「狂気は個人にあっては希有なことである。
しかし集団・党派・民族・時代にあっては通例である。」
と、フリードリヒ・ニーチェはあらわした。
眼の前に(テレビやスマホの画面越しでも)起こっていることたち(争いであれ犯罪であれ)を、
悲惨だとか、非人道的で狂気じみているから理解不能だ、と考え、逃避することは、気休めには、なる。
しかし、それらは
私たちの精神
や
そんなことを可能にした社会(世界)
をある意味映し出したものであるように、私は、思う。
過ちは人の常である。
過ちを犯す理由を考えることは、気分の良いものではないが、いつも繰り返し同じ過ちを犯さないようにするための唯一の方法である。
トゥキディデスは、ペロポネス戦争で戦った両陣営が犯した選択の誤りを、きわめて詳しく分析することによって、誤った政治的決断と社会の病理に関する体系的な研究の歴史を拓いた。
トゥキディデスは、まず、特定の戦争において、
何を誤ったのか
を深く理解することによって、その後のあらゆる戦争で繰り返し失敗する可能性がある事柄を明らかに出来ると考えていた。
素晴らしい先見の明が、トゥキディデスにはあったという他ない。
ベトナムやイラクへの侵攻について理解するための道標は、
アテネが2400年前にシチリアに侵攻したときに、同じ過ちをどのように犯したのか
を抽出して研究することである。
アリストテレスが、また違った経験的手法を採っていることにも着目したい。
アリストテレスは、ギリシャにある158の都市国家の憲法を集め、
それらに描かれている多様な統治ルールの中で、
どのような要因がもっとも成功、あるいは失敗に繋がりやすいのかを考察した。
社会の過ちを明らかにする近代の取り組みは、ローマ帝国の衰亡に関するエドワード・ギボンの歴史的分析に始まり、
最近では、
社会の成功と崩壊の地理的決定要因に関するジャレド・ダイアモンドの分析に
誤った政治的決断と社会の病理に関する体系的な研究は結実しているように思われる。
人間の行動の動機を理解することは、本当に、難しい。
なぜなら、人間は、自らがとる自滅的な行動に対して都合の良い言い訳をひねり出す能力に、非常に長けているからである。
また、人間には、行動してから、過ちに気付いたとしても、自分がやっていることをわかっているかのようなフリをしたり、もっともらしいストーリーを後から構築するクセが在る。
しかし、言い訳をしていることや、わかっていないこと、自らのしているフリやクセを認識し、見つめ直すことこそ大事なのである、と、私は、思う。
「何も知らないことが問題なのではない。
知らないことを知っていると思い込むことこそが問題なのだ」
そう、思う。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
今日も1日、頑張りすぎず、頑張って生きたいですね。
では、また、次回。