津波の映像が一日中、テレビにながれています。私は、いままで、あまり、テレビをみなかったが地震から、ほと
んど、テレビにくぎずけです。
インドネシアでの津波の映像はほんとうに驚いた。人々が、大勢つなみにのまれた映像がながれていた。
今回、10メートルの津波があっというまに、家を、車を、町々を飲み込んでいくのを、あたかも、自分がみている
ように、テレビを通して、見る事ができた。
私の住む、逗子は、海から1キロくらいで、JRの逗子駅、銀座などがある。もし、津波が来たら、一瞬にして、町
が消える。今回も大津波警報が出て、平地の人は、私の住む、山の上まで、避難してきた。」
家や、家財や、服や、車ヤ、パソコンや、教科書や、本や、通帳や、印鑑など、一瞬になくなってしまった人が大
勢いる。
普段、日常生活、をあたりまえにしていた、その日常が、あっというまに、なくなってしまった。
なにを土台にして、生活しているか。
聖書の話に、こんな話がある。
ある、二人の人がいた。
一人は、砂の上に、自分の家を建てた。しかし、嵐が来て、洪水になって、その家は、砂の上にたてたので、こわ
れてしまった。
もう一人は、岩の上に、家をたてた。雨が降って、洪水になっても、その家は岩の上にたてたので、こわれなかっ
た。
これは、生き方のたとえです。
岩の上に建てた家とは、人生をイエス様に従って生きている人です。その人は、どんな、困難がおしよせても、た
おれないのです。たおれても、イエス様が共にいてくださるので、また、起き上がることができます。
砂の上にたてた家とは、イエスさまを第一としないで、自分かってな生き方をしている人です。
その人が大切にしているのは、お金だったり、社会的地位だったり、趣味だったり、学歴だったりするかもしれません。
しかし、今回のような災害に会った時、一瞬にして、それらは、無になってしまいます。
神さまは、神のひとり子を、私たち一人ひとりの罪の身代わりに、死なせました。どうしてか。
それは、神様が私たち一人ひとりを「あなた方は、高価で尊い」といわれ、私たちを愛しているからです。
神はその一人子を賜ったほどに、この世をあいされた。それは、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。
(ヨハネ3章16節
キリスト教は、けっして、外国の宗教ではありません。
私たち、ひとりひとりの、生き方において、人として生まれた以上は、その命は、神様からのプレゼントです。
その、神様は、自然をとおして、太陽をとおして、夜空の星を通して、宇宙を見る事により、昔の人は、感じていま
した。
しかし、自分の心の中に、正しいことをしたいと思っても、正しいことをすることができない心があるのを感じたこ
とがありませんか。
うそはいけないと思っても、嘘をついてしまう。いじめは悪いと思っても、お友達といっしょに、いじめの仲間にな
ってしまうなど、人の心には、罪が生まれた時からあるのです。
その、罪があるかぎり、本当の神様とのコンタクトはできないのです。
イエス様は、人間と神様の橋渡しをしてくださいました。
十字架にかかって、その、罪を身代わりに取り除いてくださいました。
それで、今は、どんな悪い事をした人も、イエス様が、自分の罪の身代わりに十字架にかかって死んでくださった
と、信じて、イエス様に、自分の罪を言い表し、許していただくことができます。そうすれば、その人は、神の子と
していただくことができ、永遠の命を得ることができます。あなたは、砂の家と岩の家とどっちがいいですか。
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