現代のディストピアに最も直結する小説のひとつとして、オルダス・ハクスリー(1894~1963年)が1932年に書いた小説『すばらしい新世界』がある。
資本主義のアメリカの恐ろしい未来を予測したような作品であるが、私たちは、この小説をかなり身近に感じるであろう。
なぜなら、ハクスリーの第2の故郷であるハリウッドをモデルにした、アメリカの夢と悪夢の世界の物語だからである。
「今日楽しめることを明日に延ばすな」を鉄則とする社会を想像してみてほしい。
そこでは、衝動のままに好きなものを何でも買うことがよしとされ、一夫一婦制どころか、恋愛も非難と嫌悪の目で見られる。
また、与えられる仕事はクローンの作成、行動の条件付けによって作られた個人の能力にぴったり合ったものである。
周りの人たちは皆親しみやすく、温和で、気が合い、過去の悪い記憶もない。
現在には何の問題もなく、少しでも悲しみや不安を感じた人には、呑めば幸せな気分にしてくれる魔法のような薬ソーマがある......。
ハクスリーは、『すばらしい新世界』のなかで描いた世界は地獄だと考え、大義を抱いて反抗するヒーローを登場させる。
彼は、国家による管理から自己のアイデンティティを守り、ソーマよりもシェークスピアを好む、高貴な「Savage」(名前だが、「蛮人」という意味もある)である。
彼は
「僕は、不幸になる権利を要求しているのです......欲しいのは詩です。本物の危険です。自由です。美徳です。そして罪悪です......僕は僕でいい。情けない僕のままがいい。
どんなに明るくなれても他人になるのは嫌だ......僕は不幸のほうがまだいい。
あなたがこっちで愉しんでいた嘘っぱちの幸福よりは」
と、ハクスリーの思いの丈を打ち明けるように、語るのである。(→私はこのことばが大好きである。)
ハクスリーにとって、際限のない愚かな快楽と、芸術の創造、科学の進歩、人間の尊厳の維持は両立しないものなのであろう。
快楽主義の下で人間が幸せになるためには、それと引き換えに、まともな人間以下の存在に甘んじることを受け入れなければならないのかもしれない。
ところで、
マルクスは、
「宗教は民衆のアヘンだ」と言った。
このことばで、かつて、マルクスは、宗教によって、民衆が世の中の問題に目を向けなくなり、受け身の姿勢をとって、受け入れ難い現状を受け入れるようになることを指摘した。
今では、向精神薬が人々をよい気分にさせて、社会を否認することを増長している。
先に述べたように、『すばらしい新世界』のなかで、ハクスリーは、気分がよくなる万能薬を「ソーマ」と呼んだ。
この名前は250年前にサンスクリット語で書かれた聖典から取られたものである。
ソーマは神の名であり、祭式で供される飲み物でもあった。
行動を刺激し薬効や精神的効果の高いソーマは、聖典にある数多くの賛歌で讃えられている。
ちなみに、ソーマに含まれる刺激成分はおそらくマオウ(麻黄)で、今でも薬品に使用されている化学物質であり、パフォーマンス向上薬として、またメタンフェタミンを作る原料として用いられている。
ハクスリーの向精神薬についての態度はかなり幅のあるものであり、明確ではなかったが、彼が生きてゆく中で向精神薬によって自らの体験が広がったと認識し、その考え方は大きく変化してしまった。
1932年に出版された『すばらしい新世界』の中では、ソーマは人間の精神を麻痺させ、人間以下の存在に貶めるものであり、とどのつまり、人々を危険に導くものであった。
しかし、26年後、ハクスリーは『人間の精神を形成する薬物 』というエッセイのなかで「薬物は人間がみずからの魂を見出し、知覚を研ぎ澄ます一助となる有益な手段である」と述べている。
薬物に十分に触れてしまうと、薬物にきわめて懐疑的で自制していた人でも、極めつきの信奉者に変わってしまうことを、ハクスリーは自ら示してしまったようである。
現在、オピオイド中毒の蔓延が全世界に広がっている。
これは、医薬品業界が薬物を強力に売り込んだことに加え、ますます強い効果を持つオピオイド誘導体(例えばカンフェンタニルの作用の強さはモルヒネの1万倍である)を合成したことも、大きな原因である。
しかし、やはり、鎮痛剤の不用意な処方の根本的な原因は、
医者や患者をはじめとして、多くの人々の間で、
「どんな痛みや苦痛もすぐに抑えらる対処法がある」
という期待が広まっていることにある。
私は、個人であろうと、社会であろうと、複雑な問題に対して簡単な解決策を求めると、事態をさらに悪化させることが、多いように、思う。
オピオイド中毒の蔓延に代表されるように、その場しのぎの痛み止めは人々に、化学物質が即座に(苦痛という)問題を解決してくれることを期待することを教えてしまった。
しかし、その代償は個人にとどまらず、社会にも波及するであろう。
さらには、化学物質が即座に問題を解決してくれる、と期待することは、政治が、すぐに問題を解決してくれるということを期待する社会にもつながりやすいだろう。
なぜなら、仮に、1日を乗り切るために、市民の多くが、何らかの薬物を必要としている世界があるならば、その世界において、成熟し、苦境にめげない、責任感のある市民層を形づくることは難しいであろう。
社会の成熟を否認することを止めて、ありのままの現実に向き合える成熟した社会を実現したいと思うとき、は、
Savageの、つまり、ハクスリーの、
「欲しいのは詩です。本物の危険です。自由です。美徳です。そして罪悪です......僕は僕でいい。情けない僕のままがいい。
どんなに明るくなれても他人になるのは嫌だ......僕は不幸のほうがまだいい。
あなたがこっちで愉しんでいた嘘っぱちの幸福よりは」
ということばが、重く響くとき、である、と、私は、思うのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
私にはいつものことかもしれませんが、ふらふらしたテーマが多くなりかけていたので、このブログを始めさせていただいた頃の、いわゆる初心、に立ち帰ってみようかな、と思い、今回は描いてみました( ^_^)
いつも読んで下さりありがとうございます(*^^*)
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。
*見出し画像は、最近お洒落をサボりまくっているので、1年以上前の写真を使いました^_^;
見る人もあまりいないからと、少々、最近の自分のおしゃれに関心が薄れていることを反省しました^_^;
服でもたまには見に行こうかな( ^_^)