筑豊の縄文・弥生

筑豊の考古学は「立岩遺蹟」「嘉穂地方誌」先史編の2冊に凝縮されている。が、80年代以降の大規模調査成果は如何に。

足元の資料を見直そう。(筑豊編)

2010-08-07 10:32:16 | Weblog
 小生、半世紀と2年生きて来ました。ここ数年は、現場から一歩退き、財務会計・行革・事務事業評価・人事考課・予算・決算等々、まさに、事務吏員としての仕事を行いつつ、訳の分からない外部攻撃にもさらされながら、なんとか生きております。
 遠賀川流域での研究会が数年開かれ、私は主に嘉穂地域の縄文・弥生を担当し、中身のない発表を繰返しておりました。そのあたりから、遠賀川上流域の研究史に興味を持ち始め、結構、大きな課題が積み残されている状況に遭遇しました。
 以前から、いくつかの研究会に顔を出しながら、筑豊の資料がどのように取り扱われているのか、地元根性の塊となって見て・聞いて参りましたが、何が悪いのか、どう考えれば良いのか、筑豊地域がスッポリト抜け落ちてしまっている場合が多々あったように思われます。以前は立岩参りとまで言われ、九州弥生文化研究の牽引役を担った筑豊も、1980年あたりから研究者の目に届かないようになって来ました。それでも、縄文集落や青銅器の複数発見によりなんとか、振り向いてもらえましたが、近年はかなり厳しい状況です。
 これは、筑豊地域の研究者全体の問題であり、どのように情報発信をするのか、そうしなければ、夥しい資料に翻弄される今日では、待っていてもなかなか来てもらえません。9月に行われる埋文研究会では、韓半島系の土器を取り上げられるようですが、やはり、筑豊を含めた内陸部は取り上げられないようです。この問題にしても、嘉穂や田川地域にいくつかあるようで、一つは、玄界灘沿岸地域から中・四国、そして近畿という図式の中で、海岸沿いに分布を示す様子は、想像できますし、一つの流れとして九州と近畿を結ぶ海岸ルートが浮上するわけです。
 しかし、その一方で内陸に分け入った人々も当然想定されるわけで、その証拠をさがすのも必要かと思います。1980年代から今日まで嘉穂や田川地域で莫大な面積が発掘調査され、それこそ、単年度で報告書を刊行し、後は山積み状態の資料がどれだけ眠っているでしょう。私も含め韓半島の土器などほとんど知識がなく、日々発掘に追われていた状況ですから、見落としも当然あります。そのような資料を見直すことが、私に出来ることの1つと考え、進めていきます。
 まずは、報告書の見直しから始めますが、「韓半島系のものかな」というのが何点かあります。いずれまとめて報告するでしょうが、情報は流すべきと考えます。ただし、各担当者の同意のもとです。韓半島系に限らず「おや、これは」と思うものは、概略を掲載します。
まずは、足元から見直しです。
 
 1 昭和59年発掘調査の榎町遺跡から、東部瀬戸内地域の第Ⅳ様式のⅢ段階と同時期と考えられる、凹線文土器片5点ほどが出土するも、当時の私の知識では理解できず、報告書への掲載を行っていない。実測は終了しているため何れ掲載予定。
 注意すべきは、当遺跡では中期後半から末の遺構・遺物は一切確認されていない。整理作業は、当時、九歴の岩瀬さんに3ヶ月来ていただいて指導を願うが、中期の須玖式相当の遺物は確認されていない。極論だが、状況では材地系土器を混在することなく、純粋な形で外来系土器が出土したことになる。おそらく、嘉穂地域は立岩遺跡が頂点に立った時期であり、当該遺跡もその傘下に組み込まれていた可能性が高い。
 この状況をどう解釈するのか、遺物群の再整理が必要である。

 2 旧山田市の成竹遺跡の調査は、福岡県の調査で未報告である。当時の写真から栗原氏が担当した可能性が高い。ここで、問題となるのがサヌカイト製の凸基式有茎石鏃で、長さ4.4cm、幅1.4㎝、厚さ0.6㎝のもので、出土土器から導かれる時期は、中期後半である。実測済みで掲載予定。これは、榎町遺跡の凹線文土器同様に、外来系の影響下に製作された可能性が高く、弥生時代中期後半の立岩遺跡全盛期における外来系文化の内陸への流入を考える上で重要な遺物と考えられる。

 3 旧碓井町の八王寺遺跡の調査で、古墳時代の竪穴住居跡から移動式カマドの把手部分が破片で出土している。八王寺遺跡の報告書に掲載されている。

 4 飯塚市立岩遺跡の最初の調査となった、中山平次郎氏の手による報告「飯塚市立岩運動場発見の甕棺内遺物」に第二図として4点の土器が写真で示されている。その向かって左にある鉢に注目願いたい。以前から飯塚歴史資料館に行くたび、ガラス越し、あるいは、直接観察して感じているのは、どうも半島系の粘土帯土器に影響受けた無文土器系のものと考えられる。色調は白色に近く、全体に楕円のゆがみがあり、底部は厚底で高い、特徴的な口縁部は、粘土紐を貼り付け厚く突出している。一見の価値あり。

 5 飯塚市下ノ方遺跡の報告書「立岩周辺遺跡発掘調査報告書3集」1982の41ページに掲載されている139番の土器は、やはり、無文土器のように見える。鉢形で小ぶりであるが丸く粘土帯を貼り付けているように見える。実見はしていないので何とも申し上げられないが、可能性は高いと思われる。
 
 4と5を通じて、僅かであるが朝鮮半島系の土器が見られ、この時期あたりから輝緑凝灰岩の石庖丁が製作され始める。直感であるが石庖丁製作の開始時に半島系文化の何らかの影響を感じているのである。福大の武末先生に韓半島で輝緑凝灰岩の石庖丁はありますかと聞いたことがある。答えは今のところないらしいが、半島にも笠置山と同様の中生代の地層が広がっており、その内、発見されるのではないかと信じている。立岩の弥生人が笠置山の輝緑凝灰岩に目をつけたのは、偶然の発見ではなく半島のいずれかの地で石材利用を行っていた人々の記憶と知恵が導いた結果と考えたい。単なる希望であるが、実証されるよう努力しよう。
 

 6 桂川町赤松浦遺跡の1号竪穴住居出土の青銅製品について、長谷川氏と電話でやり取りしたが、全長3.3cmで長い二等辺三角形状を呈すもので、表面は緑青に覆われているらしい。形状は基部が太く先端に行くと細くなって、中軸よりやや斜めに傾く感じ、つまり、先端が僅かに湾曲し微妙に抉りのようにも見える。基部の厚みが1.1cmで、断面は隅丸方形状で、形状や断面から小銅鐸の舌ではないかと考えられる。長谷川氏も当初からその考えもあったようだが、実証性に欠けることから不明の青銅製品として取り扱っている。これは、竪穴住居から出土しており、共伴の土器から見て高三潴式で弥生後期前葉と考えられる。
 しかし、舌に特徴的な吊り下げる孔がないが、先端の湾曲した部分を紐で結んで吊り下げれば、小銅鐸の舌として使用できる。必見の一品である。
 土器群は、鉢、長頚壺、甕が出土している。その5番の甕は、内外共に箆削りで仕上げられている。

 7 桂川町寿命隈西遺跡の8号袋状竪穴から出土した、弥生前期後半から末頃の土器の把手であるが、長さ2.5cm、幅4.5㎝、厚さ2㎝ほどの大きさである。重要な点は把手の中央に1㎝ほどの孔が開いていていることである。また、前期後半から末頃という時期も重要で、韓半島系の壺に付される把手ではないかと考えている。佐賀県土生遺跡を髣髴させる。ただし、先端は丸味を持って短い。これは、長谷川氏に話していない情報であるが、そのうち、実見しよう。

 8 桂川町寿命隈西遺跡の1号竪穴住居出土土器は、興味がわく。おそらく、広口壺の口縁部かと思われるが、直径が20㎝ほどであろうか、口縁が内面にやや突出し、外部に4条の突帯を巡らしている。しかも、口唇上には、細い竹管の刺突文が並んでいる。外面は丹塗りだが、中四国あたりのⅢ様式の影響が大きいように思える。ただし、4条突帯には刻みはない。これも、長谷川氏に話していない情報である。

 話かわって、輝緑凝灰岩の未製品について嘉穂地域で年代をおさえようと、報告書をあたっているが、予想以上に少ないのである。しかも、前期末から中期初頭くらいであろうか、今のところ集中的に出土する地区もありそうで面白い。地域の担当者と話しても、未製品はよく出るということを言うが、案外出土しておらず製品の欠損品が多い。しかも、時期も限定されるような雰囲気である。そのあたりを少し調べると、輝緑凝灰岩の未製品が出土する時期や地域、製品に取って代わられる時期、製品のみと何か見えてきそうな気がする。
 立岩の地域でありながら、嘉穂地域は意外と押さえられていないのである。もっとも、立岩の石庖丁の研究が進められていた時期は、ほとんど調査された遺跡がない状態で、なんとも仕方のない頃であった。今こそ立岩のお膝元がどうなのかを調査する時期が到来したと考える。みなさん、どうでしょうか。

9 桂川町赤松浦遺跡の12号土坑から高三潴式の一括資料が出土していることに気づいた。袋状口縁の広口壺で、口縁部は開き頚部と胴部に三角突帯が巡る。それに、細く伸びた頚部が特徴的な長頸壺、袋状口縁の広口壺を頚部から切り離したような短頸壺、口縁部が内湾する無頸壺等に跳上口縁の薄手の甕、高杯の口縁部が伸びて若干下がる丹塗土器、そこに、破片であるがほぼ直立した短い口縁部から逆九の字に屈折する、おそらく、高杯と思われるが、瀬戸内方面からの影響、もしくは、搬入の可能性がある。それに、6番で紹介した土器群と原田遺跡の竪穴住居(嘉穂地区遺跡群Ⅳに掲載)を加えると、筑豊内陸部の高三潴式の様相が明らかとなろう。ちなみに、赤松浦が古相で原田が新相と考えている。

 10 凹線文の関連で旧頴田町(現飯塚市)の井尻遺跡から出土している複合口縁壺(下大隈式)の、口唇部に3条の凹線文が巡る。また、中期末から後期初頭くらいの跳上口縁の甕にも、口唇部2条の凹線文が巡る。個々の資料は実見したが、さらに、高杯の脚部等にも同様の凹線文が見受けられて興味深い。

 11 旧穂波町(現飯塚市)の彼岸原遺跡は、過去、採集や調査が行われて来た、嘉穂地域では、知られた遺跡である。県教育委員会の吉田氏が調査員として発掘調査が行われ、中期後半の円形竪穴住居跡が複数検出され、住居内周溝からのびる排水溝が確認されている。調査作業員には、藤田先生が参加するという調査でもあった。
 特に、排水溝から多くの須玖Ⅱ式の土器が発見され、土坑慕から、牙玉2点が検出された。そんな中で、長頸壺の頸部に凹線文が施された破片が紹介されている。あれだけの土器片中からよく見出したものである。これは、正式に認められた外来系土器として記されるものである。

 12 旧碓井町(現嘉麻市)八王寺遺跡出土土器中に、弥生中期の袋状口縁壺の口縁部片とした2点について、再検討が必要かと感じられる。図では、袋状というより口縁部の先端がのびたようで、やや内傾した二重口縁的な壺の口縁部に見えるのだが、いかがであろう。実見する必要がある。

13 桂川町寿命隈西遺跡の1号竪穴住居出土土器は、興味がわく。おそらく、広口壺の口縁部かと思われるが、直径が20㎝ほどであろうか、口縁が内面にやや突出し、外部に4条の突帯を巡らしている。しかも、口唇上には、細い竹管の刺突文が並んでいる。外面は丹塗りだが、中四国あたりのⅢ様式の影響が大きいように思える。ただし、4条突帯には刻みはない。これも、長谷川氏に話していない情報である。という件で、器台の可能性もあり、現状では何ともいえないことが分かった。しかし、4条の突帯と口唇の細い竹管の刺突文は、やはり、外来の影響下にあるものと考える。

 輝緑凝灰岩の石庖丁未製品については、時期・地域ともに特色があり、石材も一定していないようである。さらに、調査してみたい。今までも経験があるが、定説のようになって流布しているものほど怪しい場合がある。
 
 あまり、議論されてはいないが、スダレ遺跡の3号甕棺出土人骨に突き刺さっていた石剣は、その厚みから石戈の疑問もあったようだが、とにかく、石材は輝緑凝灰岩であるようだ。中期中葉の甕棺であり、立岩では石庖丁や石製武器が精力的に製作され嘉穂盆地内に拡大化している頃のものである。
 すると、犯人は嘉穂盆地内の人間である可能性が高い。嘉穂盆地内のお墓から出土する石剣の切先は、頁岩系が主であり輝緑凝灰岩は少ない。立岩の倒立甕棺から出土した頭骨の下に、輝緑凝灰岩製の切先があった。となれば、スダレを含め、立岩近辺の連中は、立岩産の武器で殺された。そして、周辺の連中は、頁岩系の武器で殺されたのか。このあたりも調査する必要があろう。・・・いったい、戦争はどことどこがやったのかな。それとも、スダレ遺跡は殺人事件だったのか。

 人骨に刺さった石剣の切先について、その厚さが問題となり石戈説が浮上、しかし、嘉穂地域内の石戈例をもとに、剣先の幅から推定して石戈説は退けられた。しかし、スダレ3Kの被葬者の背後から突き刺した人物は、もっと、薄手の鋭利な石剣を使用しなかったのだろう。武器〈石剣〉の選択はしなかったのだろうか、相手を仕留めるために常備した武器が、厚さ10㎜という。頁岩の製のものではだめだったのか、それとも、立岩の連中の仕業かな。この1点のみを捉えるなら、たまたま、そこにあった石剣、あるいは、相手のものをもって、逃げようとする相手の背後から突き刺した。あるいは、倒れた相手上に馬乗りになって突き刺した。それにしても、一撃で相手の死も確認せずに戦場で通用するのか。それとも、怖くなって逃げ出したか。推理をめぐらすのにはいい材料である。

 話を戻そう。

 桂川町と旧碓井町との境に八王寺から土師区にかけて広がる丘陵地が存在する。この付近の弥生遺跡の特徴として、嘉穂地域(盆地)では有数の玄武岩製石斧、つまり、今山産石斧が集中的に出土する地区で、石器原産地研究会でも発表したところである。

嘉穂地域の玄武岩製石斧集成表(桂川町)

1 影塚東遺跡        1点      前期末~中期   
2 飯塚牟田南(2地点)     26点中24点   前期末~中期初頭
3 寿命隈西遺跡       36点の大半 前期末~中期初頭
4 飯塚牟田北遺跡       30個の大半 前期末~中期初頭
5 大坪遺跡        8点中5点 前期末~中期初頭
6 二塚遺跡        5点中5点   前期末~中期初頭
7 八王寺遺跡(碓井)      3点      前期末~中期初頭

 周辺諸地域の中でも、飯塚牟田南(2地点)、寿命隈西遺跡、飯塚牟田北遺跡の3ヶ所に限っては、100点近く出土する特別な遺跡群である。先の7で紹介したが、無文系土器群が何例か混在しているようだ。今後も例示したいと考えている。
     
14 八王寺遺跡の30㌻NO1058の口縁部に把手状の突起状のがついた鉢は、どうであろう。弥生前期末から中期前半の遺物に混じっている。朝鮮半島東北地域北部にありそうなもので瘤状把手とも言うべきものである。

15 八王寺遺跡163㌻NO2472と2473は要注意。袋状口縁ではなく台城里7号墓出土の口縁部上端が内傾する甕の口縁部に似ている。尤も中期の無頸壺を重ねたような土器かもしれないが。

 先日、王塚古墳館を訪ねて長谷川さんと対面し、桂川町土師地区の石庖丁資料を見学。そこで、土師地区出土の土器の中に無文系土器が含まれているようだとの状況を伝える。長谷川さん曰く、実は、調査中にそういう指摘を受けていたそうである。
 この、土師地区は嘉穂地域でもかなりユニークな遺跡群であり、特に、今山産の石斧が大量に発見されるという特徴を持っていた。さらに、弥生石器の未製品や穿孔具、砥石など石器製作にかかわる遺物が多く出土している。
 また、中期中頃から甕棺(成人棺)が導入され、後半~末、あるいは後期の前葉まで認められるという、立岩遺跡と似たパターンで注目している地区である。

 1977年『立岩遺蹟』が刊行され、下條氏が石庖丁をはじめとする石器類と生活用土器類の報告を行い、輝緑凝灰岩製石庖丁の生産開始時期を前期末に位置づけられ、以降、その年代感で捉えられてきた。その証拠として2基の貯蔵穴の調査成果が示され、土器も図示されている。しかし、読み返すと腑に落ちない点が出てきた。確かに、前期末の土器は出土しているが、中期前半期までを含んでいて、貯蔵穴の切り合いや後半期の甕棺墓の墓坑が大きく切り込んでいたりで、遺構自体の保存状態が極めて悪いことがわかる。
 
 当時、立岩での発掘調査も堀田遺跡がきちんと調査された第1号といっても過言ではない。また、周辺地域ではほとんど調査事例のない中で、まとめられたのは大変な苦労があったと考える。特に、立岩と石庖丁の関係は中山平次郎氏にまで遡る重要課題であり、成果を残すことは絶対的課題であったと推測する。しかし、再検討するとやはり、前期末という断定は出来かねるようである。

 また、輝緑凝灰岩製石庖丁の嘉穂地域内での比率については、当時、嘉穂地域内の事例がほとんどなく、100%近い占有率は多分に生産遺跡である立岩の資料が含まれていたものと考えられる。石庖丁の搬出の比率を表したグラフの横に、但し書きで立岩の製品が多く含まれるため、嘉穂・田川両地域は除外すると記されており、当時の事情の一端がよく分かる。

 その後、嘉穂地域では大規模な発掘調査が繰返され、石庖丁に関してもある程度の資料が蓄積されている。それらから判断すれば、生産遺跡の立岩を除外すると占有率は70%を下回り、筑後の数値に近いようである。

 ただし、未製品の数は、以前にもカウントされているが約1500点でそのほとんどが採集試料であり、1980年代から行われた立岩周辺遺跡の調査では、未製品と製品では3対1の割合で未製品が断然多い。やはり、中山氏曰く「石庖丁製造所址」という点は、下條氏の研究を踏まえ、現状を加味しても動くことはなかろう。

 1980年代以降、急激に増加したのが立岩周辺の諸地域、旧嘉穂郡の発掘調査である。その結果、1970年代までに分からなかったことが次々と明らかになる。資料の蓄積は、当時の担当者レベルでは追いつけないくらいの勢いであり、30年を経過した今日ようやく落ち着いて資料を見直すことができるようになった。尤も、発掘と報告に追われながら、自治体の文化財行政をほぼ1人でみんなこなしていたのだから無理もない。

 立岩を石庖丁の生産地とすれば嘉穂郡は消費地に相当しよう。そういう視点から改めて立岩を見直そうというのが私の発想である。 

 1980年代立岩周辺遺跡として、焼ノ正・下ノ方遺跡等が調査される。焼ノ正の5号袋状竪穴は、前期末・中期初頭・中期前半の土器群が出土しており、様相的には焼ノ正・下ノ方で古式の様相を示すが、堀田の28号袋状竪穴同様に前期末と決めがたい。両遺跡のほとんどが中期に属する時期である。
 一方、消費地の周辺諸地域では、前期後半~末のものが確実に存在するようで、この当りの当時の様相が面白い。それが、中期となると立岩オンリーになるようで生産の集中化が図られるように感じる。

 生産当初の様相(前期末前後)・立岩集中生産(中期)と流れるが、その中で流通システムの構築が予想される。つまり、製品の流通は甘木・朝倉・北筑後方面と西南方面が多い。そこで、嘉穂地域の西南地区に流通拠点が存在するとしたらどうだろう。

 近年、能登原 孝道氏の『いわゆる「頁岩質砂岩」の原産地について』九州考古学82号2007の中で、立岩産石庖丁で知られる輝緑凝灰岩のビッがース硬度試験結果が記されていた。ダイヤモンド圧子を輝緑凝灰岩に押し付けたところ押し付けた部分の周辺もくぼんで、丸くクレーター状につぶれ測定が不可能であったらしい。粘り気等の実験はしていないがどちらの石材が(頁岩質砂岩と輝緑凝灰岩)石庖丁の石材として良質か、一概に「頁岩質砂岩は脆いため、中期に輝緑凝灰岩へと取ってかわられた」という従来の意見に疑問を抱かれている。

 上記の実験結果について、単純に私は「輝緑凝灰岩は節理にそって割ったり剥いだりするのは簡単であるが、粘りであろうか折るのはかなり大変であるし、節理から剥がれて行くこともなかなかない。しかし、穿孔するのはかなり簡単なようで、一般に穿孔過程での欠損品が多いのをカバーする石材だな」と考えた。 続く。

 最近、がらにもなく古墳の分布について考えてみた。古墳時代にそれほど興味はないが、古代から近現代に至る地域編成のカギとして、弥生から古墳時代は省くことは出来ないだろう。

 嘉穂地域における古墳の分布について

 筑豊地域における古墳は、盛り土による高塚古墳と岩層に横穴を穿って墓室とする横穴墓とに大別する事が出来る。また、前者と後者の折衷的な様相を呈する墳丘を有する横穴墓も存在し、その墳丘に埴輪をならべるものまで存在する。
まず、穂波川と合流するまでを遠賀川(嘉麻川)とし、それから下流を遠賀川とし、嘉穂地域の前方後円墳の分布状況を概観するならば、遠賀川(嘉麻川)上流の嘉麻市上西郷の久吉古墳()、西郷の竹生島古墳()、漆生の沖出古墳()、樋渡の樋渡1号墳の4基があり、それに、下臼井の日吉神社裏の大型円墳(前方後円墳か?) 、漆生の次郎太郎古墳 () 2基 (円墳か?) を加えると樋渡を除く6基が嘉麻市の大隈町・牛隈・下臼井の平野部に面して立地してる。穂波川流域では、ホーケントウ古墳、天神山古墳、北古賀第1号墳、王塚古墳、金比羅山古墳、宮ノ上古墳、大平古墳、森原1号墳、山の神古墳と9基が存在するが、その内6基は王塚古墳周辺に位置している。最後に、遠賀川(嘉麻川)と穂波川が合流した地点の東に、飯塚市の立岩から川島にかけての丘陵に宮ノ脇古墳、寺山古墳があり、西側の対岸には山の谷古墳が位置しており、これらの分布を基に全体の構成を3群に大別することも可能である。
 次に、高塚古墳の大多数を占める円墳群について概観すると、河川の作り出す平野部に面しながら嘉穂地域全体に拡散するように映るが、そこに前方後円墳の分布を重ねると興味深い状況が浮上する。
 1群:遠賀川(嘉麻川)左岸の下益から上西郷に分布する一群は、西ヶサコ古墳(前期の円墳)を含む古式の円墳が点在し、下益の谷奥には20基程度の円墳が群集し、上西郷の久吉前方後円墳(前期)が含まれる。
 2群:琴平山を中心とする嘉麻市西郷から上臼井、下臼井にかけ、竹生島の前方後円墳や下臼井日吉神社の大型円墳(前方後円墳か)を含む古墳の集中が見られる。
 3群:遠賀川(嘉麻川)右岸は、漆生の沖出から咲ヶ鼻の丘陵でまとまる漆生古墳群があり、沖出や次郎太郎の前方後円墳を含む円墳群が丘陵上に集中する。大正末から昭和初期にかけて様々な遺物が掘り出されたが散逸し、古墳の多くもほとんど消滅している。 
 4群:立岩丘陵の北端から川島の丘陵部にかけて宮ノ脇と寺山の前方後円墳を有し、装飾古墳の川島古墳も含まれる古墳群となり、それが遠賀川右岸の北限となる。
 5群:嘉麻市樋渡から飯塚市上三緒の丘陵上に樋渡の前方後円墳と少数の円墳が存在するが、やはり群としての発展は確認できない。
 6群:穂波川流域に目を移すと、桂川町の王塚古墳周辺には前方後円墳はじめ相当数の円墳群が存在しており、嘉穂地域において最も高塚古墳が集中する場所であり、複数の前方後円墳と数多くの円墳が集中する当該地は、嘉穂地域内において横穴墓群との関係を観察する際に、典型的な高塚古墳群分布の様相を示す。
 7群:柳橋の古墳群から目尾にかけての古墳群は前方後円墳を含む円墳群で、嘉穂地域の北限をなす。
前方後円墳を含む古墳群は概ね7群が存在し、前方後円墳や円墳の数など規模の相違も様々である。また、5群に近似するが森原や山の神の前方後円墳のように、周囲に古墳群が発達しない例もあり、これを別途に8群として把握する。
次に、前方後円墳を含まない円墳群の分布について示すが、A群は古墳群として把握できるもの、B群は疎らな分布で群としては捉えがたいものとして進める。
 A群:a漆生古墳群の上流で、大隈町から牛隈小学校付近までの丘陵の高所には、10基未満ほどの円墳群が点在しており、それぞれが群単位として存在する。
   b飯塚市下三緒栗咲山付近から立岩丘陵の間に円墳群存在する。
   c飯塚市川津の丘陵上に、やや散漫ではあるが円墳群が存在する、
   d庄内川流域右岸側の飯塚市仁保から元吉、勢田にかけての丘陵上に数基から10    基程度の円墳群が6群ほど存在する。
   e八木山方面から洪積世台地を開析しながら流れる小河川沿いの高所にも円墳群
が存在する。

 B群:a1・2群の間には、上西郷から西郷に続く丘陵部高所に疎らに円墳が乗る程    度である。
   b下臼井から口ノ春、山野と続く丘陵は、かって塚の中期円墳を含むものの、分
布は散漫である。
 以上のように、嘉穂地域の高塚古墳群は、その分布を観察すると前方後円墳との関係下に発展したと推定されるもの(1~7群)と、円墳群で構成されるもの(Aa~Ae群)がある。また、群を構成しないものに単独的に存在する前方後円墳(8群)や広い間隔をもって点在する円墳(Ba・b)もあるが、当地域の主となるものは、前方後円墳と円墳の組み合わせが群をなすもので、遠賀川や穂波川に面する丘陵状に島状に分布している。後述の前方後円墳を伴わない円墳群や疎らに分布する円墳は、島状に分布する主要な古墳群の間を埋めるように連なる特徴が窺える。また、庄内川流域や八木山方面の小河川沿いに分布する単独的な前方後円墳(8群)や円墳群は、主となる古墳群とは別途に考えることも必要であろう。
 なお、高塚古墳群の分布についてもう一点加えるなら、山田川から上三緒にかけての遠賀川(嘉麻川)右岸については、ほとんどその存在は見られない。また、対岸に相当する嘉麻市下臼井から飯塚市菰田にかけての遠賀川(嘉麻川)左岸は、右岸ほど顕著ではないが、やはり高塚古墳の分布が希薄で、樋渡1号墳のような前方後円墳がありながらも、古墳群としての発展は見受けられない。この様相は、山田川下流域から遠賀川と山田川合流地点に形成された稲築地区の平野部に面しており、嘉穂地域内の高塚古墳群分布状況において特異性を見せており、後述する横穴墓群の分布も含め古墳の存在に希薄さを感じる。
 次に、横穴墓の分布を概観すると、山田川右岸の嘉麻市下山田から平にかけての丘陵は、横穴墓群が独占状態である。遠賀川(嘉麻川)左岸の嘉麻市岩崎から口ノ春、山野に連なる丘陵は、稲築公園付近と山野の丘陵地の2ヶ所に横穴墓群の集中が見受けられる。その下流に位置する飯塚市鶴三緒から菰田の丘陵は、横穴墓の一大群集地で池田と鶴三緒横穴墓群で占有されるが、遠賀川(嘉麻川)の対岸は平の北半分から鴨生の間は横穴墓が未確認で、途中に飯塚市上三緒の横穴墓群が孤立するかのように存在するが、再びその下流は空白地となり、下三緒から立岩丘陵を含め横穴墓の存在は確認されず、結局、さらに下流の川島の丘陵地までその分布は見られないのである。
 以上、横穴墓群の分布を概観したが、これに嘉穂地域の高塚古墳群の主流である前方後円墳を含む高塚古墳群(1~7群)の分布を重ねると以下のようになる。
 Ⅰ類: 単独型 (1・5群)
 1群と5群は、単独的に高塚古墳で構成され横穴墓群を含まず、隣接もしていない。
 Ⅱ類: 住み分け型 (3・4・6群)
 6群は嘉穂地域内で最も多くの前方後円墳と円墳で構成されているが、南側の出雲と北側の久保白に隣接的に横穴墓群が存在するが、両者の存在は住み分け的な状況である。それに類似するのが3・4群で、3群の漆生古墳群の場合は、丘陵部高所を高塚式古墳が占有し、南側の才木と北側の咲ヶ鼻に隣接的に横穴墓群が存在する。4群の川島古墳群付近では、遠賀川に面する丘陵の西側を前方後円墳が占有し、同丘陵の下流部に円墳群が位置する。横穴墓群は隣接的位置ではあるが丘陵部の反対側に位置し、中でも70基以上の小池横穴墓群は最も奥側の谷を隔てた場所に群集していて、住み分け的状況である。
 Ⅲ類a:混在型(2群)
 2群は古墳群内に横穴墓群が存在しているもので、高塚古墳と横穴墓との数が同程度のものである。
 Ⅲ類b:混在型(7群)
 7群は同様に横穴墓を含むが数的には、高塚古墳の数が圧倒的である。
 以上の様相を観察する限り、嘉穂地域では前方後円墳を含む主要な高塚古墳群と横穴墓群の関係は、1・5群のように高塚古墳単独で群をなすものや、3・4・6群のように周辺に横穴墓群が位置するが、高塚古墳群とは混在しないものが圧倒的で、Ⅲ類aの混在型といえども圧倒的に高塚古墳の数が多く、単独か住み分け型が優勢であり、7群のように混在型でもⅢ類のbの類は異例敵である。
 続いて、前方後円墳とは無関係に発達する円墳群として分類した(A群のa~e)と(B群のa~b)とを横穴墓群の分布と重ねてみると以下のようになる。
 Ⅰ類: 単独型 (A群b・c・e)
 A群bの南端には、2基ほど横穴墓があり住み分け型に入れることも可能であるが、占地や数からして単独型に入るであろう。また、eに関しては、大塚谷、幸中学校裏、伊川などの古墳群がそれぞれのエリアごとにまとまる。
 Ⅱ類: 住み分け型 (なし)
 Ⅲ類a:混在型(A群d)
 Ⅲ類b:混在型(A群a・B群a・b)
 Ⅲ類c: 混在型 高塚古墳数を横穴墓数が圧倒する。
 山田川右岸の嘉麻市下山田から平にかけての丘陵及び、遠賀川(嘉麻川)左岸の嘉麻市岩崎の稲築公園付近と山野の丘陵地の2ヶ所に横穴墓群の集中が見受けられる。
以上、円墳群との関係では、Ⅰ類の円墳群の単独型が旧飯塚市の範囲内に集中しているが、同時にこの地域は横穴墓の集中地域でもあり、飯塚市下三緒栗咲山付近から立岩丘陵の間、飯塚市川津の丘陵上、八木山方面から流れる小河川沿いの高所といった限定的な場所ではあるが、マクロな視点に立脚するなら両者の占有地は重複を避けるような住み分け的な考えが働いていた可能性がある。気がかりなのは、(前方後円墳+円墳)で見られた隣接しながらも横穴墓群とは住み分け的な分布状況という例が見られず、Ⅲ類aやbの混在型が増加する状況は、円墳群と横穴墓群とのより接近した関係を物語るもので、特に、混在型の数が均衡するA群dの庄内川流域は、嘉穂地域でも新たなタイプとして認識される。
 高塚古墳群を中心とした嘉穂地域の様相は以上であるが、横穴墓群を中心とした場合には、飯塚市の鶴三緒・菰田を中心に発達する鶴三緒・池田といった大規模な横穴墓群は、そのエリア付近に辻古墳という前期の大型円墳があるが、その後、高塚古墳群の発展は見られず1基のみの存在で、横穴墓群との系統的な関係は見受けられず、単独型と言えよう。同様に、上三緒横穴墓群は明確に単独構成であり、さらに上流部の嘉麻市下山田・平の横穴墓群のエリア内にも1基の高塚古墳が確認されるのみである。また、飯塚市横田から相田付近は単独型で、唯一、混在型に近い川島付近でも群集する小池横穴墓群は立地として単独型に分類される。つまり、嘉穂地域内の大規模な横穴墓群は、単独型による構成で高塚古墳との混在はないといっても過言ではない。
 高塚古墳群と横穴墓群との分布について、単純に平面的な見方を述べてきたが、結論的には両者が互いに造営エリアを異にするというのが基本で、前者の場合前方後円墳を中軸として発展した一群が中心的な位置を占有し、立地は主に主要な大河川に面しており、それぞれ河川沿いに島状に分布する。前方後円墳を要しない円墳群は島状分布間を充填するかのように連なる。しかし、そのエリア内に横穴墓群が入り込む事はなく多くが住み分け状態にあり、河川に面する高塚古墳群からさらに奥に立地するものが多い。あえて、両者が混在し数が均衡する庄内川流域は、大河川に接せず、新しい古墳群の造営を予感させる。また、横穴墓群に目を移せば、高塚古墳群とは表裏的な様相を呈しており、中規模を含め大規模な群集エリアは横穴墓群が単独的に存在している。また、嘉麻市岩崎の稲築公園や山野、下山田・平という高塚古墳の希薄なエリアでは、Ⅲ類cの 混在型に属し横穴墓数が高塚古墳数を圧倒するという状況で、嘉穂地域では庄内川流域と並んで特異な古墳群分布地として注意を引く。






1 コメント

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感動です (pirika)
2013-03-04 00:13:21
弥生中期末から後期初頭にかけての凹線文土器と無文土器のおはなし、ある理由から、胸震える思いで読ませていただきました。本当に本当にありがとうございます。この時期に関する「なにか」の知見がありましたら、またどうぞよろしくお願いいたします。
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