かつて、福岡旧石器研究会が筑豊で開催されたおり、筑豊の嘉穂地域を中心に縄文早期の刺突文土器や押型文土器の分布を基本として、前期、中期、後期と標高が低くなること、旧小石原の標高500m付近に旧石器の遺跡があることなどから、標高60~70m以上の丘陵や台地を中心に採集を続けたが、結局スカに終わった感じがあった。ところが、桂川町の古野遺跡が60mで細石刃らしきものが出土していた。また、既に報告された立岩出土とされる神柴型の石斧は、出土地点が明確ではない点から個人的には他所の可能性もあるとして傍観していた。しかし、嘉穂東高校所蔵の昭和28年代に採集された遺物の中に、明らかにサヌカイト製の尖頭器を見て以来、考えは大きく変わった。つまり、尖頭器と石斧は伴う可能性が高いと考えられるからである。
岡崎氏の戦前の論考「遠賀川上域の有紋彌生遺蹟地」の挿図(第3図)の(1)~(17)が立岩の採集資料であるが、(2)の扁平な石斧が問題の資料である。実測図が非常に小さいが寸法は一致しており左側面の稜線や右側面に残る剥離面、先端部が研磨されている様子や断面形状など、まず間違いないものと考えられる。
岡崎論文中に、立岩の飯塚高等女学校遺跡を紹介している。名和洋一郎氏によって発見された当遺跡は、現在の嘉穂東高校の全域に及んだらしく、その中心は旧校舎付近と、当時削り取られた高さ3mの崖上に存在しており、岡崎氏たちはその上によじ登って調査したらしい。ここは、工事中やその後におびただしい石庖丁製品と土器片に多くの石器が出土したという。また、森貞次郎氏は、包含層の下から土器棺が出土した事を記している。昭和28年代に採集されたサヌカイト製の尖頭器は、当遺跡のもので、名和・岡崎両氏がよじ登った崖上の包含層と考えられる。
そもそも、昭和8年に飯塚市営運動場が発見され、中山平次郎氏により調査が行われたが、その途中で、下ノ方遺跡が土取り工事の際に発見され、発見者の名和洋一郎氏とともに中山氏も石庖丁未成品等の採集を行っている。下ノ方遺跡は、当時、焼ノ正遺跡と呼ばれたが正しくは下ノ方として、森貞次郎「古期弥生式文化に於ける立岩文化期の意義」『古代文化』13-7昭和17中にある「遠賀川流域に於ける主要遺蹟の一覧」の下ノ方遺蹟の記載中に訂正がなされている。ただし、焼ノ正と下ノ方は隣接している。ちなみに、昭和12年9月に発刊された石村一男「北九州出土の異形石庖丁」考古学8-9には、飯塚市市役所で磨製石器の実測を行っていて、岡崎論文挿図の大型石庖丁は焼ノ正遺蹟として掲載してある。昭和12年段階では、まだ、下ノ方との訂正はないようである。
※昭和14年森貞次郎氏が嘉穂中学に赴任した時期も焼ノ正遺跡は下ノ方と変更していない。森論文が17年でこの時点で下ノ方に変更されている。
昭和9年から10年にかけ、下ノ方遺跡に隣接する焼ノ正では飯塚高等女学校の建設が開始され、膨大な資料が得られた。当時、遠賀川に張り出した緩やかな丘陵上にあって、当時の校舎中程から多くの資料が得られたが消滅し、そこからから南東の土取り工事によって3mもの切通しとなった崖上に30㎝ほどの包含層が残された。名和・岡崎両氏がよじ登ったのはその崖上であった。
以上は、すでに記載した内容であるが、改めて学史的に掘り起す必要がありそうだ。思えば、九歴を訪ねた折には、横田義章さんがいた金属器の処理室をよく訪ねた。ある時、突然机の上に石器を取り出しニコニコしながら「すごいやろう」と言って、「立岩から出たらしい」と続けた。横田さんは、突然、「これすごいだろう」とか言いながら、なんであるかを抜きにして場所や状況など説明してもらうのだが、何であるのかが不明なため会話にならず、相槌を打つだけとなった。ある時は中国式の銅剣、青銅の鏡、鉄器の象嵌などである。そして、「まだ内緒だけど」と加わる。その義章さんが立岩の局部磨製石斧を取り出して見せてくれた。岡崎先生の論考に掲載してあることも聞いた。持つと確かにサヌカイトとわかるし、刃先の一部に新しい欠損があり、灰黒色の内部が見える。「サヌカイト製の石斧・・・・」古式の石斧で旧石器かとも思ったが、まさか立岩に旧石器とはにわかに信じがたく、実は、嘉穂東の尖頭器を見るまでは半信半疑ですごしてきた。というのも、嘉穂地域外で採集されたものが、たまたま、立岩と記された箱に入っていた可能性を考えるくらいであった。中山平次郎氏以来80年近く様々な人々が闊歩し、あらゆるものを拾い集めていた時代が続いてきた。時に発掘調査され、フィールドでは何人もの著名な考古学研究者が排出されたのである。その中に、他地域で採集したものが持ち込まれても何ら不思議ではなかった。森論文中に「石鏃は黒曜石のものが多く、形式は彌生式の特徴を有する無柄の有肩のものである。黒曜石の石屑は各遺蹟に非常に多い。」
とある。無柄の有肩とはどのような形態であろうか、少なくとも抉りはほとんどないか浅いものであろう。しかし、五角形や三角形の鏃とは表現していない。想像するに、先端から基部へのラインが張り出すような状況であろうか、昭和17年段階での弥生の石鏃をどのように見ていたか。今の目をもってすればもう少し時期の判定が出来るが、残念ながら図示されていない。繰り返すが、嘉穂東の尖頭器を見た瞬間確かに立岩には、旧石器末から縄文草創期の文化が存在したと認識した。
尖頭器が嘉穂東高内で採集されたことは確実なようだ、昭和29年のことで当校が火災にあった年のようである。だから、土がついたままなのであろうか。問題は、石斧の出土場所が絞り込めないかということである。絞り込めない以上、尖頭器と伴うのか証明できない。昭和14年2月発刊 岡崎 敬 「遠賀川上流の有紋彌生式遺蹟地」考古学雑誌29巻の2 この論文は、少なくとも昭和14年2月以前に書かれ、日本考古学会に送付されたものである。したがって、本文中第3図に図示されている遺物群は昭和14年以前の出土遺物である。
※付加え・・・文献は最後まで読むべきと反省する。というのは、岡崎氏の論考の最後に(昭和13年6月29日稿)と記してある。とすれば本年の3月見学会というのは昭和13年の3月となり、年度でいえば昭和12年度末ということである。13年当時明確になっている立岩丘陵の遺跡は、測候所、測候所下、焼ノ正(飯塚高女の校庭)、下ノ方、市営運動場遺跡(調査消滅)となろう。また、昭和12年12月12日に名和氏は、飯塚高女の崖上から遠賀川式と須玖式土器を採集し、これが岡崎論文に掲載してある。
昭和12年の夏に岡崎市は澤井一雄氏と伊方遺蹟を実査している。続いて糸田遺蹟で発掘を行っている。つまり、12年の夏は伊方から糸田(発掘)、明けて13年3月に焼ノ正の踏査を行っている。その間、名和氏は12月に焼ノ正から土器を採集している。岡崎氏は田川の2遺蹟について昭和12年夏、旧制中学の学生であった氏は、夏休みを利用して発掘と実測を行ったことが推定される。また、参考文献中最も新しい文献は、石村一男「北九州出土の異形石庖丁」考古学8-9 昭和12年9月の発刊である。
岡崎氏は、土器に関しては昭和12年の夏から年末にかけての採集資料を実測して使用している。年が改まり13年の3月に飯塚高女に名和氏とともに見学に訪れている。田川の資料を夏休みに、飯塚高女の土器資料は冬休みから春休みにかけて実測している可能性が高い。それでは、石器の実測はいつ頃行ったかが知りたくなる。
内容を読むと、飯塚高女の校庭に露出した黒色の土器包含層の紹介がある。すでに学校は完成しており校庭の東南に位置する高さ3mの崖上にある30㎝程度の包含層の可能性が高い。案内した名和洋一郎氏は、すでに現地の状況を把握していたもので、見学会を実施したことになる。文中に「本年3月に見学の機会」とあり、昭和13年の3月以前に遡ることになる。飯塚高女は焼ノ正遺跡そのものであり、昭和9~10年にかけて土取りと整地が行われていたようで、大量の遺物が出土している。
児島隆人氏の『立岩』を読むと、昭和8年10月立岩の市営運動場工事により出土した甕棺の調査に中山博士あたられ、昭和9年に報告等が出されている。森本六爾氏宅を訪れ「考古学」の抜き刷りをもらい立岩の存在を知ったと書かれている。昭和9年の冬に早速現地を訪れた当地には甕棺の破片が散乱していた。翌10年の夏休みに飯塚市役所を訪れた児島氏は山本宇兵衛氏の説明と多くの出土品を目にした。
中山氏が調査する市営運動場遺跡を見学に来た名和洋一郎氏は、いち早く、甘木山から下る丘陵が削り取られ、そこに散乱する遺物群に目をつけ採集を始める。中山氏もこれに参加して採集した資料が、石庖丁の未成品や製品が圧倒的に多く、後に石庖丁制作所跡として焼ノ正遺跡の名で報告される。森貞次郎氏によりそこが焼ノ正遺跡に隣接する下ノ方遺跡と改められるが、その学術的価値は微動だにしない。児島氏によると測候所、測候所下、焼ノ正、下ノ方が市営運動場遺跡に加わって、昭和10年代の調査遺跡と締めくくられている。
そこで、中山氏の調査報告(昭和8年10月に運動場工事が着手、12月17日に九州考古学会が見学、20日の新聞に甕棺等の記事が出て、23日から調査)から岡崎氏の論考が書かれたと考えられる昭和13年3月、つまり、昭和12年度までの立岩丘陵地における調査事例を追うことにする。
中山氏の報告の中に気になる記載がある。その報告を読むと甕棺の発掘等は誰が行っていたのであろうか、例えば昭和8年10月に開始された発掘調査により3カ月近く土取りを行う中で様々な遺物が採集されていた模様である。飯塚市役所の山本宇兵衛氏が中心となって遺物が集められたようで、土木という開発側に立っての収集は大いに大変であったろう。その山本氏が中山氏に差し出した立岩周辺の詳細な道路地図に、中山氏自ら市営運動場遺跡、気象測候所遺跡、下ノ方(当時焼ノ正遺跡)遺跡の3ヶ所を×印で示した。昭和9年の段階である。報文中には、運動場から得られた遺物の石器の記載で気になったのは,「打製及び磨製石斧」というもので打製の石斧が含まれているようである。残念ながら図示はされていないが、局部磨製石斧の可能性として注目すべきであろう。
続いて気象測候所の紹介では、多数の完形土器の出土と既に掘り出されていた小石槨内から2本の刀子が得られていた。(後漢鏡が伴った可能性もあったか)しかし、石器の記載はない。
ここで少し整理してみよう。岡崎氏が論考を仕上げたのが昭和13年6月29日、13年当時明確になっている立岩丘陵の遺跡は、測候所、測候所下、焼ノ正(飯塚高女の校庭)、下ノ方、市営運動場の各遺跡(調査消滅)となろう。その内、中山氏の調査段階で市営運動場、測候所、下ノ方(当時は焼ノ正)が明らかで、市営運動場から打製の石斧が出土している。下ノ方(当時は焼ノ正)では、石庖丁の製品と未成品、石剣破片、諸形式の石斧、完形の抉入石斧、紡錘車とある。しかし、測候所では土器と小石槨(石棺)と刀子の記載があるだけで、石器類の記載がないことから目立った出土はないらしい。中山氏が報告された立岩夫婦石にある市営運動場遺跡と当時は焼ノ正で後に下ノ方遺跡の2遺跡から多くの石器が得られ、研究対象となっている。
原点となる岡崎氏の「遠賀川上域の有紋彌生遺蹟地」を読み進めていくと、当時、中山氏の第1系土器(須玖式)と名和氏発見の第2系土器(有紋)があり、中山氏は第1系から第2系への変遷を想定、小林行雄氏はその逆を想定した。その後小林氏に軍配が上がるのは周知の事実である。岡崎氏は遠賀川流域の弥生遺跡地、中でも中山氏の第2系を立屋敷型式の存在を流域に求めていた。そんな中、立岩・潤野に田川の伊方・糸田の4遺跡を遠賀川式土器を出土する遺跡として紹介している。当時、嘉穂郡に50、田川郡に10遺跡が知られながら、遠賀川式を出土するのは先の4遺跡で、あとは土師器系統としるされている。つまり、弥生でも最も古式とされる土器群が見いだされる遺跡を選出している。
立岩は昭和8年に発見され、中山氏によって学会に報告された。その後の動向として清賀義勇氏所蔵の銅戈鋳型が重要物として紹介されている。次に、岡崎氏本人が参加した昭和13年3月の遺跡見学の状況が記されている。おそらく九州考古学会ではなかろうか、名和洋一郎氏の案内で、昭和9年から10年にかけ飯塚高女の建設に際し整地され、その工事中に発見された遺跡であり、発見者は名和氏である。工事中に発見された包含層の位置は、校舎の部分と整地によって削り取られた高さ3mの切通しの上で、校舎部分は既に消滅し、見学当時は崖上にある30㎝程度の包含層を調査し、木炭・土器の破片、石器が出土するとある。「従来出土品としては、弥生土器・黒曜石片・紡錘車・石斧・石鑿(扁平石斧)・石剣・石鎌・石庖丁及びその原石等が多数発掘せられている。」石庖丁及びその原石等は、石庖丁の製品と未成品である。気になるのは黒曜石片と石斧で、もちろん弥生にも黒曜石はあるが、今日に残っているのだろうか、石斧と扁平石斧とは区別してあり、蛤刃を主とするものを示すのか、それとも、そのほかのものも含め、石斧類にしているのか注目される。
岡崎氏は立岩の現状として飯塚高女(現嘉穂東高校)の調査を掲載している。ここが、本来の焼ノ正遺跡であり、中山氏が焼ノ正遺跡としたのは下ノ方遺跡に訂正されたが、昭和13年にはすでに訂正されていたのであろうか、たしか、森貞次郎氏が嘉穂中学校に赴任されるのが昭和14年だったと思われる。そして、古代文化に発表された論考では、訂正がなされている。
さて、「遠賀川上域の有紋彌生遺蹟地」の挿図を見ていくと、大型石庖丁、石庖丁3点、石鎌、石剣、抉入石斧、柱状片刃石斧は、焼ノ正遺跡とあるが、これらは下ノ方遺跡である。石戈の1点と扁平石斧1点は夫婦石でつまり市営運動場である。挿図の(2)が問題の石器であるが、場所は判然としない。しかし、ここにならぶ石器は、少なくとも市営運動場と下ノ方が含まれている。昭和9年4月号の『考古学』に掲載された中山氏の論考「飯塚市附近の遺蹟より出土せる石鎌並びに其の系統の遺物に就いて」の中で、運動場遺跡とは別に県道新設の工事により新たに発見された遺跡の遺物を観察に飯塚市役所の山本宇兵衛氏のもとを訪れた。その時、新たな遺跡から出土した1点の大石庖丁様の無孔石器について説明を求められている。当時はその新遺跡を焼ノ正遺跡と称し、石庖丁製作遺跡として公表された事は周知のことである。その大型石庖丁は岡崎氏の挿図(11)や嘉穂地方史の挿図にも紹介され、今日、飯塚資料館に保管されているものと思われる。ただし、出土地点が焼ノ正となっているが下ノ方と変更すべきかもしれない。
※上記の大石庖丁様の無孔石器は、石鎌と判明した。また、大形石庖丁は、石村一男「北九州出土の異形石庖丁」考古学8-9昭和12年に実測図と焼ノ正遺跡としている。また、飯塚市役所で多数の磨製石器の図形をとったとも記されている。石村氏の図と岡崎氏の図を比較すると、両端の抉り部の形状や刃部の稜線が微妙に異なっていて、岡崎氏は石村氏の原図を使用することなく、自ら飯塚市役所の資料を図から実測したと考えられる。ちなみに、岡崎氏の石器図面は、タッチや剥離面の表現等が同じである。当時の交通事情や気風からして、何日も実測に時間をかけることは考えられない。特に、先方への迷惑を真っ先に考える時代である。かなり集中的に短期間で終わらせたに違いない。
上記の文中に興味ある記載がある。立岩の石器の紹介で真っ先に取り上げたのが、局部磨製石斧である。類似資料を底井野の資料としながら、「農耕社会といふことを前提とするならば一種の鍬云った方が適当かもしれない。」として扁平石斧や蛤刃石斧とは区別しており、その物が磨製ではなく打製石器であることをにおわせている。しかし、刃部は磨製を示す研磨のラインが半円を描き、断面は薄いが両面から磨かれていることがわかる。旧制中学時代の岡崎氏はこの局部磨製石斧をどのように見ていたのか、詳細は分からないが刃先を両面から研磨するものの他の部分は剥離痕と自然面である。氏は大陸系磨製石器とは一線を画していて、縄文の打製石器との類似を指摘するが、刃先の研磨は新たな知見であったろう。縄文の打製石斧は土堀具としての用途と認識されていた。形態の類似は当然用途的な類似を示すことになろう。しかし、当時、立岩採集の当品は弥生時代という観念が広がっていた。そこで、農耕社会の石器とすればという前提をたてれば「一種の鍬」となる。仮に、立岩遺跡が縄文から弥生という複合遺跡として周知されていれば、岡崎氏はストレートに縄文の石器として区分していた可能性が高い。
さらに読み進むと、最後に記された「ご指導を賜った石村、三友両先生」と遺跡と遺物に関しては、「名和、澤井、清賀、児島諸氏」という点が気になる。特に、遺物の実測図を示すにあたり立岩遺跡の鋳型は、清賀義勇氏所蔵である。本文中第3図(1)~(17)が立岩、(18)~(24)が潤野、(25)~(33)は田川の伊方と糸田となっている。潤野は児島氏で田川の2遺跡は澤井氏であろう。それでは、立岩と記された(1)~(17)の中で
(4)・(5)・(9)・(17)は中山氏の「飯塚市附近の遺蹟より出土せる石鎌並びに其の系統の遺物に就いて」考古学5-4の図版の9・10・6・5と同じで焼ノ正出土、つまり、森氏の訂正後に下ノ方となる。(6)・(9)は11・6相当し夫婦石、つまり、市営運動場(グランド)出土である。(11)・(12)~(14)・(16)は焼ノ正と記されるが、下ノ方となろう。石剣の破片類4点は(10)としてまとめられており、土器類の挿図にも見られるように同じヶ所から採集された破片類に1つの番号が付されているのと全く同じである。では、どこから得られたのであろうか。
(10)は石剣の柄の部分に相当するもので、上下逆さに見るべきと考える。図面の上部には断面図が入れ込まれており、折損面ではないことがわかる。(21)は潤野の資料は、上下が折損したものであり縦断面は記載されていない。(10)のものは、嘉穂地方史先史編の66図の12と思われ、立岩となっていて児島氏の所蔵となっている。石戈(8)と(9)は森論文の9図の12と15に相当し、(9)はグランド出土で当時飯塚市役所蔵と考えられる。(6)の扁平片刃石斧は、森貞次郎氏の「古期弥生式文化に於ける立岩文化期の意義」の第7図の5である。(7)は同図の8と同じと思われる。(6)(7)はともに立岩と記されており、昭和17年であることから岡崎論文に時期が近い。森論文の興味ある記載は、女学校遺跡には、粘板岩や青白色粘板岩の扁平石斧、鑿形、抉入石斧が多かったとあり、先の岡崎氏は(6)を鑿形と表現し(7)を扁平石斧とし区分している。(6)は刃先が半円状に磨かれており、森論文の7図の5に相当する。(7)は直線的である。
現段階で岡崎氏が実測発表されたもので、採集地点が不明で、なおかつ、その後の論考にも登場しないものが(1)蛤刃石斧、(2)問題の局部磨製石斧、(3)は棒状切刃石斧と称される棒状を呈した石斧、(15)の打製と見られる有柄石剣の未成品か有茎尖頭器?である。それら資料を再見すると(1)蛤刃 石斧は当時の資料としてもおよそ納得できない、刃先の先端部のみの欠損品である。森論文には完形及び完形に近い蛤刃石斧が示されている。当時の状況は分からないが、市営運動場・測候所・下ノ方の採集遺物が市役所に集められ、測候所下は、個人や嘉穂中学に集められていた。飯塚高女もまた個人・飯塚高女・嘉穂中に集められていた。
今のところ岡崎論文で明確な採集地は、下ノ方遺跡が多くグランド遺跡が一部存在するが、それ以外の採集地点は不明である。というより、そもそも、挿図の資料実測が行われたのは限られた場所、つまり、当時の飯塚市役所所蔵資料ではなかったかと思うのである。例えば、岡崎氏の先生である石村一男氏は、飯塚市役所で多数の磨製石器の実測を行い、「北九州出土の異形石庖丁」考古学8-9昭和12年に焼ノ正遺跡とし発表している。その際に、岡崎氏が同行もしくは、内容を聞いていたことは確かであろう。また、児島隆人氏は、旧制中学時代から岡崎氏がよく訪れていたという。実際に遺物関連の実測では児島氏のお世話になっている。
そろそろ、石斧の採集地点を絞り込まねばならなくなってきた。 (1)蛤刃石斧、(2)問題の局部磨製石斧、(3)は棒状切刃石斧、(15)の打製と見られる有柄石剣の未成品?が出所不明ということになっているが、それ以外の多くが当時は焼ノ正遺跡後に下ノ方遺跡と改められる。それに、市営運動場遺跡が若干混在しており、いずれも、飯塚市役所所蔵である。これらは、石村一男氏によってすでに実見され実測されていたものであろう。昭和8~10年までに採集され、市役所に所蔵されたものである。
飯塚歴史資料館の嶋田さんは、立岩と書かれた古い木箱に1点のみが収められていたとのこと、しかし、他に遺物はなく、もちろん、資料に何の記載もない。児島氏の『立岩』には清賀氏の資料にはどれも丁寧にラベルが貼ってあったと記されている。それに、清賀氏の資料は一括してずっと後に寄贈されており、まとめられている。嘉穂中学は嘉穂高校に、飯塚高女は嘉穂東高校にそれぞれ所蔵されている。児島氏個人蔵は資料館に寄贈されているようである。寄贈品は資料館でしっかりと把握されているはずで、一箱だけということはなかろう。残るは、市役所から教育委員会、資料館という流れの資料に落ち着くのではないか。
現状では、下ノ方遺跡と市営運動場遺跡の可能性が高いと思われる。尖頭器の写真を見ていち早く答えてくれた杉原君は、多久型の槍先形尖頭器で一部に研磨痕があるのではと指摘した。宮崎の藤木君は多久型で納得、まだ、表面に残る土を黄褐色土で地点や層を知るヒントにはならないかという意見をもらった。
森貞次郎氏は、昭和17年代に市営運動場で「薄いローム層の被覆」と記している。関東に学んだ森氏は当然、ローム層を知っていた。そこは、甘木山の奥に広がる低丘陵である。同じ山から遠賀川方向に広がる低丘陵が焼ノ正と下ノ方両遺跡で、両者は字名こそ違うが地形的には西に張り出した同じ地形である。おそらく、薄いロームが被覆していた可能性は大きい。
結論としては、石器類が大量に発見された下ノ方遺跡を候補としたい。尖頭器とはやや異なるが同一遺跡として、黄褐色土の中に多久型尖頭器と神子柴型石斧は含まれていたのではなかろうか、さらに、追求すべき重要性を持つ。ちなみに、岡崎氏の実測図にある、打製石器の(15)有柄石剣の未成品?は、何であるのかまことに興味深い。
最後に、遺跡の資料を嘉穂地方史先史編の執筆時期に、所有者はどうなっていたのか。また、森論文と比較してみよう。
市営運動場(S8~9) 市役所から資料館 石剣 石戈 石棒
(森論文) 飯塚市役所蔵 薄いローム層の被覆し、中山博士が調査に当たられた遺物は、
飯塚市役所蔵
測候所内(S9頃) 飯塚市役所から資料館 石庖丁 石剣 石斧
(森論文) 飯塚市役所蔵 完形土器の大部分
測候所下(S9頃) 名和洋一郎、嘉穂高校 土器(前・中) 包含層
(森論文) 清賀義勇、嘉穂中学校 石庖丁 クリス形石剣 紡錘石 扁平片刃石斧 太形蛤刃斧投弾形土製品
焼ノ正(S9~10) 嘉穂東、清賀義勇 児島隆人 石庖丁 石剣 石戈 銅戈鋳型 砥石 石鏃
(森論文)女学校遺蹟 清賀義勇 嘉穂中学校 嘉穂女学校 夥しい石庖丁を主として 石剣 クリス形石剣 太形蛤刃石斧 扁平片刃 石斧 砥石 紡錘石 投弾形土製品 その他クリス形銅剣の鋳型
下ノ方(S9) 清賀義勇 嘉穂東 石庖丁 石剣 石戈 銅戈鋳型 砥石
(森) 飯塚市役所 嘉穂中学校 夥しい石庖丁と未製品 クリス形石剣 太形蛤刃石斧 扁平片刃石斧 砥石 抉入石剣 石鑿 石鎌
飯塚市潤野である調査が実施されている。深く掘りこまれたトレンチの壁面に明確に区分される層位が観察された。段丘面に見えた層は、上部が畑で失われていたが、黄(褐)色土層、薄い褐色土層、黄色土に礫を混在する層、以下、褐色土、青灰色砂層、褐色砂礫層と続く。薄い褐色土層が2万数千年前と判明した。とすれば、上部の黄色あるいは黄褐色土が1万年代となる。これがロームかレス層かはわからないそうだが、立岩の尖頭器に付着する層は、この黄(褐)色土層の可能性が高い。今まで、赤色層を狙って行動していたが、これは古すぎる層なのかもしれない。目指すは黄(褐)色土層、薄い褐色土層に決まった。飯塚市潤野をはじめ竜王山麓に広がる洪積世の台地や丘陵には、確かに層が存在する。また、立岩丘陵でも確認する意味は、深いであろう。
森 貞次郎論文 「古期弥生式文化に於ける立岩文化期の意義」『古代文化』13-7昭和17は、やはりすばらしい。繰り返し読むたびに新たな発見をするのだ。私は先に「結論としては、石器類が大量に発見された下ノ方遺跡を候補としたい。尖頭器とはやや異なるが同一遺跡として、黄褐色土の中に多久型尖頭器と神子柴型石斧は含まれていたのではなかろうか、さらに、追求すべき重要性を持つ。ちなみに、岡崎氏の実測図にある、打製石器の(15)有柄石剣の未成品?は、何であるのかまことに興味深い。」と書いてしまった。岡崎先生の図面とその後に発表された論考掲載資料と何度も突き合せた結果、問題の石斧について場所を特定できなかった。 (1)蛤刃石斧、(2)問題の局部磨製石斧、(3)は棒状切刃石斧、(15)の打製と見られる有柄石剣の未成品?の4点である。多くは下ノ方で一部が市営運動場だった。
ところが、昨夜(3/16)、なんとなく森論文を読み返していてハッとした。復刻版の375ページに石斧の項があり、「興味ある事は粘板岩製のC4等の石庖丁の出た立岩、女学校遺蹟に粘板岩或は黄白色粘板岩の扁平石斧、鑿形、抉入石斧が多かった事である。」と記されている。立岩の局部磨製石斧はサヌカイト製であり、刃先のガジリを見れば黒色でそれとわかる。しかし、全体は風化して黄白色あるいは黄灰色をしており、石材は容易にわからない。刃先のガジリは石材の見極めかもしれない。女学校遺蹟は立岩でも石斧類が多く出土したことで森氏は印象深かったようで、そのことが1つある。また、問題の局部磨製石斧は色調から黄白色に極めて近い。また、カジリから見られる色調は、粘板岩と同じ黒色である。当時、サヌカイト製品が弥生遺跡で知られていたかは疑問で、黒色系で薄く剥離する石材は粘板岩となる可能性が高い。もちろん、旧石器は知られていない時代である。
以上の点からして、最終判断は女学校遺蹟、つまり、焼ノ正遺跡であり、多久型の槍先形尖頭器が採集された嘉穂東高校である。したがって、局部磨製石斧と多久型の槍先形尖頭器は伴うというのが結論である。
岡崎氏の戦前の論考「遠賀川上域の有紋彌生遺蹟地」の挿図(第3図)の(1)~(17)が立岩の採集資料であるが、(2)の扁平な石斧が問題の資料である。実測図が非常に小さいが寸法は一致しており左側面の稜線や右側面に残る剥離面、先端部が研磨されている様子や断面形状など、まず間違いないものと考えられる。
岡崎論文中に、立岩の飯塚高等女学校遺跡を紹介している。名和洋一郎氏によって発見された当遺跡は、現在の嘉穂東高校の全域に及んだらしく、その中心は旧校舎付近と、当時削り取られた高さ3mの崖上に存在しており、岡崎氏たちはその上によじ登って調査したらしい。ここは、工事中やその後におびただしい石庖丁製品と土器片に多くの石器が出土したという。また、森貞次郎氏は、包含層の下から土器棺が出土した事を記している。昭和28年代に採集されたサヌカイト製の尖頭器は、当遺跡のもので、名和・岡崎両氏がよじ登った崖上の包含層と考えられる。
そもそも、昭和8年に飯塚市営運動場が発見され、中山平次郎氏により調査が行われたが、その途中で、下ノ方遺跡が土取り工事の際に発見され、発見者の名和洋一郎氏とともに中山氏も石庖丁未成品等の採集を行っている。下ノ方遺跡は、当時、焼ノ正遺跡と呼ばれたが正しくは下ノ方として、森貞次郎「古期弥生式文化に於ける立岩文化期の意義」『古代文化』13-7昭和17中にある「遠賀川流域に於ける主要遺蹟の一覧」の下ノ方遺蹟の記載中に訂正がなされている。ただし、焼ノ正と下ノ方は隣接している。ちなみに、昭和12年9月に発刊された石村一男「北九州出土の異形石庖丁」考古学8-9には、飯塚市市役所で磨製石器の実測を行っていて、岡崎論文挿図の大型石庖丁は焼ノ正遺蹟として掲載してある。昭和12年段階では、まだ、下ノ方との訂正はないようである。
※昭和14年森貞次郎氏が嘉穂中学に赴任した時期も焼ノ正遺跡は下ノ方と変更していない。森論文が17年でこの時点で下ノ方に変更されている。
昭和9年から10年にかけ、下ノ方遺跡に隣接する焼ノ正では飯塚高等女学校の建設が開始され、膨大な資料が得られた。当時、遠賀川に張り出した緩やかな丘陵上にあって、当時の校舎中程から多くの資料が得られたが消滅し、そこからから南東の土取り工事によって3mもの切通しとなった崖上に30㎝ほどの包含層が残された。名和・岡崎両氏がよじ登ったのはその崖上であった。
以上は、すでに記載した内容であるが、改めて学史的に掘り起す必要がありそうだ。思えば、九歴を訪ねた折には、横田義章さんがいた金属器の処理室をよく訪ねた。ある時、突然机の上に石器を取り出しニコニコしながら「すごいやろう」と言って、「立岩から出たらしい」と続けた。横田さんは、突然、「これすごいだろう」とか言いながら、なんであるかを抜きにして場所や状況など説明してもらうのだが、何であるのかが不明なため会話にならず、相槌を打つだけとなった。ある時は中国式の銅剣、青銅の鏡、鉄器の象嵌などである。そして、「まだ内緒だけど」と加わる。その義章さんが立岩の局部磨製石斧を取り出して見せてくれた。岡崎先生の論考に掲載してあることも聞いた。持つと確かにサヌカイトとわかるし、刃先の一部に新しい欠損があり、灰黒色の内部が見える。「サヌカイト製の石斧・・・・」古式の石斧で旧石器かとも思ったが、まさか立岩に旧石器とはにわかに信じがたく、実は、嘉穂東の尖頭器を見るまでは半信半疑ですごしてきた。というのも、嘉穂地域外で採集されたものが、たまたま、立岩と記された箱に入っていた可能性を考えるくらいであった。中山平次郎氏以来80年近く様々な人々が闊歩し、あらゆるものを拾い集めていた時代が続いてきた。時に発掘調査され、フィールドでは何人もの著名な考古学研究者が排出されたのである。その中に、他地域で採集したものが持ち込まれても何ら不思議ではなかった。森論文中に「石鏃は黒曜石のものが多く、形式は彌生式の特徴を有する無柄の有肩のものである。黒曜石の石屑は各遺蹟に非常に多い。」
とある。無柄の有肩とはどのような形態であろうか、少なくとも抉りはほとんどないか浅いものであろう。しかし、五角形や三角形の鏃とは表現していない。想像するに、先端から基部へのラインが張り出すような状況であろうか、昭和17年段階での弥生の石鏃をどのように見ていたか。今の目をもってすればもう少し時期の判定が出来るが、残念ながら図示されていない。繰り返すが、嘉穂東の尖頭器を見た瞬間確かに立岩には、旧石器末から縄文草創期の文化が存在したと認識した。
尖頭器が嘉穂東高内で採集されたことは確実なようだ、昭和29年のことで当校が火災にあった年のようである。だから、土がついたままなのであろうか。問題は、石斧の出土場所が絞り込めないかということである。絞り込めない以上、尖頭器と伴うのか証明できない。昭和14年2月発刊 岡崎 敬 「遠賀川上流の有紋彌生式遺蹟地」考古学雑誌29巻の2 この論文は、少なくとも昭和14年2月以前に書かれ、日本考古学会に送付されたものである。したがって、本文中第3図に図示されている遺物群は昭和14年以前の出土遺物である。
※付加え・・・文献は最後まで読むべきと反省する。というのは、岡崎氏の論考の最後に(昭和13年6月29日稿)と記してある。とすれば本年の3月見学会というのは昭和13年の3月となり、年度でいえば昭和12年度末ということである。13年当時明確になっている立岩丘陵の遺跡は、測候所、測候所下、焼ノ正(飯塚高女の校庭)、下ノ方、市営運動場遺跡(調査消滅)となろう。また、昭和12年12月12日に名和氏は、飯塚高女の崖上から遠賀川式と須玖式土器を採集し、これが岡崎論文に掲載してある。
昭和12年の夏に岡崎市は澤井一雄氏と伊方遺蹟を実査している。続いて糸田遺蹟で発掘を行っている。つまり、12年の夏は伊方から糸田(発掘)、明けて13年3月に焼ノ正の踏査を行っている。その間、名和氏は12月に焼ノ正から土器を採集している。岡崎氏は田川の2遺蹟について昭和12年夏、旧制中学の学生であった氏は、夏休みを利用して発掘と実測を行ったことが推定される。また、参考文献中最も新しい文献は、石村一男「北九州出土の異形石庖丁」考古学8-9 昭和12年9月の発刊である。
岡崎氏は、土器に関しては昭和12年の夏から年末にかけての採集資料を実測して使用している。年が改まり13年の3月に飯塚高女に名和氏とともに見学に訪れている。田川の資料を夏休みに、飯塚高女の土器資料は冬休みから春休みにかけて実測している可能性が高い。それでは、石器の実測はいつ頃行ったかが知りたくなる。
内容を読むと、飯塚高女の校庭に露出した黒色の土器包含層の紹介がある。すでに学校は完成しており校庭の東南に位置する高さ3mの崖上にある30㎝程度の包含層の可能性が高い。案内した名和洋一郎氏は、すでに現地の状況を把握していたもので、見学会を実施したことになる。文中に「本年3月に見学の機会」とあり、昭和13年の3月以前に遡ることになる。飯塚高女は焼ノ正遺跡そのものであり、昭和9~10年にかけて土取りと整地が行われていたようで、大量の遺物が出土している。
児島隆人氏の『立岩』を読むと、昭和8年10月立岩の市営運動場工事により出土した甕棺の調査に中山博士あたられ、昭和9年に報告等が出されている。森本六爾氏宅を訪れ「考古学」の抜き刷りをもらい立岩の存在を知ったと書かれている。昭和9年の冬に早速現地を訪れた当地には甕棺の破片が散乱していた。翌10年の夏休みに飯塚市役所を訪れた児島氏は山本宇兵衛氏の説明と多くの出土品を目にした。
中山氏が調査する市営運動場遺跡を見学に来た名和洋一郎氏は、いち早く、甘木山から下る丘陵が削り取られ、そこに散乱する遺物群に目をつけ採集を始める。中山氏もこれに参加して採集した資料が、石庖丁の未成品や製品が圧倒的に多く、後に石庖丁制作所跡として焼ノ正遺跡の名で報告される。森貞次郎氏によりそこが焼ノ正遺跡に隣接する下ノ方遺跡と改められるが、その学術的価値は微動だにしない。児島氏によると測候所、測候所下、焼ノ正、下ノ方が市営運動場遺跡に加わって、昭和10年代の調査遺跡と締めくくられている。
そこで、中山氏の調査報告(昭和8年10月に運動場工事が着手、12月17日に九州考古学会が見学、20日の新聞に甕棺等の記事が出て、23日から調査)から岡崎氏の論考が書かれたと考えられる昭和13年3月、つまり、昭和12年度までの立岩丘陵地における調査事例を追うことにする。
中山氏の報告の中に気になる記載がある。その報告を読むと甕棺の発掘等は誰が行っていたのであろうか、例えば昭和8年10月に開始された発掘調査により3カ月近く土取りを行う中で様々な遺物が採集されていた模様である。飯塚市役所の山本宇兵衛氏が中心となって遺物が集められたようで、土木という開発側に立っての収集は大いに大変であったろう。その山本氏が中山氏に差し出した立岩周辺の詳細な道路地図に、中山氏自ら市営運動場遺跡、気象測候所遺跡、下ノ方(当時焼ノ正遺跡)遺跡の3ヶ所を×印で示した。昭和9年の段階である。報文中には、運動場から得られた遺物の石器の記載で気になったのは,「打製及び磨製石斧」というもので打製の石斧が含まれているようである。残念ながら図示はされていないが、局部磨製石斧の可能性として注目すべきであろう。
続いて気象測候所の紹介では、多数の完形土器の出土と既に掘り出されていた小石槨内から2本の刀子が得られていた。(後漢鏡が伴った可能性もあったか)しかし、石器の記載はない。
ここで少し整理してみよう。岡崎氏が論考を仕上げたのが昭和13年6月29日、13年当時明確になっている立岩丘陵の遺跡は、測候所、測候所下、焼ノ正(飯塚高女の校庭)、下ノ方、市営運動場の各遺跡(調査消滅)となろう。その内、中山氏の調査段階で市営運動場、測候所、下ノ方(当時は焼ノ正)が明らかで、市営運動場から打製の石斧が出土している。下ノ方(当時は焼ノ正)では、石庖丁の製品と未成品、石剣破片、諸形式の石斧、完形の抉入石斧、紡錘車とある。しかし、測候所では土器と小石槨(石棺)と刀子の記載があるだけで、石器類の記載がないことから目立った出土はないらしい。中山氏が報告された立岩夫婦石にある市営運動場遺跡と当時は焼ノ正で後に下ノ方遺跡の2遺跡から多くの石器が得られ、研究対象となっている。
原点となる岡崎氏の「遠賀川上域の有紋彌生遺蹟地」を読み進めていくと、当時、中山氏の第1系土器(須玖式)と名和氏発見の第2系土器(有紋)があり、中山氏は第1系から第2系への変遷を想定、小林行雄氏はその逆を想定した。その後小林氏に軍配が上がるのは周知の事実である。岡崎氏は遠賀川流域の弥生遺跡地、中でも中山氏の第2系を立屋敷型式の存在を流域に求めていた。そんな中、立岩・潤野に田川の伊方・糸田の4遺跡を遠賀川式土器を出土する遺跡として紹介している。当時、嘉穂郡に50、田川郡に10遺跡が知られながら、遠賀川式を出土するのは先の4遺跡で、あとは土師器系統としるされている。つまり、弥生でも最も古式とされる土器群が見いだされる遺跡を選出している。
立岩は昭和8年に発見され、中山氏によって学会に報告された。その後の動向として清賀義勇氏所蔵の銅戈鋳型が重要物として紹介されている。次に、岡崎氏本人が参加した昭和13年3月の遺跡見学の状況が記されている。おそらく九州考古学会ではなかろうか、名和洋一郎氏の案内で、昭和9年から10年にかけ飯塚高女の建設に際し整地され、その工事中に発見された遺跡であり、発見者は名和氏である。工事中に発見された包含層の位置は、校舎の部分と整地によって削り取られた高さ3mの切通しの上で、校舎部分は既に消滅し、見学当時は崖上にある30㎝程度の包含層を調査し、木炭・土器の破片、石器が出土するとある。「従来出土品としては、弥生土器・黒曜石片・紡錘車・石斧・石鑿(扁平石斧)・石剣・石鎌・石庖丁及びその原石等が多数発掘せられている。」石庖丁及びその原石等は、石庖丁の製品と未成品である。気になるのは黒曜石片と石斧で、もちろん弥生にも黒曜石はあるが、今日に残っているのだろうか、石斧と扁平石斧とは区別してあり、蛤刃を主とするものを示すのか、それとも、そのほかのものも含め、石斧類にしているのか注目される。
岡崎氏は立岩の現状として飯塚高女(現嘉穂東高校)の調査を掲載している。ここが、本来の焼ノ正遺跡であり、中山氏が焼ノ正遺跡としたのは下ノ方遺跡に訂正されたが、昭和13年にはすでに訂正されていたのであろうか、たしか、森貞次郎氏が嘉穂中学校に赴任されるのが昭和14年だったと思われる。そして、古代文化に発表された論考では、訂正がなされている。
さて、「遠賀川上域の有紋彌生遺蹟地」の挿図を見ていくと、大型石庖丁、石庖丁3点、石鎌、石剣、抉入石斧、柱状片刃石斧は、焼ノ正遺跡とあるが、これらは下ノ方遺跡である。石戈の1点と扁平石斧1点は夫婦石でつまり市営運動場である。挿図の(2)が問題の石器であるが、場所は判然としない。しかし、ここにならぶ石器は、少なくとも市営運動場と下ノ方が含まれている。昭和9年4月号の『考古学』に掲載された中山氏の論考「飯塚市附近の遺蹟より出土せる石鎌並びに其の系統の遺物に就いて」の中で、運動場遺跡とは別に県道新設の工事により新たに発見された遺跡の遺物を観察に飯塚市役所の山本宇兵衛氏のもとを訪れた。その時、新たな遺跡から出土した1点の大石庖丁様の無孔石器について説明を求められている。当時はその新遺跡を焼ノ正遺跡と称し、石庖丁製作遺跡として公表された事は周知のことである。その大型石庖丁は岡崎氏の挿図(11)や嘉穂地方史の挿図にも紹介され、今日、飯塚資料館に保管されているものと思われる。ただし、出土地点が焼ノ正となっているが下ノ方と変更すべきかもしれない。
※上記の大石庖丁様の無孔石器は、石鎌と判明した。また、大形石庖丁は、石村一男「北九州出土の異形石庖丁」考古学8-9昭和12年に実測図と焼ノ正遺跡としている。また、飯塚市役所で多数の磨製石器の図形をとったとも記されている。石村氏の図と岡崎氏の図を比較すると、両端の抉り部の形状や刃部の稜線が微妙に異なっていて、岡崎氏は石村氏の原図を使用することなく、自ら飯塚市役所の資料を図から実測したと考えられる。ちなみに、岡崎氏の石器図面は、タッチや剥離面の表現等が同じである。当時の交通事情や気風からして、何日も実測に時間をかけることは考えられない。特に、先方への迷惑を真っ先に考える時代である。かなり集中的に短期間で終わらせたに違いない。
上記の文中に興味ある記載がある。立岩の石器の紹介で真っ先に取り上げたのが、局部磨製石斧である。類似資料を底井野の資料としながら、「農耕社会といふことを前提とするならば一種の鍬云った方が適当かもしれない。」として扁平石斧や蛤刃石斧とは区別しており、その物が磨製ではなく打製石器であることをにおわせている。しかし、刃部は磨製を示す研磨のラインが半円を描き、断面は薄いが両面から磨かれていることがわかる。旧制中学時代の岡崎氏はこの局部磨製石斧をどのように見ていたのか、詳細は分からないが刃先を両面から研磨するものの他の部分は剥離痕と自然面である。氏は大陸系磨製石器とは一線を画していて、縄文の打製石器との類似を指摘するが、刃先の研磨は新たな知見であったろう。縄文の打製石斧は土堀具としての用途と認識されていた。形態の類似は当然用途的な類似を示すことになろう。しかし、当時、立岩採集の当品は弥生時代という観念が広がっていた。そこで、農耕社会の石器とすればという前提をたてれば「一種の鍬」となる。仮に、立岩遺跡が縄文から弥生という複合遺跡として周知されていれば、岡崎氏はストレートに縄文の石器として区分していた可能性が高い。
さらに読み進むと、最後に記された「ご指導を賜った石村、三友両先生」と遺跡と遺物に関しては、「名和、澤井、清賀、児島諸氏」という点が気になる。特に、遺物の実測図を示すにあたり立岩遺跡の鋳型は、清賀義勇氏所蔵である。本文中第3図(1)~(17)が立岩、(18)~(24)が潤野、(25)~(33)は田川の伊方と糸田となっている。潤野は児島氏で田川の2遺跡は澤井氏であろう。それでは、立岩と記された(1)~(17)の中で
(4)・(5)・(9)・(17)は中山氏の「飯塚市附近の遺蹟より出土せる石鎌並びに其の系統の遺物に就いて」考古学5-4の図版の9・10・6・5と同じで焼ノ正出土、つまり、森氏の訂正後に下ノ方となる。(6)・(9)は11・6相当し夫婦石、つまり、市営運動場(グランド)出土である。(11)・(12)~(14)・(16)は焼ノ正と記されるが、下ノ方となろう。石剣の破片類4点は(10)としてまとめられており、土器類の挿図にも見られるように同じヶ所から採集された破片類に1つの番号が付されているのと全く同じである。では、どこから得られたのであろうか。
(10)は石剣の柄の部分に相当するもので、上下逆さに見るべきと考える。図面の上部には断面図が入れ込まれており、折損面ではないことがわかる。(21)は潤野の資料は、上下が折損したものであり縦断面は記載されていない。(10)のものは、嘉穂地方史先史編の66図の12と思われ、立岩となっていて児島氏の所蔵となっている。石戈(8)と(9)は森論文の9図の12と15に相当し、(9)はグランド出土で当時飯塚市役所蔵と考えられる。(6)の扁平片刃石斧は、森貞次郎氏の「古期弥生式文化に於ける立岩文化期の意義」の第7図の5である。(7)は同図の8と同じと思われる。(6)(7)はともに立岩と記されており、昭和17年であることから岡崎論文に時期が近い。森論文の興味ある記載は、女学校遺跡には、粘板岩や青白色粘板岩の扁平石斧、鑿形、抉入石斧が多かったとあり、先の岡崎氏は(6)を鑿形と表現し(7)を扁平石斧とし区分している。(6)は刃先が半円状に磨かれており、森論文の7図の5に相当する。(7)は直線的である。
現段階で岡崎氏が実測発表されたもので、採集地点が不明で、なおかつ、その後の論考にも登場しないものが(1)蛤刃石斧、(2)問題の局部磨製石斧、(3)は棒状切刃石斧と称される棒状を呈した石斧、(15)の打製と見られる有柄石剣の未成品か有茎尖頭器?である。それら資料を再見すると(1)蛤刃 石斧は当時の資料としてもおよそ納得できない、刃先の先端部のみの欠損品である。森論文には完形及び完形に近い蛤刃石斧が示されている。当時の状況は分からないが、市営運動場・測候所・下ノ方の採集遺物が市役所に集められ、測候所下は、個人や嘉穂中学に集められていた。飯塚高女もまた個人・飯塚高女・嘉穂中に集められていた。
今のところ岡崎論文で明確な採集地は、下ノ方遺跡が多くグランド遺跡が一部存在するが、それ以外の採集地点は不明である。というより、そもそも、挿図の資料実測が行われたのは限られた場所、つまり、当時の飯塚市役所所蔵資料ではなかったかと思うのである。例えば、岡崎氏の先生である石村一男氏は、飯塚市役所で多数の磨製石器の実測を行い、「北九州出土の異形石庖丁」考古学8-9昭和12年に焼ノ正遺跡とし発表している。その際に、岡崎氏が同行もしくは、内容を聞いていたことは確かであろう。また、児島隆人氏は、旧制中学時代から岡崎氏がよく訪れていたという。実際に遺物関連の実測では児島氏のお世話になっている。
そろそろ、石斧の採集地点を絞り込まねばならなくなってきた。 (1)蛤刃石斧、(2)問題の局部磨製石斧、(3)は棒状切刃石斧、(15)の打製と見られる有柄石剣の未成品?が出所不明ということになっているが、それ以外の多くが当時は焼ノ正遺跡後に下ノ方遺跡と改められる。それに、市営運動場遺跡が若干混在しており、いずれも、飯塚市役所所蔵である。これらは、石村一男氏によってすでに実見され実測されていたものであろう。昭和8~10年までに採集され、市役所に所蔵されたものである。
飯塚歴史資料館の嶋田さんは、立岩と書かれた古い木箱に1点のみが収められていたとのこと、しかし、他に遺物はなく、もちろん、資料に何の記載もない。児島氏の『立岩』には清賀氏の資料にはどれも丁寧にラベルが貼ってあったと記されている。それに、清賀氏の資料は一括してずっと後に寄贈されており、まとめられている。嘉穂中学は嘉穂高校に、飯塚高女は嘉穂東高校にそれぞれ所蔵されている。児島氏個人蔵は資料館に寄贈されているようである。寄贈品は資料館でしっかりと把握されているはずで、一箱だけということはなかろう。残るは、市役所から教育委員会、資料館という流れの資料に落ち着くのではないか。
現状では、下ノ方遺跡と市営運動場遺跡の可能性が高いと思われる。尖頭器の写真を見ていち早く答えてくれた杉原君は、多久型の槍先形尖頭器で一部に研磨痕があるのではと指摘した。宮崎の藤木君は多久型で納得、まだ、表面に残る土を黄褐色土で地点や層を知るヒントにはならないかという意見をもらった。
森貞次郎氏は、昭和17年代に市営運動場で「薄いローム層の被覆」と記している。関東に学んだ森氏は当然、ローム層を知っていた。そこは、甘木山の奥に広がる低丘陵である。同じ山から遠賀川方向に広がる低丘陵が焼ノ正と下ノ方両遺跡で、両者は字名こそ違うが地形的には西に張り出した同じ地形である。おそらく、薄いロームが被覆していた可能性は大きい。
結論としては、石器類が大量に発見された下ノ方遺跡を候補としたい。尖頭器とはやや異なるが同一遺跡として、黄褐色土の中に多久型尖頭器と神子柴型石斧は含まれていたのではなかろうか、さらに、追求すべき重要性を持つ。ちなみに、岡崎氏の実測図にある、打製石器の(15)有柄石剣の未成品?は、何であるのかまことに興味深い。
最後に、遺跡の資料を嘉穂地方史先史編の執筆時期に、所有者はどうなっていたのか。また、森論文と比較してみよう。
市営運動場(S8~9) 市役所から資料館 石剣 石戈 石棒
(森論文) 飯塚市役所蔵 薄いローム層の被覆し、中山博士が調査に当たられた遺物は、
飯塚市役所蔵
測候所内(S9頃) 飯塚市役所から資料館 石庖丁 石剣 石斧
(森論文) 飯塚市役所蔵 完形土器の大部分
測候所下(S9頃) 名和洋一郎、嘉穂高校 土器(前・中) 包含層
(森論文) 清賀義勇、嘉穂中学校 石庖丁 クリス形石剣 紡錘石 扁平片刃石斧 太形蛤刃斧投弾形土製品
焼ノ正(S9~10) 嘉穂東、清賀義勇 児島隆人 石庖丁 石剣 石戈 銅戈鋳型 砥石 石鏃
(森論文)女学校遺蹟 清賀義勇 嘉穂中学校 嘉穂女学校 夥しい石庖丁を主として 石剣 クリス形石剣 太形蛤刃石斧 扁平片刃 石斧 砥石 紡錘石 投弾形土製品 その他クリス形銅剣の鋳型
下ノ方(S9) 清賀義勇 嘉穂東 石庖丁 石剣 石戈 銅戈鋳型 砥石
(森) 飯塚市役所 嘉穂中学校 夥しい石庖丁と未製品 クリス形石剣 太形蛤刃石斧 扁平片刃石斧 砥石 抉入石剣 石鑿 石鎌
飯塚市潤野である調査が実施されている。深く掘りこまれたトレンチの壁面に明確に区分される層位が観察された。段丘面に見えた層は、上部が畑で失われていたが、黄(褐)色土層、薄い褐色土層、黄色土に礫を混在する層、以下、褐色土、青灰色砂層、褐色砂礫層と続く。薄い褐色土層が2万数千年前と判明した。とすれば、上部の黄色あるいは黄褐色土が1万年代となる。これがロームかレス層かはわからないそうだが、立岩の尖頭器に付着する層は、この黄(褐)色土層の可能性が高い。今まで、赤色層を狙って行動していたが、これは古すぎる層なのかもしれない。目指すは黄(褐)色土層、薄い褐色土層に決まった。飯塚市潤野をはじめ竜王山麓に広がる洪積世の台地や丘陵には、確かに層が存在する。また、立岩丘陵でも確認する意味は、深いであろう。
森 貞次郎論文 「古期弥生式文化に於ける立岩文化期の意義」『古代文化』13-7昭和17は、やはりすばらしい。繰り返し読むたびに新たな発見をするのだ。私は先に「結論としては、石器類が大量に発見された下ノ方遺跡を候補としたい。尖頭器とはやや異なるが同一遺跡として、黄褐色土の中に多久型尖頭器と神子柴型石斧は含まれていたのではなかろうか、さらに、追求すべき重要性を持つ。ちなみに、岡崎氏の実測図にある、打製石器の(15)有柄石剣の未成品?は、何であるのかまことに興味深い。」と書いてしまった。岡崎先生の図面とその後に発表された論考掲載資料と何度も突き合せた結果、問題の石斧について場所を特定できなかった。 (1)蛤刃石斧、(2)問題の局部磨製石斧、(3)は棒状切刃石斧、(15)の打製と見られる有柄石剣の未成品?の4点である。多くは下ノ方で一部が市営運動場だった。
ところが、昨夜(3/16)、なんとなく森論文を読み返していてハッとした。復刻版の375ページに石斧の項があり、「興味ある事は粘板岩製のC4等の石庖丁の出た立岩、女学校遺蹟に粘板岩或は黄白色粘板岩の扁平石斧、鑿形、抉入石斧が多かった事である。」と記されている。立岩の局部磨製石斧はサヌカイト製であり、刃先のガジリを見れば黒色でそれとわかる。しかし、全体は風化して黄白色あるいは黄灰色をしており、石材は容易にわからない。刃先のガジリは石材の見極めかもしれない。女学校遺蹟は立岩でも石斧類が多く出土したことで森氏は印象深かったようで、そのことが1つある。また、問題の局部磨製石斧は色調から黄白色に極めて近い。また、カジリから見られる色調は、粘板岩と同じ黒色である。当時、サヌカイト製品が弥生遺跡で知られていたかは疑問で、黒色系で薄く剥離する石材は粘板岩となる可能性が高い。もちろん、旧石器は知られていない時代である。
以上の点からして、最終判断は女学校遺蹟、つまり、焼ノ正遺跡であり、多久型の槍先形尖頭器が採集された嘉穂東高校である。したがって、局部磨製石斧と多久型の槍先形尖頭器は伴うというのが結論である。
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