
私が仕事をしているグルーピホームは利用者さんを、死ぬまで(看取り)そこでお世話します。
認知症の人が風邪をこじらせたり、骨折したり、脱水になったりすると、普通の人は死にいたりませんが、このような人はすぐ、命にかかわってきます。(命をあずかっている施設といってもいいですね。)
今回も、このホームで一番若かった人でしたが、1週間程、食べ物を食べなくなり、水分も呑み込めなくなった人がいてドクターもターミナルといわれていなかった人でしたが、家族に介護の仕事をしている人がいて、もうターミナルなのではとドクターに聞いたようですが、それが9日でそれから家族もスタッフもそろそろかなという思いを共有したのです。
人は死ぬまえ、食事もほしくなくなるし、水分もほしくなくなるのです。
体がそれにむかって、準備するようです。
なので、私達ホームはその様な状態になってしまった人達に対して、声かけして本人が欲しいといわなければ、職員から無理たべさせたり、飲ませたりする行為はしません。面会にきた家族にとって、まだまだ生きて欲しいという思いがありますから、無理やり飲み込みの良い物をくち入れてあげるなどします。今回も私達の施設の方針を理解できず、施設を変えようと考えたご家族でした。そして、看取りのプロとして痛みに対す利対応も注意深くする介護者にたいして、多くの批判がなされました。
普通の介護施設では、私も以前そういう施設で亡くなる準備をしている人にたいして、無理やり、プリンとかゼリー状のものを口にいれたりした経験があります。
そこでは、危険な状態になると救急車がきて、病院で最期を迎えるというマニュアルがあります。
でも、認知症の人が病院に運ばれても、今までの施設での認知症に対するかかわったスタッフのみんなとのコミュニュケーションはなくなり、人間関係もなくなってしまうのでどんどん認知が落ちていきます。そして、もう施設には帰ってこれません。、点滴したり、経管栄養で喉に穴をあけて、栄養を流し込んだり、人口呼吸器をつjけて、延命治療をするなどの治療が始まります。
穏やかに家族に見守られて亡くなるという環境はなくなります。私達施設は、最後を迎え時期がくると、家族が寝泊まりして、ゆっくりお別れが出来ます。
結局、その利用者さんはやはり、死の準備をされていたのでしょう。4日目に亡くなりました。
娘さん3人と、お孫さんに囲まれて、きれいなお顔で亡くなられました。
もっと、もっと一緒に生活して、歌ったり、おしゃべりしたり、したかったです。
徳島生まれで、若い時大阪に出てきて、洋裁学校にいって、洋裁の技術を習得し、結婚して、三浦の三崎にこられたようです。
子供を3人、大学まで卒業させ、ご主人はマグロの会社ではたらいていて、外国の人との営業もあって、ヨーロッパやアメリカとかに行かれたようです。
小泉純一郎さんのお父さん小泉純也さんの選挙参謀として家で講演会をしたこtごもあったようです。
明るい、前向きな性格であまり愚痴もいわず、忍耐強い人でした。
童謡のカラスの赤ちゃんなぜ泣くの、コッケコッコのおばさんに、赤いおぼおし、欲しいよ、赤いお靴がほしいよとカーカー鳴くのよという歌が大好きでよく歌いました。
亡くなる4日前、、背中に褥瘡があって、痛い痛いと叫んでいたのに、私と、もう一人の利用者さんと童謡を歌ってしたら、それに合わせて、大きな声で歌っていて、笑顔がでてきたことを思い出します。
終戦時は10歳くらいだったのでしょう。生まれは徳島ですが、日本中みんなお腹がすいていた時期でもありますのでたぶんお腹がすいていたのかもしれません。
日本がなにもない時代から高度成長にむかって若いエネルギーを精一杯花咲かせ、楽しい大阪での洋裁学校の勉強に励んで、それから結婚された人です。
ご主人は船に乗って3カ月も家をあかして、帰ってこない時3人の子供を一生懸命育て、子供の服は全部自分で縫って、学校の行事にもがんばって、その時代をご主人をささえ、子供を育ててきたごく普通の日本人女性ですね。
ご主人jは地域のリーダーとして大臣となっている人を支え続けた人なので、普通の女性というのはちょっとちがうかもしれませんが、時代を駆け抜けてきた人だと思います。
イギリスの鉄の女として首相になった人でサッチャーさん、アメリカの元大統領でレーガンさんもアルツハイマーの認知症になったことは有名です。
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