年明けにS村から横浜へ帰るため、初めて飯田線を
利用することになり、そのチケットを買いに行ったのだ。
ここは観光地でもある。天竜川を臨む遊歩道が山側に
あるというので、登ってみることにした。
その入口で遭遇したのが「あゝモンテンルパの夜は更けて」の碑。
戦後、渡辺はま子さんという歌手が歌って大ヒットした歌だ。
碑には作詞者である代田銀太郎さんの名と共に歌詞が刻まれている。
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ひとつ前のブログに書いたが、私はこの歌の背景となった
実話を基にして、横浜夢座の舞台「奇跡の歌姫 渡辺はま子」
の脚本を書いた。それから20年以上も後に、このような場所で
この歌に逢うとは、想像もしていなかったので驚いた。
だがすぐに、代田銀太郎さんの故郷は天竜峡のある飯田市
だったことを思い出した。
じつはS村で暮らすようになってから、戦争について
思いをあらたにする機会が多くなった。
隣の阿智村には満蒙開拓平和記念館がある。
日本は国際的な大批判をかえりみず、中国に侵略し、
満州国という傀儡国家をうちたてた。
満州地方(中国東北部)の人々から半ば強制的に土地を奪い、
「桃源郷・満州国」を日本国民に大宣伝。
日本の農村は昭和の大恐慌でどこも疲弊していた。
国策事業だというので、これを信じ、たくさんの人々が
満州移民となった。村を挙げて移住するケースもあった。
長野県からの移民はことに多かった。義勇軍も含めて
約38000人もの人々が渡満したという。
(『長野県満州開拓史 総編』長野県開拓自興会
満州開拓史刊行会編・1984年発行)より。
しかし待ち受けていたのは桃源郷とは真反対の現実だった。
土地を奪われた現地の人々の憎悪。
そして迎えた終戦の大混乱。
ソ連軍の侵攻もあり、飢え、病気、怪我、暴行、
が横行する中、絶望の末の集団自決もあった。
凄まじい数の命が無残に奪われ、中国残留孤児という、
後々まで続く悲劇まで生んだのである。
戦争には正義などない。どちらの国も加害者であり
被害者でもある。
モンテンルパの刑務所では、無実だったかもしれない
人も含めた日本人BC級戦犯が、何人も死刑になった。
一方、S村と同じ下伊那郡の天龍村には、戦時中、敵である
連合軍の捕虜を収容する施設があった。その捕虜たち及び、
中国、朝鮮から強制送還された人々が、この村に国策として
造られた平岡ダムの建設に従事させられた、
彼らは使い捨ての労働力として、劣悪な条件下で
重労働を強いられた。結果、多数の命が失われた。
平岡ダム
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このダムのそばには犠牲となった中国人労働者の
慰霊碑が建てられている。そして5年に一度、天龍村および
飯田市日中友好協会などの実行委員会による慰霊祭が開催されている。
その貴重な日の当日、私は信濃毎日新聞の
「犠牲と加害 刻む天龍」という記事でこのことを知った。
急いで現地へ出かけ、邪魔にならない距離からそっと合掌。
天龍村の中学生たちも参列していた。
若い世代への語り継ぎが、ここではちゃんと行われている。
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なぜ戦争が起きたのか、それはどんな結果をもたらしたのか。
知るのは辛い。が、知らなければその「正体」もわからず、
また同じことが起きる。現にいま、世界のあちこちで起きている。
憎しみの連鎖という、終わりのない悲劇を生み出さないためにも、
こうした歴史から目を背けてはいけない。
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