私たち救われたクリスチャンにたいして、イエス様が話されたみ言葉です。
私も、悩みがいっぱいあって、教会にいきました。
劣等感の塊でした。
少しでも性格が明るくなるようにという思いから、イエス様はそれをかなえてくれると信じて洗礼をうけました。
そして、45年がたちました。
クリスチャンになっても、不平、不満ばかりでした。
でも、ある時、このみ言葉にであって、イヤな時も感謝しようと決心して、それを実行しました。
すると、気持ちが前向きになって、重たい気持ちがなくなりました。
どうしてそうなったか、今、思うと、聖書の言葉には、イエス様を信じる人は、天地の始まる前から、すでに、神様に
選ばれていたということです。
歴史を導く神様は、ひとりひとりの人生にご計画があります。神様のご計画は世の終わりまで続きます。
そして、その計画は災いではなく、将来に希望を与えるものですとあります。
そのようなご計画の為に、私は生まれる前から、まだ、母の胎内で、骨も形つくられない時に天の神様の命の書に、
私のすべてがかきしるされたとあります。
そして、今もそのご計画は続いているのです。
そして、神様にえらばれて、神の子とされ、罪許されたものは、何を着よう、何を食おうかと心配するな。まず、神の
国と神の義をまず、最初に求めなさい。そうすれば、それらは、すべて与えられるとあります。
イエス様を信じている人は、聖霊さまが私たちの心にいつもともにいて、まちがった道に行ったときは、軌道修正をし
てくださり、心に平安をあたえてくださるので、どんな心配な時も心は平安です。この平安は、どんなお金がある人
や、どんな社会的地位の高い人などが持てないくらいのすばらしいものです。人間である以上、皆心配事、悩み、う
らやましい、などの気持ちを取り去ることができないからです、
なぜなら、人間はうまれてオギャーと泣いた時から、罪をもって生まれてくるのです。
その罪とは、本当の神を神としない心、お父さんお母さんを敬わない心、うそをついたり、人を殺したり、盗んだり、
人のものをほしがったり、姦淫したり、本当の神様以外の、紙や石や、木の人の手でつくられた神を拝むことなど罪
といいますが、この罪を許して下さるかたは、人間ではできません。
罪の身代わりに、何も罪のないイエスキリスト様が、十字架にかかって、私たち人間の罪の為に、しんでくださったこ
とで、自分の心にある罪がすべて、許されました。
私たちがイエス様に、罪を告白して、許してくださいとお祈りすれば、その罪は、すべてゆるされるのです。たとえ火
のように赤い罪でも、雪のように真っ白になると聖書ではかかれています。
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