私は、昭和23年12月6日生まれです。
私の父は中部配電につとめていました。
私には兄が一人います。
父と母はお見合いでした。
父は、戦争前、愛知商業大学を卒業して、中部電力≪中部配電)につとめていました。
父の親とは離れ、寮生活をしていたと聞いています。
父の本籍地は静岡県富士宮市下條というところです。
おじいさんのおじいさんのおじいさんは神主をしていたときいています。
私のおじいさんのお父さんが破産して、財産を全部なくしたようです。
お墓がありますが、そこは、以前、屋敷の中にあったようです。
庭には金塊がうまっていたと聞いたことがあります。
おじいさんはあまり会った記憶はないのですが、林業の研究をしていたようです。
おばあさんは清水市の興津の人だったようです。
父は戦争にいきました。ビルマにいって、食糧調達の事務をしていたようです。
帰ってきた後、私の兄が生まれる前、国から勲章をもらっていました。それは、長年消防署の所長さんをしていた人がもらう勲章と同
」
」じです。
すべての人が勲章をもらうわけではないので、兵隊さんでも責任ある地位にいたのかもしれません。
母の父は、戦後清水市で、県会議員や歯医者をしていて、戦後8年間、清水市長をしていました。
ちょうど、兄や私が生まれた時、清水の母の実家は市長さんの家だったようだ。
母は、結婚当時、お嬢様でしたので、後で話をきいたことですが、男の人の事は何も知らない人だったようだ。
丁度、私が母のお腹にいた時は、1歳上の兄がいて、戦後の時だったので、世の中ごたごたしていたのでしょう。
母の母親は、母が7歳の時、最後の子供を産んでいるとき、妊娠中毒で亡くなりました。
母の兄弟は兄3人、妹3人、弟1人でした。其のうち戦時中結核で亡くなった人が弟と妹2人です。
母は長女なので、自分の母親を早くなくし,お祖母さんにそだてられたようだ。
弟、妹の世話もしたのかもしれない。
娘時代まで、お手伝いさんやお祖母さんに育てられたのかもしれない。
なので、子育ての時、たぶん、あまり相談する人もなく、一人で考えながら育てたのかな。
母は父とあまりうまくいかなかったようだ。
父は、出張したその地で、他の女の人と仲良くなったときいている。私が3歳の時は、ほとんど家にかえらなかったようだ。
なので、私が病気の時は、私が現在も親しくしている、祖父の従兄の勝司叔父さんの家に、私をおんぶして相談にいったようだ。そ
この娘さんの博子さんが「光ちゃんは、真っ赤な顔をして、お母さんにおんぶされて、ここにきたことがあったよ。」
兄の話を聞くと、父は、選挙の時、祖父は自民党だったが、父は共産党を応援していたといっていた。
中部電力では、組合の仕事をしていたようだ。
なので、祖父とはあまり、よい関係ができなかったようだ。
そんな話を最近、兄からきいた。
なので、家庭環境は、私が生まれてから、暖かいものではなかったのかな。
イエス様の事も全然しらなかったとき、祖父は仕事がら、カソリックの神父さんとお付き合いがあったようだ。
2番目の奥さんの連れ子がクリスチャンで、清水のカソリックの教会にいっていた。
そこに、日本鋼管の重役の奥さんがいて、よく、その奥さんが清水の家にきていたのを思い出す。
なので、キリスト教とは全然無縁の家ではなかった。しかし、私の祖父は、日蓮宗の信者で、毎日お線香をあげて、お寺の役員もして
いたようだ。
なので、キリスト教とは全然無縁の家ではなかった。しかし、私の祖父は、日蓮宗の信者で、毎日お線香をあげて、お寺の役員もしていたようだ。
6歳の時、父が亡くなって、私たち兄弟は祖父の家に引き取られた、母は、一人東京にいって、家政婦として、働いた。祖父とは大喧
嘩してでたいった。というのも、当時2番目のお兄さんの会社が倒産して、私の父の退職金を全部そのお兄さんの会社の為にあげて
しまったのです。
そして、福岡から私の父型のおじいさんとおばあさんが孫を迎えに来た時、父の妹が結核性の脊椎カリエスをわずらっていたことで
、子供に移るといけないからといって、孫をわたさなかったようだ。
其の為、父型の祖父は、倒れてしまったそうだ。
私も、もし、そこでおじいさんといっしょに福岡にいっていれば、たぶん、クリスチャンにはなっていなかったかな。
18歳まで、3番目のおばあさんに育てられた花、そのお祖母さんは、子供を育てたことがなく、冷たい人だった。
お茶とお花の先生をしていたが、毎日忙しそうだった。
私たちの世話は、お手伝いさんにまかせていた。
お祖母さんの事もこの年になったら、その気持ちがわかる。
お祖父さんの老後の世話㋔ために、息子や娘が探してきた人だったのです。
この人も、お嬢様で、お父さんは、銀行の偉い人だったらしい。お姉さんは、東京の麻布の三井家の隣に住んで、、お香の先生をし
ていたようだ。
結婚前は生命保険会社ではたらいていたといっていた。お金のことはとても節約家だった。
少ない年金でお祖父さんと私たちを世話して、自分もお茶とお花の先生をして、収入を得ていた。
足が昔、水虫の治療で、レントゲンをかけて、ケロイドになり、いつも、つま先であるいて、病院通いをしていた人だ。
でも、その人は、私を高校まで出してくれた。
そこを、出るまで、私はその人に愛情を感じたことはなかった。」
青春時代、私は、何も生きがいを感じられず、性格的に暗い人で、あまり、人とコミュミュケーションできないひとだったので、高校の
]時、自殺未遂もする。20歳の時、イエス様を信じる機会が与えられ、それまでの人生が何であるかもわかりませんでしたが、イヤ
な思い出も今では、感謝できるようになる。神様のご計画はイエス様を信じた人に天地の始まる前からすでに、ご計画があったのです。
神様に選ばれ、神の子とされるということは、とても、すばらしい、心の平安を与えられるのです。
なにを着よう、なにを食おうかと心配するな。それらは、すべて、神様がご存知です。まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれ
ば、それらはすべて与えられます。(聖書)
いつも、喜んでいなさい、たえず、祈りなさい、すべての事に感謝しなさい。(聖書)
私があなた方に立てた計画は災いでなく、将来と希望をあたえるものです。(聖書)」
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