のワーグナー本人は、リストのこのピアノ編曲を「雑音」と捉えていた。
しかし、この「雑音」と捉えられた音楽は、国境を越えて響き渡り、新しい時代の基調音となるのである。
若き日のクロード・ドビュッシは、このリスト編曲「愛の死」を聴いて、これまた深い衝撃を受けるのである。
ピアノとはこれほどの表現力を持っているのか......それでは、自分はピアノの表現力をこれまで引き出していたであろうか.....。
若きドビュッシーは発奮し、そうして、ピアノ曲新時代の扉が開かれる。
だが、若き天才ドビュッシーが力強く新時代の新時代の扉を開くのに、弱々しくも手を貸した、老リストの存在を、私たちは、忘れてはならないだろう。
冒頭に、人間の品性というものがその生み出す作品に反映されるのかについて触れたが、ワーグナーが「雑音」と見做したリストの音楽から深い衝撃を受ける若きドビュッシーの純粋で無垢な心は、その後の彼が作り出す極めて高貴で繊細な音楽に反映されているように、私は、思う。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
ちなみに、ドビュッシーにも人間らしい、しかも、現代の私たちの道徳観念からは、ややズレている逸話が残ってはいるのですが、それはまたの機会に( ^_^)
今日も、関東はスッキリとしない天気のようです^_^;
GW開け、体調管理に気をつけたいですね(*^^*)
今日も、頑張り「過ぎ」ず、頑張りたいですね。
では、また、次回。