おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

生者と死者の不明瞭な境界線から生じた不安のゆくえ

2024-06-22 07:19:57 | 日記
「死者をどう扱えばよく、死者に起こったことをどう理解すればよいのか」
という、この極めて実存的な問いに、どの文化も、独自の答えを見出している。

それに関する流行である吸血鬼信仰は、1720年頃~1770年頃の大流行のあと、終焉を迎えたかに見えたが、
実は、今でも時々、局地的な小流行は、発生しているのである。

ここ数十年では、プエルトリコ、ハイチ、メキシコ、マラウイ、そして、ロンドンでも発生した。

やはり、流行の根底には不安や恐怖がつきもののようである。

吸血鬼に対する恐怖は、遙か昔に遡り、人間の心に深く刻み込まれている。

いつの時代も私たちは、
「死者をどう扱えばよく、死者に起こったことをどう理解すればよいのか」という根源的な問いを突きつけられてきた。

どの文化も、このきわめて実存的な問いに、手のこんだ埋葬儀式や民間伝承などを、生と死の隙間だらけかもしれない境界線を管理するために、編み出しているようである。

「死者をどう扱えばよく、死者に起こったことをどう理解すればよいのか」という問いは、狩猟採集民族をしていた遊牧民族が、農耕を行うために定住し、文字通り死者の上で暮らしはじめたとき、深刻な問題になった。

なぜなら、かつてならば、死体は部族が移住するときに置き去りにすればよいので、都合が良かったからである。

しかしながら、死んだ祖先たちのそばで暮らすことを余儀なくされると、畏敬の念が生じたのである。

誰かが病気になったり、何か悪いことが起こったりしたとき、死者が、足の下で生きていて、嫉妬や復讐心や不満に駆られて蘇り、理不尽な要求をしているのかもしれないと心配するのは、理に適ったことであった。

吸血鬼信仰では、これがそのまま信じられたのである。

生者の病気は死んだが、死に切れていない大切な家族が、血を飲んだり肉を食べたりしたせいだ、とされた。

この流行は、18世紀の中央ヨーロッパで50年にわたって続いた。

啓蒙時代の見せかけの知的平穏は、動乱が続き、封建制度からほとんど抜け出せず、田舎ばかりだったヨーロッパをうわべだけ覆い隠しているに過ぎなかった。

吸血鬼信仰は「アンデッド(生ける亡者)」についてのスラブ民話が、拡大するオーストリア帝国の新しい隣人たちに口伝てで広められたときに現れた。

熱心であるが、馬鹿正直でもあったハプスブルク帝国の役人たちは、あまりに官僚的に対応するという誤りを犯した。

セルビア人の顧問が推奨した方法にしたがって念入りな調査を行い、墓を掘り返し、死体にいちいち杭を突き刺したのである......。

土地に伝わる吸血鬼の最適な退治法を詳しく述べた詳細な報告書が、広く流布された。

こうして正式に認められた結果、「アンデッド」に対する恐怖が瞬く間に村から村へと広まった。

やがて、やはり物書きたちも輪に加わり、扇情的な吸血鬼文学を作り出しては、火に油を注ぎ、ついには目撃者が大量発生することになったのである。

「襲撃」とされるものが1721年に東プロイセンで報告され、1720年代から30年代までにオーストリア帝国の全域で報告された。

ヴァンパイア(vampire)という語が英語にはじめて現れたのは1734年で、中央ヨーロッパの旅行記に登場した。

これは、歴史で最初のメディアに煽られた流行であったが、最後にはならなかった。

吸血鬼に対する不安は、生者と死者を区別することが難しかったせいで余計に強まった。

聴診器のない時代では、明確な境界線を引けなかったのである。

人々は「アンデッド」を恐れるとともに、自分が生き埋めにされるかもしれない、と怖れた。

墓地のそばで夜を明かすのはよくある光景だった。

それは、死者に敬意を示すだけではなく、蘇生の徴候を見つけ、墓荒らしを追い払うことが目的であったのである。

死体を間近で観察したことは、食欲や活力が死後も保たれるという伝説が出来る一員となった。

腐敗の早さや進み方は、死体によって大きく異なるので、一時的にではあるが、生きていたときよりも死んだときの方が、健康そうに見える人もいるのである。

(例えば、痩せ衰えた身体が、腐敗ガスで満たされたりする場合など)

死体の赤くくすんだ色も、生者の血が死者を堪能しているのではないかという疑いに繋がったのであろう。

そのアンデッドの口や鼻から血が流れ出れば、この十分に理に適った疑念は確信に変わったのだろう......。

吸血鬼退治の試みは生者にとっても死者にとっても過酷なものであった。

生け捕りにされた吸血鬼(とされる者)は、残酷極まる拷問のあとで公開処刑された。

犠牲者はいつも、容疑者にされる人たちであった。

それは、精神障がい者や魔女と見做された女性(おそらく薬草などに詳しかった女性だと思われる)、教会の教義に逆らった者、まずい場所に居合わせた者や、まずい相手を敵に回した者などであった。

この狂気を終わらせたのは、オーストリアのマリア・テレジアであった。

吸血鬼が、実在するのかどうかを侍医が徹底して調べ、実在説には何ら根拠がないと結論づけた。

そこで女帝が、死体の発掘に厳罰を科したところ吸血鬼信仰は消滅したのである。

ただし、先にも述べたように、いまでも、吸血鬼信仰の局地的な小流行は時々発生している。

私たちは、まだ、科学がいくら発達しようと、

「死者をどう扱えばよく、死者に起こったことをどう理解すればよいのか」
という根源的な問いに対する答に迷うところがあるのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


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