「精神治療薬の投与は有効かつ安全だ。」
という考えから派生する楽観論には必ずと言っていいほど、悲惨な裏面がある。
哀しいことに、誰かが、利益を得れば、それと引き換えに誰かが、大きな損失を被るのは世の常であるようだ。
特に、年端もいかない子どもたちを「顧客」にすれば、彼ら/彼女らを一生、「顧客」にできると考えた製薬会社は、注意欠陥・多動性障害(以下ADHD)や小児双極性障害(以下CBD)の拡大された定義を売り込み、新たな流行を作り出した。
製薬会社のマーケティングは不必要な薬物療法を生みがちである。
ひとたび、DSM-5の厳格な定義が投げ捨てられてしまうと、拡大解釈された、または「偽陽性」を示して誤診されしまった子どもたちにADHDやCBDを「治療」するために不必要な精神刺激薬や気分安定薬や抗精神病薬がばらまかれたのである。
結果は、惨憺たるもので、投薬「治療」の結果、ADHDの場合は、子どもたちは、不眠、食欲減退、短気、心拍の異常、さまざまな精神科の症状などの有害な副作用に苦しむことになってしまった。
また、CBDの場合は、子どもたちは急激に太り(12週間で平均5.4㎏も体重が増え)、糖尿病のリスクが高まり、寿命を縮めている恐れすらあるのだ。
さらに、そのことは、ADHDやCBDに対する大きな偏見を生みがちであり、その偏見のせいで子どもは生涯にわたる病人として、生涯にわたる治療を受けなければならなくなる。
このような診断は、子どもたちの人生の物語を歪め、叶えられたはずの希望を捨てさせ、望まれない行動に対するコントロール感や責任感も失わせかねないのである。
(ちなみに、感情の爆発はほかにもっと具体的な原因があり、それらは長続きせず、期間限定の治療でなおせる。
DSM-5の作成者のひとりは、双極性障害の項目に黒枠警告を記して、「みだりに軽々しく診断を下すべきではない」と臨床医を戒めればよかったと思う、と告白している。)
さて、診断の乱発と薬の過剰な使用をどうすれば減らせるのであろうか。
過剰な処方を行っているのは一握りの医師にすぎない。
彼ら/彼女らにも、特にADHDやCBDに関して言えば、
製薬会社が教えることと反対で、少しずつ診断する「段階的診断」が最善のアプローチであることを認識してもらわなければならないであろう。
製薬会社が教える「撃つのが先で狙うのはあと」という診断と投薬は、症状が非常に重く、切迫している場合「のみ」である。
多くの場合はそうではないので、手を出さずに注意深く見守る間に、症状が短期間で消えるか、ある程度は軽減するので、その後、オリエンテーションによる教育や精神療法といった段階を踏みながら、診断の確定と薬物療法をという最後の段階になるが、診断の確定と薬物療法は、それまでの段階で適切な反応が得られなかった場合に限るべきではないだろうか。
日本では特に、理想論かもしれないが、私は、そう思うのである。
ただ、残念ながら日本に限らず、「段階的診断」のアプローチを奨励する、十分な資金に支えられた啓発キャンペーンは、一般に対しても医師に対しても行われていないのが現状である。
したがって、やはり、
「さっさと診断して何も考えずに薬を処方しよう」
という製薬会社のメッセージが相も変わらず氾濫し続け、未発達なだけで正常な子どもの多くを精神病の患者に変え、まだその時期でもないのに不必要な量の薬を飲ませているのである。
ルイス・キャロルは『不思議の国のアリス』のなかで、ハンプティ・ダンプティに
「自分にはことばを支配して、その定義を左右する力がある」
とほらを吹かせている。
しかし、そのあと、ハンプティ・ダンプティは、高慢の報いを受けて、塀の上から落ちて潰れる。
読者やアリスは、鏡の国で、
「ことばが制御不能になって、文脈にまったく関わりなく、さまざまな紛らわしい意味を帯びること」
に何度も何度も気づく。
同じように医師も患者も、DSM-5の中の、ことばも制御不能になってしまっていることに、最近になって、何度も何度も気づいているのかもしれない。
今、明らかになっていることは、
「診断システムはどのようなことばが書かれているかではなく、どのようにことばが使われるかによって影響力を持つ」
と、いうことである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、暑くなりそうですね^_^;
体調管理に気をつけたいですね( ^_^)
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。