おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

「共有地の悲劇」を演じている私たちを認識することから-私たちが直面していることについて考えるⅢ⑫-

2024-04-25 06:29:10 | 日記
人間の経験よりも希望が勝ち続けたために、戦争に対する楽観的な見方が続いたことは、もはや驚くにはあたらないのかもしれない。

ベトナム戦争は、「イラクから離れよ」という、警告にはなっていないようであるし、ヒトラーはナポレオンから学ばず、私たちは、悲惨な第1次世界大戦を経験しても、2度目の大戦を防げなかった。

戦争に参加する決断は通常、脳の最も原始的な部位によって下された後、脳の賢明な部位によって、巧みに、もっともらしく理屈づけされる。

また、戦争熱は、もうすでに分別があるはずの、優れて賢明な人々にも波及してしまうようである。

いつもは冷静で悲観的なジークムント・フロイトが、自分の息子を喜んで前線に送り出したことも例のひとつであるが、第1次世界大戦が始まったことを、対戦に参加した双方の知識人たちは喜んでいたのである。

悲しいことに、私たちの多くは、好戦的で短気な祖先の遺伝子を持っているため、愚かな戦争をするのが歴史のパターンとなってしまっている。

もっともらしい理由のために戦い、ときに両者に大きな犠牲を出し、本当の勝者はいない。

もっともらしい理由のための戦いは、小さな集団で生活し、敵対する広い世界を彷徨っていたころの私たちの祖先が生存するためには、確かに必要なものであった。

しかし、現在、極端に混み合い、完全武装した小さな惑星の中では、そのような戦いは不幸を招く不必要なものである。

しかし、ヒトラーが唱えた生存圏のことを、イラク、シリア、イエメンのことを考えてみれば、わかることなのだが、
人口爆発や気候変動などによる食料不足が起き、供給されるものが少なくなると、マルサスの小さくなるパイから大きい分け前を得ようと、戦いはさらに激しくなる可能性があるのだ。

戦争という愚かな決断はたいてい、怒りや恐怖から性急に下される。
それは、心情のみに突き動かされ、ほぼ何の配慮もなしに、構える前に銃を撃っているようなものである。

戦争という不必要な行為をする余裕は、もはや、私たちにはない。

加速度的に資源の枯渇が進み、人口増加の圧力が増していることを考えると、戦争をしたがる私たちの性質をそのままにしておくわけにはいかないだろう。

今後は、私たちが、まず紛争を解決するためのもっとよい方法を早急に見つけるか、あるいは、戦争の頻度、激しさ、残忍さ破壊の度合いが増すかのどちらかなのかもしれない。

しかし、幸いにも、私たちのなかには、平和と愛他心も確りと組み込まれてはいるので、解決策はないことはない。

ただし、平和と愛他心は、紛争を解決し和解するためのものであるのだが、仲間内でだけしか、発揮されないのである。

私たちは、仲間以外の者たちには、抑えが効かないほど攻撃的になることがよくあるが、仲間とみなした者とはたいてい合理的な取り引きをする。

ならば、私たちは、とても混み合った小さな一隻の船に乗っているひとつの非常に大きな仲間集団であることに早く気づくべきであろう。

はっきりしていることは、今の世界のなかで、自分が属する小さな集団の利益を相手の集団から守るために争う決断をすれば、争った両者は共に沈んでしまうということである。

私たちは、「共有地の悲劇」を演じているように私は、思う。

ギャレット・ハーディンの著書『共有地の悲劇』によって提唱されたこの考え方は、
「誰でも自由に利用できる状態にある、(出入り自由な放牧場や漁場などの)共有資源が、管理がうまくいかないために、過剰に搾取され、資源の劣化が起こること」を指している。

現在の私たちは、人口が増え続ける世界で、ますます少なくなるものを求めて必死に競い合っているではないか。

個人の幸福を最大限に追求することは、集団にとっての惨事に繋がる可能性があることが、いつまでもよく理解できない人類の悲しむべき致命的な欠陥が日々の争いのニュースから、露見し、重苦しい気持にすらなる。

大きな謎は、なぜ宇宙の起源を理解し、ゲノムを解読し、モナ・リザを描き、ピラミッドを作り上げ、高度な計算法を編み出しコンピュータを発明し、太陽系を探査したほど賢い人間が、なぜ、争いを止められないほど愚かなのかということである。

私たちは、平和に暮らす方法、欲望を抑え、分相応な生き方をする方法、私たちの現在のニーズと将来に対する責任のバランスを取る方法をこれまでほとんど考えることができていなかった。

私たちは、私たちがひとつの文明として、そして、ひとつの種として生き残るに値するかどうかを決めるために今すぐ現実に必要とされているものを、私たちが抱く社会の幻想によって自ら見えなくしているのである。

私たちは、また、進化の途上にあるのではないだろうか。

私たちの身体の構造を見てみても、脊柱は二足歩行に完全に適合してはいないし、虫垂は益よりも害をもたらしている。

さらに、私たちの心は、自滅的な行動に繋がる原始的な本能によってコントロールされているのである。

人間とは何者なのだろうか、どのようにしてここまで進化し、なぜ、これほど優れていると同時に、愚かでもあるのだろうか。

チャールズ・ダーウィンの
「生き残るのは最も強い種ではなく、最も知的な種でもない。
最も変化に適応した種である」
ということばが、私の頭を去来するのであった。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日の関東は、真夏日のところもあるかもしれないとう予報でした^_^;

体調管理に気をつけたいですね(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

シューベルトの『美しき水車小屋の娘』から

2024-04-24 06:18:05 | 日記
夏目漱石は『草枕』のなかに
「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界を目の当たりに写すのが詩である、画である、あるいは音楽と彫刻である」
と書いている。

漱石は、ロンドン留学後、胃炎とうつ病を患ったが、これは、日本人が西洋個人主義にはじめて直に触れた際の副反応だったのかもしれない。

帰国後は、日本における個人の問題を考えながら小説を書き始めた漱石であったが、漱石の小説の多くは、かなり「ありがたい世」からかけ離れた、愛憎渦巻く不倫劇であった。

......。
家制度から外れる現象を描くことにより、個人の問題をあからさまに表そうとしたのかは解らないが、個人の存在が切実に問題となるのは、愛と死においてである、と漱石は考えたのかもしれない。

さて、西洋個人主義とは言うが、西洋社会もはじめから個人主義であったわけでは、勿論、ない。

農耕牧畜社会は必然的に共同体的であって、産業構造の変化、近代的都市の誕生、旧来型秩序の崩壊、国民国家の形成を経て、 西洋社会なりに時間をかけて醸成されてきたのである。

当然ながら、その過渡期には、西洋社会も漱石と似たような苦しみを経験したのであろう。

ゲーテが著した『若きウェルテルの悩み』は、極端に言うならば、
近代社会が生み出す孤独と居場所の無さから、自らの存在を肯定してくれるシステムを恋愛に求めた青年の苦悩と絶望の物語、である。

ウェルテルに歌を歌わせたら、そのなかのひとつは、フランツ・シューベルトが26歳のときに作曲した歌曲集『美しき水車小屋の娘』になるのではないか、と、私は思う。

歌曲集『美しき水車小屋の娘』は、全20曲から成り、旅する快活な青年が、水車小屋の娘に出会い、恋をし、失恋し、失意のうちに自殺するまでが描かれる。

主人公の青年は水車職人で、修行の旅に出ているのであるが、それは
「住みにくき世から、住みにくい煩いを引き抜い」た、自分の足で自由に世界へと踏み出してゆく喜びに満ちている。
そして、小川に沿って旅を続けるうちに水車小屋に行き当たる。
青年はそこで働き始め、その小屋の娘に恋をするのである。

原詩ははミュラーという詩人によるもので、舞台も中世が想定されている。

中世ドイツでは、職人は比較的自由な存在であった。
特に、建築職人やここに出てくる水車職人は定住する必要もなく、己の技巧や才覚だけで、どこへでも渡り歩くことが出来たのである。

しかし、ミュラーとシューベルトが水車職人の青年に託しているのは、きわめて近代的な意識である。

何にも縛り付けられない自由の謳歌は、拠り所を持たない孤絶の不安と表裏一体である。

だからこそ、主人公はさすらいつつ、寄る辺を探し求めている。

そして、美しい娘がいる水車小屋に働き口を見つける。

このあたりまでのシューベルトのメロディーはみずみずしく、優美極まりない。
シューベルト自身がこの青年に十分に心を共鳴させていることをうかがわせるほどである。

しかし、シューベルトはそれにとどまることなく、芸術家特有の冷たさでもって、物語を暗転させてゆくのである。

恋の喜びの弾むような音楽も束の間、荒々しい音が現れる。

狩人が現れ、青年から娘を奪ってゆくのである。

「ああ、涙は5月の緑を育てはしない、死んでしまった愛を再び花咲かせはしない。

それでも春はやってきて、冬は去ってゆくだろう、そして花が草のなかに育つだろう。

僕の墓のなかに置かれている花々、その花々は、みんな、彼女が僕にくれた花だ。

そして彼女がこの丘に通りかかったとき、心のなかで思ってくれたなら......『あの人は誠実だった』と!

そのときには総ての花々よ、咲き出せ、咲き出せ!
5月が来たんだ、冬が去っんだ」
(第18曲 枯れた花)

こうして青年は死を選ぶのであるが、シューベルトは嘆きの淵にある青年の歌、そして、青年の霊を慰める最終曲「小川の子守歌」にもっとも繊細で優しく美しい音楽をつけるのである。

シューベルトの共感は、恋に弾む青年の心ではなく、死を見つめる青年の暗い心にこそ、向かっていたのであろう。

ロマン主義においては、死は
「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて」、個人を解放してくれる最後のよすがだったのかもしれない。

31歳で夭折した天才シューベルトが、歌曲集『美しき水車小屋の娘』を作曲したとき、まだ26歳であったことを考えると、やはり私は哀しく思い出してしまうのである。

ここまで、読んで下さりありがとうございます。

今回は、どのシリーズということもなく、シューベルトの『美しき水車小屋の娘』を描いてみました( ^_^)

もう少しで、ゴールデンウィークですね(*^^*)
皆さまは予定を決められましたでしょうか??

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

精神科の診断における過去の「流行」が及ぼした害を知る意味(後編)-闘病生活を経て考えてみたこと④-

2024-04-23 05:47:28 | 日記
流行は、もっともらしい概念と私たちの群居本能が組み合わさったときに生まれるものかもしれない。

それは、不安定、不確実、変化の時期に付き物なのであろう。

流行は、原因が根深く、人間の在り方そのものに関わっている場合もあれば、かなり特殊で、歴史の流れ、ヒットした本や映画、新しい治療法に関わっている場合もある。

最初のメディアに煽られた流行に、吸血鬼に対する不安の流行(1720年ごろ~1770年ごろ)というものがあった。

吸血鬼に対する恐怖は、遙か昔に遡り、人間の心に深く刻み込まれている。

いつの時代も私たちは、

「死者をどう扱えばよく、死者に起こったことをどう理解すればよいのか」
という根源的な問いを突きつけられてきた。

どの文化も、このきわめて実存的な問いに、独自の答えを見出している。

手の込んだ埋葬様式と民間伝承は、生と死のもしかすると隙間だらけの境界線を管理するために編み出されているのであろう。

「死者をどう扱えばよく、死者に起こったことをどう理解すればよいのか」という問題は、狩猟採集生活をしていた遊牧民族が農耕を行うために定住し、文字通り死者の上で暮らしはじめたときに、人々をひどく悩ませるようになった。

かつてなら、死体は、部族が移住するときに置き去りにすればいいので都合がよかったのだが、死んだ祖先のそばで暮らすことを余儀なくされると畏敬の念が生じた。

誰かが病気になったり、何か悪いことが起こると、死者が(足の下で生きており、嫉妬や復讐心や不満に駆られて)よみがえり、理不尽な要求をしているのかもしれないと心配することは理に適ったことであった。

吸血鬼信仰では、これがそのまま信じられたのである。

この死者の理不尽な要求という考えを基にした流行は、18世紀の中央ヨーロッパで50年にわたり続いた。

啓蒙時代の見せかけの知的平穏は、動乱が続き、封建制度からほとんど抜け出せていないヨーロッパがうわべを覆い隠しているに過ぎなかったのである。

吸血鬼信仰は「アンデッド(生ける亡者)」についてのスラブ民話が、拡大するオーストリア帝国の新しい隣人たちに口づてで広められたときに現れた。

それに対して、ハプスブルク帝国の役人たちは、あまりに官僚的に対応するという誤りを犯した。

役人たちは、念入りな調査を行い、土地に伝わる吸血鬼の最適な退治法を詳しく述べた詳細な報告書を広く流布したのである。

こうして、正式に認められた結果、「アンデッド」に対する恐怖が瞬く間に村から村へと広まった。
やがて、物書きたちも輪に加わり、扇情的な吸血鬼文学を作り出して火に油を注ぎ、目撃者を大量発生させたのだった。

「襲撃」とされるものが、1722年にプロイセンで報告され、1720年代~30年代までにオーストリア帝国の全域で報告された。

vampireという語が英語にはじめて現れたのは1743年で、中央ヨーロッパの旅行記に登場した。

これは歴史で最初のメディアに煽られた流行だったが、最後にはならなかった。

吸血鬼に対する不安の流行は、かなり最近まで、医療技術が未発達であったため、生者と死者の明確な境界線を引けないためなど起こったといえる。

やはり、流行は、不安定、不確実、変化の時代に付き物だと言えるのかもしれない。

さて、前編で、「神経衰弱」「ヒステリー」「多重人格障害」が19世紀末には見られた3つの流行で在り、その当時の状況が現在の状況とにているところがあることについて描いた。

今回は、20世紀への変わり目のころに、ヨーロッパで、よく知られるようになった「多重人格障害(MPD)」から、過去の流行から最近の流行までをみることによって今に繋がる教訓を探そうと思う。

「神経衰弱」や特に「ヒステリー」に続き、「多重人格障害」においても、ハーメルンの笛吹きになったのは、やはりカリスマ性に富んだ神経科医であるジャン=マルタン・シャルコーであった。

シャルコーは、催眠術を一般的な治療法にすることに尽力した。

催眠状態は、それまで自意識の外に置かれていた受け入れがたい感情や空想や記憶や衝動を明るみに出した。

暗示にかかりやすい患者と暗示にかかりやすい医師が協力した結果、個人には隠されたパーソナリティーがあるという概念が作り出された。

「解離」いう現象を通じて、この隠されたパーソナリティーは独立した存在となり、主人格はその行動をコントロール出来なくなる。

しかし、多重人格障害は催眠術師が精神分析医にとって変わったときに消え去ったのである。

精神分析医は隠された(抑圧された)パーソナリティーの統合よりも、抑圧されて断片化した記憶に患者の注意を向けさせたのである。

1950年代半ば、クレックレーとセグペンが著した『私という他人』が出版されて人気を博し、『イブの3つの顔』として映画化されたことがきっかけとなり、多重人格障害は、束の間復活した。

しかし、長続きしなかった理由は、大部分のセラピストが精神分析の訓練を受け、多重人格障害に興味を持たなかったからである。

1970年代にシュライバーが著した『失われた私』が出版されたときは、流行はもっと長く続いた。
多重人格障害の症例数は急増し、流行が流行を呼んで1990年代はじめにピークに達したが、発生したときと同じくらい唐突に終息した。

多重人格障害の復活を後押ししたのは、催眠術などの逆行的、暗示的治療に、セラピストが改めて興味を持ったことだった。

多重人格障害は、いってみれば、メタファーがひとり歩きしたすぎない。

何が起こっているかをわかっていないのは、患者もセラピストも同じであった。

暗示にかかりやすいセラピストが暗示にかかりやすい患者を治療すれば、ありふれた精神科の問題をおしなべて多重人格障害にしてしまうのは難しいことではなくなってしまうのである。

自己認知に反する、脈絡がなくて受け入れがたい衝動や行動に 一貫性を与えるために、 患者と医師が「交代人格」を呼び出して告発するのである。
それが独立した存在だと想定するのは、そからたいして飛躍しているわけではない。

また、情報と支援を即座に与えられるインターネットの力も、この流行を煽った。
そこでは、誰の「交代人格」が1番多いかを決める競争すら起こったのだが、保険会社が支払いを止め、疲れたセラピストが現実に目覚めると、多重人格障害の治療を求める声は激減したのである。

DSM-5の作成時、多重人格障害はマニュアルには載ったが、DSM-5の作成者も、セラピストと患者の暗示のかかりやすさにより一時的にも多重人格障害の流行を繰り返していることを憂慮している。

今、世界は足を止め、冷静に多重人格障害から遠ざかってはいるが、大ヒット映画やカリスマ性に富んだセラピストの登場次第で、いつでも新しい流行は起こり得る。

過去の流行を知っておくことは、現在、何が流行ろうとも、疑いの目で見ることに役立つはずである。

私たちが、現代や未来の愚かな流行に飲み込まれないようにする最善の方法は、かつての流行が及ぼした害を認識しておくことである。

後編でも、最後に繰り返すが、歴史がそっくりそのまま繰り返すことは決してない。

その複雑な相互作用には、無数の確率の組み合わせがあるからである。

しかし、歴史が韻を踏むことはたしかである。

たとえ、見た目は流転していても、歴史を形作る根本的な力はかなり安定しているからである。

私たちは、過去の韻をよく知るほどに、未来にそれを分別なく繰り返すことは少なくなる、と、私は、思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

精神科の診断における過去の「流行」が及ぼした害を知る意味の(前編)に続き、やっと(後編)-闘病生活を経て考えてみたこと④-を描かせていただきました( ^_^)

急激に暑くなり、体がついてゆかず、ゆっくりとしてからの更新となりました^_^;

皆さまも体調に気をつけて下さいね(*^^*)

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

精神科の診断における過去の「流行」が及ぼした害を知る意味(前編)-闘病生活を経て考えてみたこと③-

2024-04-18 06:48:00 | 日記
1774年、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』が発表されたが、この小説ほど、偉大な文学の力と流行の危険性を、まざまざと証明しているものは、あまりないであろう。

失恋とロマンチックな自殺を描いたこの半自伝的小説は、新たな現象を生んだ。

著者はセレブになり、本はファッションガイドとなった......だけ、ならよかったのだが、ウェルテル効果はヨーロッパ中に波及し、服装や話し方や態度に影響を与え、模倣自殺という死の連鎖を引き起こした。

皮肉なことに、ゲーテは失恋を克服し、この小説を否定して、悪影響をもたらしたことを悔いながら長生きすることになった。

ちなみに、主人公のファウストは、海を埋め立てるというもっと安全な楽しみのために、気まぐれな色恋の誘惑を断ち切っている。

ただ、ウェルテル効果は、当時のゲーテひとりが悩んで悔いるだけの現象ではなく、1774年以降も突発的に発生しており、私たちも、流行の危険性について考えさせられる現象である。

模倣自殺には、ふたつのパターンがある。

群発自殺と集団自殺である。

群発自殺は 、有名人の自殺または親戚や友人や同級生や同僚の自殺を人々が模倣するときに発生する。

自殺が伝染するという懸念は現実にあり、CDC(アメリカ疾病対策センター)がメディアによる報道のガイドラインを示しているほどである。

CDCは、事実に基づく簡潔な記事にとどめ、派手な扇情表現、興味を煽る粉飾、詳細な方法の記述、自殺の美化など、自殺が理に適った選択や不朽の名声を得る手段であるかのような示唆はすべて避けるべきだとしている。

集団自殺には、その社会のなかにおいては、(その社会の外側から見ればいかに間違っていても)もっともらしい動機がある。

例えば、敗れ去った軍隊やその家族が、敵に殺されたり捕虜にされたりすることを潔しとせず、集団で自殺したエピソードは歴史には、ある。

また、それと比べて数は少ないものの集団が自分たちの主張を最も強烈に訴えようと自殺する例もある。

しかし、自己破壊的な人は遺伝子を自分ごと忘却の彼方に運び去ってしまう。
生殖のレースに勝利するのは、人生を肯定するDNAであるおかげで、私たちはどんな試練や困難に対しても諦めずに戦い続けるのである。

自殺の流行においては、群居本能が私たちの強力な自己保存本能を打ち負かしている。

群れに加わろうとする衝動が、ときには生存本能に勝るという事実ほど、流行の負の力をよく物語るものはないであろう。

ところで、精神科の診断には、流行がある。

唐突に、誰もが同じ問題を抱えているように見える→大流行を説明するために、胡散臭い説が唱えられる→「こうすれば治る」とこれまた胡散臭い治療が施される→はじまりと同じくらい唐突に、流行は自然に収束し、氾濫していた診断は表舞台から消え去る。

という繰り返しを精神科の診断の流行は辿ってきた。

19世紀末には、
「神経衰弱」「ヒステリー」「多重人格障害」という3つの流行が生まれた。

どれも、当時のカリスマ神経科医であるビアードとシャルコーが、患者の多くに見られた不可解な非特異性の症状を説明しようとしたために発生した。

なぜ、3つの流行が一斉に始まったのか。

そして、なぜ、3つとも神経科医が発生させたのか。

これは、神経科学のめざましい発見が臨床現場のある場合では未熟な発想に不相応な権威を与えかねないという、今日でも非常に的を射た教訓物語となっている。

当時の状況は現在の状況と似ていたのである。

なぜなら、脳の仕組みに対する理解が大変革を迎えつつあったからである。

神経細胞が発見されたばかりで、科学者は(フロイトも含めて)、シナプス結合の複雑な網目を辿ることに忙しかったのである。

脳は電気機械のようなものであり、ちょうどその頃発明され、日常生活の表舞台に登場しつつあった数多くの新しい電気機器よりもはるかに複雑ではあるが、根本は変わらないということがあきらかにされていた。

脳の新しい生物学は、それまで、哲学者や神学者の抽象的な世界に属するとみなされていた行動を説明するものだった。

人間の魂の深奥を探ることは不可能であっても、人間の脳の具体的構造や電気的結合を理解するのは可能なはずであった。

症状は、悪魔憑きや呪いや罪や吸血鬼の産物などではなく、脳という機械の配線に不具合が起こっているのだと解釈することが出来るようになったのである。

これは、当時から現在に至るまで有力で妥当なモデルになっている。

しかし、問題は、当時も現在と同じで、脳という恐ろしく複雑な機械の秘密を探ることがどれほど難しいかということを、甘くみていたことであった。

当時(も)、神経科学の抵抗しがたい権威は、あまり意味のない軽薄な臨床現場の概念に、不相応な箔をつけてしまったのである。

こうして「神経衰弱」「ヒステリー」「多重人格障害」(→それぞれについては後編で詳しく取り上げる予定)の3つの流行が生まれたのである。

3つともそれぞれ異なる形で、人間の非特異性の苦しみにレッテルを貼って(→ここも後編で詳しく)理解したフリをしようとするものであった。

結局のところ、どれも有益ではなく、ある意味ではどれも有害であった。

なぜなら、原因についての説明は誤っており、推奨された治療はせいぜい偽薬効果が望めるくらいであり、治すつもりの問題をなおさら悪化させるときも多かったのである。

しかし、これらのレッテルは説得力があるように聞こえ、新興の神経科学の大きな権威を拠り所にしており、カリスマ性のあるオピニオンリーダーが後押しし、説明を求める人間の欲求にも適ったために、何十年も広く使われたのである。

このようなことは、現代にもそのまま当てはまるようであり、重要な教訓を与えてくれる。

それは、実にもっともらしいが不正確な原因理論が、医師と患者を欺くことがあるということである。

つまり、最も有力であった斬新な説が、実のところ完全な間違いであった、ということがあるのである。

今日の説の多くも同じ路を辿るかもしれない。

だからこそ、過去の流行を知っておけば、現在で何が流行しようとも疑いの目で見ることに役立つはずである。

現在や未来の愚かな流行に飲み込まれないようにする最善の方法は、かつての流行が及ぼした害を認識しておくことである。

歴史がそっくりそのまま繰り返すことはない。

その複雑な相互作用には、無数の確率の組み合わせがあるからだ。

しかし、歴史が韻を踏むのはたしかである。

たとえ、見た目は流転していても、歴史を形作る根源的な力はかなり安定しているからである。

過去の韻をよく知るほどに、現在に、そして、未来にそれを分別繰り返すことは少なくなる、と、私は思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

また、数日間、不定期更新となりますがよろしくお願いいたします( ^_^)

精神科の診断の過去の「流行」が及ぼした害を知る意味の後編は、次回以降、不定期更新の後に描きたいと思います(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

ありふれた内気を社交不安症にする社会-闘病生活を経て考えたこと②-

2024-04-17 07:16:08 | 日記
オルダス・ハクスリーが描いたディストピア『素晴らしい新世界』は、苦痛からの解放が、脳の死に容易く変わってしまうことを示しているようにも、私には、思われるときがある。

私が、闘病生活(過剰処方からの脱却も含む)を経て考えたことは、
人生の困難に対する私たちの自然な反応を、病気の同義語にするべきではないということ、
また、どんな失意にもあてはまる診断があるわけではないし、どんな問題にも使える薬があるわけではない、ということである。

「偽薬より抗うつ薬の方が効くかどうか」
をめぐっては未だに論争が盛んに行われている。

なぜなら、研究で治療される患者の多くが、あまり重いうつ病ではなく、積極的な薬物療法実は不要である場合があまりにも、多いからである。

では、それを認識し、診断のハードルを適切に上げれば、過剰処方はなくなるのだろうか。

DSM-5がうつ病の診断を後押しして、抗うつ薬の過剰な普及をも正当化してしまったことは、事実である。

しかし、たとえ処方対象になる特定の診断がなくとも、むやみな処方が起こりうることを示す歴史上の先例がある。

抗不安薬のバリウムとリブリウムは、今日の抗うつ薬並みに1970年代~80年代のアメリカを席巻した。

つまり、明白なターゲットがなくとも、DSMが何を言おうが言うまいが、人々は、利益第一の製薬企業と一部の軽率な専門家に従って薬を飲み続けてしまうかもしれないのである。

歴史上の先例はもうひとつある。
こちらは、かなり古く、シャーマンの時代にまで遡る。

アルプスの氷河に良好な状態で保存されていた5000年前の男性のミイラは、人間は気分が悪いときには決まって気分が良くなるものを飲みたくなると言うことを教えてくれる。

彼は、薬草の入った小さな袋を身につけていた。
その成分は、当時のプロザック(抗うつ薬のひとつ)そのものであった。

歴史の曙から飲まれてきたほとんどの薬は、病気を問わず、また、時代を問わず、せいぜいわずかな効果しか望めず効き目がないか、直接の害があるか有毒であった。

それでも、シャーマンや神官や医師はそれらを処方し、患者は従順にそれらを飲んで見かけ上の恩恵を得ていたようである。

効果がなく、害をなす恐れがあっても、なお、薬の魔力は生き続けているのであろう。

どうも偽薬好きは、私たちのDNAに刻み込まれているようである。

一部の人々や製薬企業が自らの利潤のために助長している「病気」のために、何百万もの人々が有害である恐れのある高価な薬を飲んでいることを思うとき、私は、反発を感じざるを得ない。

そのような「病気」が実はありがちな不快や人生の悩みに過ぎず、生きていれば避けて通れないことを私たちは、知っている。

軽度か一過性の症状が出ている人たちの大多数にとって、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)は非常に効果で有害の恐れのある偽薬にすぎない。

時間、自然な回復、運動、周囲の助け、精神療法などが持つ力を私たちはもっと信頼すべきだし、化学的不均衡や薬に自動的に信頼を置くことはもっと避けるべきであろう。

もちろん、このようなことはうつ病が長引いたり、重かったりする場合にはあてはまらないが、精神医学は、助けを必要とし、助けから利益を得られる本当の病人を治療すべきであり、一部の利潤のために、人間が困難に直面した際の自然な反応までもを精神疾患に変え、薬を過剰に処方するために、時間と金と労力を浪費すべきではないだろう。

社交不安症(当時は社会恐怖症と呼ばれた)は、ありふれた内気を一時期、精神疾患のなかで3番目に多い疾患に変えたことがある。

有病率は7~13%(どれほど軽々しく診断を下すかによって変わってくる)である。

一時期、アメリカだけで、社交不安症の条件を満たす成人は、1500万人以上もおり、製薬企業にとって格好の宣伝対象となったのである。

内気は、誰にでも見られる完全に正常な特徴であり、後悔するよりも安全である方を選ぶ、と、いう生存上の大きな利点がある。

私たちの祖先が、安定した状況で日々を生きていくために、新しいものや試していないものを回避することは、賢明な態度であっただろう。

そうでなければ、回避を好むDNAはこれほど広く生き残れなかったであろう。

もちろん、社交不安症が生活に多大な支障をもたらしていて、誰が見ても精神疾患にほかならない人もいる。

しかしながら、そのような人は少なく、あまりにも小さな市場なので製薬企業は関心を示さない。

製薬企業が長けているのは、それらの人の展延した捉え方である。

つまり、製薬企業は、わずかに内気すぎる性向が、薬物療法の必要な精神疾患へと手品や魔法のように変えてしまう世界を、思い描いてしまうのである。

内気がふつうに見られるものであることが、かえって製薬企業に豊富なマーケティング対象を与えたのである。

正常な内気を精神疾患の社交不安症から隔てる明確な境界線は、ない。

そこで、製薬企業は総力をあげてのキャンペーンを開始し、内気な人たちすべてに「自分は病気だ」と思い込ませ、治療を受けなければ損だと信じさせようとしたのである。

製薬企業にとっては、都合のいいことに、有名人の多数が、現にひどく内気で、喜んでサクラになってくれることがわかった。

社交不安症(繰り返すが、当時は社会恐怖症と呼ばれていた)と診断されたことを公表し、ようやく適切な治療を受けたおかげで解放されたというある意味生き証人になってくれたのである。

医師たちもまた製薬企業から一大攻勢をかけて丸め込まれてしまい、
「医師の診断を」という宣伝の指示に従って訪れた「患者」候補に進んで抗うつ薬のパキシルを処方した。

やがて、社交不安症は珍しいが影の薄い精神疾患から、最もよく見られて最もよく治療されている精神疾患のひとつになったのである。

さらに、社交不安症には、製薬企業がマーケティングをする上で好都合な特徴があった。

それは、診断を受けた人のほとんどが、実際には病気ではないので、容易く回復させることが出来ることである。

そのような人々は偽薬に高い反応を示してしまうのだが、製薬企業にとって、その高さは魅力であった。

「ほんとうは病気ではない」だれかが、「ほんとうは必要のない」薬の偽薬効果によって回復すれば、そのひとは、薬を止めるという危険を冒すよりは、幸運のお守りとして、薬を使い続けることになりやすいからである。

しかし、なんの恩恵もないのに、むしろ害になるのに忠実な常連客に仕立て上げられ、服薬を続けることによって、余計な合併症を招く可能性があることなど、製薬企業は教えてなどくれない。

人生の困難を排除することは出来ないし、人生の困難に対する自然な反応は必ずある。

しかし、まずは、必要のない状況にまで強引に押しつけられるべきではない過剰な診断や過剰な投薬があることを、人生の困難に直面したとき、思い出そう、と、私は、思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今回は、闘病生活を経て考えてみたことシリーズの②を描いてみました。

良かったらお時間のあるときに読んでやって下さいね(*^^*)

今日は予報と違い、朝から晴れました( ^_^)

天気が良いと、なんだか嬉しいです(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。