宮崎の藤木君へ「歩けおじん」からの緊急ニュース。
あの、水が引かない新大間池が池畔の地肌を全面に出しているぞな。奇跡かもしれんので、38年ぶりに池におりようと思う。それと、堤防の脇にある丘陵が削られている。しかも、全面に赤土が露出しているようで、ぜひ確かめなければ気がすまない。同じく堤防のすぐ脇にあった丘陵は、あきらかに弥生の集落であったが、高校生の時に全て削られ、なすすべもなく前期の土器片を悔しい思いで今でも持っているが、今回は、すでに上半分は削り取られ、赤土が露出している。鳥栖ロームかも知れないが、見てみよう。
報告は後日、夢は大きく、事実は・・・。
報告します。地球歴 2009.12.27 99%の不安と1%の希望を胸に、新大間池に到着、目指す丘陵の上半部が削られたのはかなり以前と判明、水が抜いてあるのは護岸を拡張する工事のためで、半島状に突き出た丘陵の側面を削ることで、護岸の幅を広げようとしているらしい。しかも、発掘調査が実施されたようで、弥生と思われるがかなり残りの良い土壙墓群が列埋葬状に並んでいた。
結果から申せば、石器はいっさい落ちていない。あるのは、弥生土器(中期~後期前葉)と奈良あたりまでの須恵器がけっこう拾える。さて、丘陵の断面には鮮やかな土層が見られ、勉強にはなった。おそらく、変成岩の丘陵が谷状に開析され溝状のくぼみなった所に阿蘇4が堆積したように見えた。侵食された大きなくぼみを最初に明黄色の粘土がかなり厚く堆積した後に赤色の粘土層が覆っている。おそらく、八女粘土と鳥栖ロームと考えられる。
それでは、八女粘土と侵食された変成岩の谷間には何があるのか、そこには、厚さ30㎝ほどの赤黄色粘土と変成岩の角礫層があり、全くの無遺物層と判明、しかも、変成岩中には部分的に石英の厚い脈が見られる。そのほか、過去から露出している石英脈も観察できた。
問題は、ローム中から石英の角礫が少し顔をのぞかせているのが、土壙墓の断面から確認できた。位置は、鳥栖ロームと八女粘土の境付近、しかも、自然礫でした。一瞬、全谷里が浮かんだのだが、火砕流に挟まれて石器は無いだろうと思い直した。石英の露出するあたりには、自然に破損した石英の角礫で覆われる感じ。しかし、石英がなくなると別の石になるようで、まさに、天然物、金木のエオりス出土状況のモノクロ写真が目に浮かんだ。石英の破砕礫を見てるといい形のものが、確かにある。節理面からの破損で、縦方向のラインはばっちりで、鋭利な刃部をおもわせるものが、ごろごろしている。藤木君も新大間で目撃しているだろうが、おやっとおもうものがあるよね。しかし、整形や調整の連続した剥離が見られない。そこが、くやしいけど全谷里と違うんだね。
仮に、石英製石器群が出土するとすれば、若杉山から続く丘陵の赤土に埋もれた、半透明の質の良い石英を狙うと思うがどうかな。
38年ぶりの訪問は、実物なしの地層情報のみで終了。久しぶりに池の急斜面を横歩きして、坐骨神経痛が襲ってきた。しかし、「歩けおじん」で気持ちは晴れている。 以上
12.30になった。晦日というやつで、今年最後のミニロトを新聞で確認するのだが、当たればね。
今年も嘉穂地域で旧石器に遭遇する事は出来なかった。丘陵や台地において、阿蘇4が各所で確認できるようだ。しかし、その上が流れ去り低地に堆積しているように感じる。嘉穂盆地はすり鉢状の地形となっていて、周囲の開折は著しい。ましてや、中生代の花崗岩が基盤となっており、真砂と呼ばれる風化土壌は柔らかく風雨の餌食となり、堆積層を容易に手放すようである。
その代わりに、各所に石英が見られる。韓国の古式の石器群は石英の利用が良く見受けられる。仮にホモ・サピエンス以前に朝鮮半島から移動してきた人類がいたならば、少なくとも福岡の地で石英をのがす法は無かろう。もっと、石英の自然破損と人為的加工の差を観察せねば。とにかく、福岡は原材料に乏しい所で、石英・玄武岩・中生代の頁岩くらいかな、海岸部に瑪瑙とかチャートもあるらしい。そうそう、添田の瑪瑙も忘れる所でした。来年に続く。
新年おめでとうございます。去年の暮れ朝鮮半島経由の旧人以前の人類を想定した場合、石器の材料として半島で使用していた原材料を最初に探すはずと考えたわけで、これはいいせん行ってると思う。最初に壱岐・対馬あたり、北部九州西岸である長崎から福岡の海岸部を当然経由し列島各地に拡散するよね。
したがって、関東はそれより後になることは当然で、その年数を長期・中期・短期と考えるかであろう。関東最古の石器類は、河岸段丘に含まれるチャートなど身近なものを使っているらしい。北部九州では何を使うのか、まずは石英であろうが、多くの遺跡で石英が確認されても現実として、なかなか石器として観察する、あるいは、した例を聞かない。先ず、加工痕を観るのが困難、当初から石英は石材から外して考えているなど、担当者の考えに左右される点がかなりある。
しかし、全谷里みたいなものが確認されればなしは別であるが、全谷里もかなりの剥片等があるはずで、石核石器の最も観やすいものだけを並べられても難しい。旧石器研究者は、半島で発見されている古式石器類と剥片など機会を見つけて写真等でも紹介願いたい。日々発掘され一部は出土しているかもしれないが、担当者の眼力にかなわず捨て土の山に消え去っている可能性があろう。
もっとも、新人の日本列島到達を4万年あたりと考え、すでに石材もより石器製作に向いているものを選択する能力を身につけ、渡ってきていれば上記のような考えはもつ必要もないが。まてよ、福岡県内は石器の素材に恵まれてないため、素通りされてしまったかな。周囲の県に散在する黒曜石やサヌカイト、ホルンフェルスなどを知った上で、あらためて、福岡の地に入り込んだのか、いやはや複雑ですな。
考古学研究56-3号 ついに出雲市の砂原遺跡をめぐる意見が述べられていますね。グレーゾーンという表現、自然破砕礫と理解しても十分合理的との疑問視もあり、今後の発展に興味があります。もっとも、島根県は小野忠凞先生が碧玉製石器を前期旧石器として研究されていた地域で、碧玉や玉髄、瑪瑙なんか結構原石があるんでしょう。内容を読み進むうちに前期旧石器の問題点として、杉原先生が単純に2つの問題点をクリアーしなければならないとして、出土した地層と人工品であるかどうかということを記されていたことを思い出しました。そういえば、以前、明石の西八木海岸近くですか、やはり、玉髄製のとても古い石器が出たとか。
やはり、杉原仮説を打ち破りたい人は多いと思いますが、大多数を納得させるだけの遺跡に当たっていないのが現状でしょうね。ランドブリッジを渡って来れば、やはり、壱岐・対馬・北部九州沿岸と近いところの海岸部から攻めるべきかな。オーストラリアやアメリカでは、けっこう単純に渡ってきたルートの海岸部をかなり攻めながら成果をあげてるようですね。
個人的には、福井洞窟の再調査にかなり期待しているんですが。
11日、全国で成人式です。20歳といえば今から31年前私は何をやっていたのだろう。大学の委託寮「楊井第一学寮」の一室に虫のように蠢いていたのはま違いない。寮の位置する台地は荒川が形成した段丘で、多くの遺跡が点在していたが、とりわけ、寮付近は古墳が点在し、格好の餌場だった。台地の端に白髭神社があってその脇に畑が広がっている所で見事な黒曜石のナイフ形石器を採集したのが20歳の秋頃で、さらに。チャートの切り出し形ナイフも離れた場所で採集していた。黒曜石のナイフをめぐて「茂呂タイプ」か「杉久保タイプ」かでちよっとしたもめごとがあったが、それは、考古少年回顧録の学生編に掲載している。
あの頃、よく耳にしたのが、砂川、月見野、野川で野川のものはどこかで必要な分をコピーした覚えがある。たしか、その夏に山形県の月山沢遺跡の発掘に参加したのだと思う。弓張平の見学はその時に行った。
よく、我々は人と会うごとに「何やってるの」と問いかける。これは何時代ということで、次に「どんなこと」と「あぁ、それだったら何々もう読んだよね」と相手のレベルを少しずつ探っていくのである。そして、自分とかぶる時代だと、「これこれしかじかと」精一杯な聞きかじりの言葉を並べて立ち向かうが、あっさり、袈裟懸けに着られ微塵となる場合があった。というか、全くレベルが違うやからがいたのである。
レベルは関係ないが、「旧石器をやってます」とかいうと、まず、はーんみたいな表情から「芹長さんかな」とジャブがはいる。つづいて、「彼プレやってんだって」とくる。「プレてなんやろう。」と考えていると、無土器・先土器といった時期区分の話から、旧石器を使うなら前期・後期、あるいは、前期・中期・後期と区分して使用すべきで、「後期以前の遺跡はどこに」とくる。早水台や星野、岩宿0文化といった点をあげると、「あれ石器かい」と帰ってくる。最もこちらは、「石器時代の日本」を中学からバイブルとしていたため、「日本の考古学Ⅰ先史時代」は、もちろん座右の書であったが違和感があった。その後に「古代史発掘 最古の狩人」を購入、カラー写真で見る石器群に興味は尽きなかった。そこに、早水台等の資料が「石器かい」と来ると、何じゃかじゃと理由をつけて話すが、まとまらない。そこを察知しながら、それぞれの批判を連打され、ノックアウト。自分で探す決心を固めるのだが、また、同じ様な話になる。あれから31年、大学の終わり頃から宮城県中心の例の遺跡群が日本全土を席巻したが、あの結末、くしくも友人は、「お前があの場所にいたら確実に飲み込まれていたよ。九州でよかった。」その一言は心に響いた。わたしの性格を見抜いた一言だった。
派閥の戦国時代から全国統一を果たそうとしたが虚実の世界に終わり、前期旧石器の崩壊を経て、今度は全国の研究者の目で確かめようとする時代に入ったようで、学問的にはいい傾向と考えます。願わくば松藤先生が、砂原遺跡の資料をより多くの機会に公開するとともに、平面的に剥片や製作が分かるような良好な地点を探査し、誰もがうなづける遺跡として欲しいですね。あの資料群が石器なら、近くにかなりの数の資料を包含するキャンプ地があるかと思います。石材の採取も含め、ぜひつきとめてください。その際には、石英も頭の隅に置いてください。
1/13から大雪、その頃久々に杉原君から電話がかかる。九州歴史資料館にある嘉麻市関連資料の引き取りについてということで、60箱くらいの量があるらしい。もちろん、引き取ることになるが、思い出深い九歴移転はやや複雑である。中学から何度となく訪れたいわば聖地とも言えようか。ちょっと、おおげさかな。
それと、期待できるグッドニュース、これは、後日分かるでしょう。今、加藤晋平さんの「日本人はどこから来たか」1988を読み返していました。また、日経サイエンス「人類の祖先を求めて」や「人類の足跡10万年全史」なんかも見ております。DNA分析が進み新人の出アフリカから世界への拡散について取り沙汰され、東アジアの東端に到着したのが約4万年前、ランドブリッジを渡り日本列島到着は、立川ロームの最下部あたりになろうか、3万~3万5千年前で、所謂ホモ・サピエンスとなろうが、これに近いのが立川や武蔵野で確認されている古式の石器群、このあたりが列島到達の初期人類となるのか。山下洞窟が3万2千年くらい前かな、福井洞窟が昔の炭素14測定で約3万2千年以上前となり、このあたりに確実な列島内の石器は集中している。
問題は、関東の武蔵野ローム以下のところになるが、そこから先がぷつんと切れている。「シンポジウム 日本旧石器時代の考古学」1977の中で、下末吉期約13万年前の関東における古東京湾が、貝塚氏によって154ページに掲載され南関東が海進により海になっている状況が示されている。その後も氷期により海進・海退をくり返すのであろうが、武蔵野ローム以前の石器文化を追及するには不向きという意見もある。
今、最も関心があるのは朝鮮半島と列島の石器文化の関係がどう整合性するかである。例えば、中国から朝鮮半島への人類の拡散は、近年、意外とスムーズに流れているようである。これは、中国や朝鮮半島の古式石器群の年代がどうなのか、私には分からないが、そこでかなりの間足止めされたのか、動物群は拡散し列島に到着しているようだが。さてさて、問題である。
1/21 検索していたら、偶然、砂原遺跡の記者発表資料にあたり、さっそくプリントした。残念ながら石器の図はないが、土層の断面図は見ることが出来た。今、ちょうど下末吉海進にはまっていたので、興味を覚えた。この海進は実際にどれほど海面上昇があったのか、古い本だと5~10mで縄文海進より上昇したようにとれる。いずれにしても、砂原の下層にこの時の海成層があり、その上に砂礫混じりのシルト層がある。これは淡水の堆積なのか、砂礫を伴うシルトで海成層の上部であれば限りなく海岸に近い堆積物であろう。その上に古土壌3が10cm堆積しその中から下部の石器類5点が出土しているらしい。その上に酸化鉄の薄い層があり、その上に礫混じりの泥砂質シルト層が堆積しその中から、9点が出土しているという。上層Ⅵaは、山側からの二次堆積で所謂礫層から出土している。しかも、浜堤堆と書かれているから、直接的な人類の遺跡ではない。ヨーロッパのハンドアックスが礫層から出土した事は以前からよく引き合いに出されるが、この場合、自然石とは全く異なり誰が見ても石器と分かるもので、昔で言えばアーティファクトかな。今回の砂原はどうなのか、気になるところである。下層のものも含め極めて海辺近くに住んだ人々が残したものと考えられる。その点、出アフリカを果たした人類が海辺づたいにオーストラリアに向ったという説があり、かなり古い貝塚も残っているようで、海辺に住まいした人間も当然考えなければならない。しかし、今回の試掘調査は山側から運ばれたという事実を示しているので、その源を確認する必要があろう。
星野や早水台でも背後から運ばれた、あるいは、崖推など石器以前に、その環境に疑念が投げかけられている。今回は、ぜひ解きほぐしていただきたい。かつて、礫層出土の問題は古くは酒匂川や早川のマンローにはじまり、椿山や長木などもふくめ問題になってきた。星野では、第3文化層が乱堆積の上層と下層との間の不整合面にあってルバロアタイプの石核など人工品と認められるが、出土層事態に信憑性がないと芹沢先生も認めている。石器はいいがあとが・・・というやつですね。その点を思い出しましたが、Ⅵaの上部石器群は、その不整合面あたりにありますね。古いのは上部の火山灰でわかっていますが、不整合面はどうでしょうか。とんでもない、古ーいものが背後の山から流れてきたなんてね。
今後の展開が楽しみです。
1月23日土曜です。休みというのに朝4時に目が覚めました。
またまた空想ですが、下末吉海進に興味を持ち出したのが最近です。というのも、先の砂原遺跡が話題となった頃から気になりだしたのですが、縄文海進で海水面が上昇し、遠賀川は一時期古遠賀湾となり、現直方あたりまで海水が入り込んでいたという。つまり、遠賀川の流路が現在の半部くらいに縮まった結果、川はよどみ現河川は長い湖のようになり、泥炭のような堆積物を残した。この時の海面は5m以内と考えられている。しかし、下末吉海進は5~10mと考えられていて古東京湾を形成したほどの海面上昇とされている。そこで、仮に縄文海進より海面上昇が大きければ海水は、直方よりさらに奥の嘉穂盆地や田川地域へと侵入する可能性が生じる。さもなくば、流路はさらに短くなり淡水の湖は幅を増したであろう。特に、嘉穂盆地はすり鉢に例えられ周囲から飯塚市の中心街に水が集まってくる。
さらに、飯塚市役所付近の沖積地は深く、-6~7m付近で弥生後期土器が出土するほどで、遠賀川川底の数メートル下方からも縄文や弥生土器が出土している。何度も言うように想像の域を越えないが下末吉海進により浅い湖や湾が出来たとすればその周囲が怪しいことになるのだが、いかなるものか。それが、最終氷期になり海面が120メートル下がれば、遠賀川はどれほどの流路になろう。盆地盆地内の水は流速を早め浸食が激しくなり、盆地の周囲や中央部をかなり侵食したであろう。それが、縄文海進ですり鉢の底に堆積物を残すようになり、現在に至る。下末吉海進の痕跡が見つかればよいが、その後の阿蘇4に飲み込まれたため容易にたどれない。阿蘇4は盆地内で結構確認しているが、問題はその下になろう。人工物があるなら阿蘇4との境界でも良いのだが、なかなか。
朝刊に目を通すと、朝日のp24に「石器と石ころどう区別?」という記事を目にした。おや、マニアックな題やなーと内容を見ると、例の「砂原遺跡」に関連して石器と自然石の区別はどんなん。というもので、前期旧石器ではないかとされる、早水台、星野、岩宿0文化などにからみ、いつかはぶつかる「石器か否か」という根本的な問題を著名な先生方にうかがったものである。昔で言えば、「こなた杉原!、かたや芹沢!」という同じ岩宿からスタートされ、杉原先生は岩宿から4年後には、金木で洪積世中葉あたりというかなり古い層から硬質頁岩の石器が多数が発見されるということで、最大の費用をかけて発掘したが、翌年の4月には「偽石器」として報告された。その後、杉原仮説として知られるが、「3万年前の上部旧石器時代になるまで日本列島は無人の地であったろう。」というもので、日本の前期旧石器時代を否定する説を示された。
一方、芹沢先生は、早水台から星野、岩宿0文化など日本列島の各地を転戦し、石英・硅岩製石器の資料を集め、コールスの3条件やバーンズの統計学的方法、セミヨーノフの使用痕研究、そのほか石器に付着した脂肪酸研究などを取り入れ、石器と石ころの違いを科学的に証明しようとした。この二者対決は決着がつかないまま、捏造事件という思わぬ方向へと進むが、昨今の発見等でも行き着く所はそこになる。杉原先生は「杉原仮説を打ち破って欲しい」と願われた。結局、捏造という大火が思いもよらず芹沢先生を巻き込み、焼け野原の中、再び早水台や星野にとの想いを残された。
近年の発見を、例えば金取遺跡の場合「石器セーフ、層位はアウト」そう、あの権現山と同じである。入口遺跡は「層位セーフ、石器アウト」として問題を積み残したまま走る現状を述べている。石器の見分け方として安蒜先生は、石器には「割り方の法則性」があり、道具としての機能が反映されているからその点を注意し観察すれば『きちんとした石器なら見間違う事はありません』としている。この「きちんとした」というのが割り方の法則性をもち道具としての機能が反映されているということであろうか。よく以前から引き合いに出されたのが周口店の石英製石器でフリントや黒曜石といった石材になれたものはなかなか理解できないそうで、吉崎先生がシカゴのフィールド・ミュージアムにある周口店のコレクションは、ほとんどバルブが見えないので、そこの研究者達は石器とは理解していないようにボックスに放り込んだままと述べている。もちろん、周口店の石器は「きちんとした」の方に入っていようが。
問題の砂原について、松藤先生は(人工的な)剥離痕や人が力を加えた部分が認められるため、全て石器であり、発掘した地層中の石は安山岩系が主であるから、石英系や流紋岩といった素材は、(人工的に持ち込まれたもの)で、出土状況も自然石の堆積ではないと述べている。つまり、松藤先生にとっては「きちんとした石器」である。しかし、安蒜先生は、「加工の跡らしいものはあるが」と人工品の可能性を認めて入るらしいが、『きちんとした石器なら見間違う事はありません』には当てはまらないようで、数量が少ないとしている。『加工痕』は「きちんとした」につながらないのか?ますます分からなくなった。
やはり、、「こなた杉原!、かたや芹沢!」にもどってしまう。ただ、当時は白黒はっきりつかなければ認めない主義、今はグレーゾーンと呼ぶらしいが、何だか、はっきりしない。それと、「発掘した地層中の石は安山岩系が主である」というのは、流紋岩や石英、玉髄などが全く含まれてないのか、記者発表資料には、上層Ⅵaは、山側からの二次堆積で所謂礫層から出土していて、堆積場が浜堤堆と書かれているから、当然、山側と海側も考慮しなければならないだろう。摩滅が進んでいるのならなおさらである。Ⅹ層の礫岩の中にそのような質の礫は混じっていないのか、海側も考慮し礫岩やⅦ層の砂礫混じりのシルト層などもサンプリングしては、あぁ、もうされてますよね。
1月も終わり2月になりました。直良先生の「日本の最新世と人類発達史」『ミネルヴァ』を読んでいたら、旧石器時代の遺物を発見するには、ヨーロッパのように洞窟遺跡を探すのではなく、当時河床であった礫層や湖沼を形作っていた湖成層を探す方が良いと記している。もちろん、当時の常識ではローム層はだめであるからしかたない。それと、西八木発見の腰骨化石(後の明石原人)と数点の石器状のものを意識されているのかもしれないが、今の私はうなづける。もっとも、後に数点の石器状の物を観察した芹沢先生は、一部石器と認められる発言をされている。また、春成さん自ら明石海岸の地層から引き抜いた剥片石器状のものと近年は、玉髄製のハンド・アックスも加わっているようだ。
腰痛の日々、明日は文化財保護審議会だ、長年の案件は街道の峠道でこれを指定にするにはかなりの困難を生じている。しかし、勉強にはなった。長年お世話になっている先生から、「あきらめずに資料を探し続ければ必ず行き当たりますね。」ありがたい言葉だった。
2月5日金曜日、朝刊に石垣島で2万年前の人骨の化石が出土したと言う。これに関しては、眠った後に書こう。
あの、水が引かない新大間池が池畔の地肌を全面に出しているぞな。奇跡かもしれんので、38年ぶりに池におりようと思う。それと、堤防の脇にある丘陵が削られている。しかも、全面に赤土が露出しているようで、ぜひ確かめなければ気がすまない。同じく堤防のすぐ脇にあった丘陵は、あきらかに弥生の集落であったが、高校生の時に全て削られ、なすすべもなく前期の土器片を悔しい思いで今でも持っているが、今回は、すでに上半分は削り取られ、赤土が露出している。鳥栖ロームかも知れないが、見てみよう。
報告は後日、夢は大きく、事実は・・・。
報告します。地球歴 2009.12.27 99%の不安と1%の希望を胸に、新大間池に到着、目指す丘陵の上半部が削られたのはかなり以前と判明、水が抜いてあるのは護岸を拡張する工事のためで、半島状に突き出た丘陵の側面を削ることで、護岸の幅を広げようとしているらしい。しかも、発掘調査が実施されたようで、弥生と思われるがかなり残りの良い土壙墓群が列埋葬状に並んでいた。
結果から申せば、石器はいっさい落ちていない。あるのは、弥生土器(中期~後期前葉)と奈良あたりまでの須恵器がけっこう拾える。さて、丘陵の断面には鮮やかな土層が見られ、勉強にはなった。おそらく、変成岩の丘陵が谷状に開析され溝状のくぼみなった所に阿蘇4が堆積したように見えた。侵食された大きなくぼみを最初に明黄色の粘土がかなり厚く堆積した後に赤色の粘土層が覆っている。おそらく、八女粘土と鳥栖ロームと考えられる。
それでは、八女粘土と侵食された変成岩の谷間には何があるのか、そこには、厚さ30㎝ほどの赤黄色粘土と変成岩の角礫層があり、全くの無遺物層と判明、しかも、変成岩中には部分的に石英の厚い脈が見られる。そのほか、過去から露出している石英脈も観察できた。
問題は、ローム中から石英の角礫が少し顔をのぞかせているのが、土壙墓の断面から確認できた。位置は、鳥栖ロームと八女粘土の境付近、しかも、自然礫でした。一瞬、全谷里が浮かんだのだが、火砕流に挟まれて石器は無いだろうと思い直した。石英の露出するあたりには、自然に破損した石英の角礫で覆われる感じ。しかし、石英がなくなると別の石になるようで、まさに、天然物、金木のエオりス出土状況のモノクロ写真が目に浮かんだ。石英の破砕礫を見てるといい形のものが、確かにある。節理面からの破損で、縦方向のラインはばっちりで、鋭利な刃部をおもわせるものが、ごろごろしている。藤木君も新大間で目撃しているだろうが、おやっとおもうものがあるよね。しかし、整形や調整の連続した剥離が見られない。そこが、くやしいけど全谷里と違うんだね。
仮に、石英製石器群が出土するとすれば、若杉山から続く丘陵の赤土に埋もれた、半透明の質の良い石英を狙うと思うがどうかな。
38年ぶりの訪問は、実物なしの地層情報のみで終了。久しぶりに池の急斜面を横歩きして、坐骨神経痛が襲ってきた。しかし、「歩けおじん」で気持ちは晴れている。 以上
12.30になった。晦日というやつで、今年最後のミニロトを新聞で確認するのだが、当たればね。
今年も嘉穂地域で旧石器に遭遇する事は出来なかった。丘陵や台地において、阿蘇4が各所で確認できるようだ。しかし、その上が流れ去り低地に堆積しているように感じる。嘉穂盆地はすり鉢状の地形となっていて、周囲の開折は著しい。ましてや、中生代の花崗岩が基盤となっており、真砂と呼ばれる風化土壌は柔らかく風雨の餌食となり、堆積層を容易に手放すようである。
その代わりに、各所に石英が見られる。韓国の古式の石器群は石英の利用が良く見受けられる。仮にホモ・サピエンス以前に朝鮮半島から移動してきた人類がいたならば、少なくとも福岡の地で石英をのがす法は無かろう。もっと、石英の自然破損と人為的加工の差を観察せねば。とにかく、福岡は原材料に乏しい所で、石英・玄武岩・中生代の頁岩くらいかな、海岸部に瑪瑙とかチャートもあるらしい。そうそう、添田の瑪瑙も忘れる所でした。来年に続く。
新年おめでとうございます。去年の暮れ朝鮮半島経由の旧人以前の人類を想定した場合、石器の材料として半島で使用していた原材料を最初に探すはずと考えたわけで、これはいいせん行ってると思う。最初に壱岐・対馬あたり、北部九州西岸である長崎から福岡の海岸部を当然経由し列島各地に拡散するよね。
したがって、関東はそれより後になることは当然で、その年数を長期・中期・短期と考えるかであろう。関東最古の石器類は、河岸段丘に含まれるチャートなど身近なものを使っているらしい。北部九州では何を使うのか、まずは石英であろうが、多くの遺跡で石英が確認されても現実として、なかなか石器として観察する、あるいは、した例を聞かない。先ず、加工痕を観るのが困難、当初から石英は石材から外して考えているなど、担当者の考えに左右される点がかなりある。
しかし、全谷里みたいなものが確認されればなしは別であるが、全谷里もかなりの剥片等があるはずで、石核石器の最も観やすいものだけを並べられても難しい。旧石器研究者は、半島で発見されている古式石器類と剥片など機会を見つけて写真等でも紹介願いたい。日々発掘され一部は出土しているかもしれないが、担当者の眼力にかなわず捨て土の山に消え去っている可能性があろう。
もっとも、新人の日本列島到達を4万年あたりと考え、すでに石材もより石器製作に向いているものを選択する能力を身につけ、渡ってきていれば上記のような考えはもつ必要もないが。まてよ、福岡県内は石器の素材に恵まれてないため、素通りされてしまったかな。周囲の県に散在する黒曜石やサヌカイト、ホルンフェルスなどを知った上で、あらためて、福岡の地に入り込んだのか、いやはや複雑ですな。
考古学研究56-3号 ついに出雲市の砂原遺跡をめぐる意見が述べられていますね。グレーゾーンという表現、自然破砕礫と理解しても十分合理的との疑問視もあり、今後の発展に興味があります。もっとも、島根県は小野忠凞先生が碧玉製石器を前期旧石器として研究されていた地域で、碧玉や玉髄、瑪瑙なんか結構原石があるんでしょう。内容を読み進むうちに前期旧石器の問題点として、杉原先生が単純に2つの問題点をクリアーしなければならないとして、出土した地層と人工品であるかどうかということを記されていたことを思い出しました。そういえば、以前、明石の西八木海岸近くですか、やはり、玉髄製のとても古い石器が出たとか。
やはり、杉原仮説を打ち破りたい人は多いと思いますが、大多数を納得させるだけの遺跡に当たっていないのが現状でしょうね。ランドブリッジを渡って来れば、やはり、壱岐・対馬・北部九州沿岸と近いところの海岸部から攻めるべきかな。オーストラリアやアメリカでは、けっこう単純に渡ってきたルートの海岸部をかなり攻めながら成果をあげてるようですね。
個人的には、福井洞窟の再調査にかなり期待しているんですが。
11日、全国で成人式です。20歳といえば今から31年前私は何をやっていたのだろう。大学の委託寮「楊井第一学寮」の一室に虫のように蠢いていたのはま違いない。寮の位置する台地は荒川が形成した段丘で、多くの遺跡が点在していたが、とりわけ、寮付近は古墳が点在し、格好の餌場だった。台地の端に白髭神社があってその脇に畑が広がっている所で見事な黒曜石のナイフ形石器を採集したのが20歳の秋頃で、さらに。チャートの切り出し形ナイフも離れた場所で採集していた。黒曜石のナイフをめぐて「茂呂タイプ」か「杉久保タイプ」かでちよっとしたもめごとがあったが、それは、考古少年回顧録の学生編に掲載している。
あの頃、よく耳にしたのが、砂川、月見野、野川で野川のものはどこかで必要な分をコピーした覚えがある。たしか、その夏に山形県の月山沢遺跡の発掘に参加したのだと思う。弓張平の見学はその時に行った。
よく、我々は人と会うごとに「何やってるの」と問いかける。これは何時代ということで、次に「どんなこと」と「あぁ、それだったら何々もう読んだよね」と相手のレベルを少しずつ探っていくのである。そして、自分とかぶる時代だと、「これこれしかじかと」精一杯な聞きかじりの言葉を並べて立ち向かうが、あっさり、袈裟懸けに着られ微塵となる場合があった。というか、全くレベルが違うやからがいたのである。
レベルは関係ないが、「旧石器をやってます」とかいうと、まず、はーんみたいな表情から「芹長さんかな」とジャブがはいる。つづいて、「彼プレやってんだって」とくる。「プレてなんやろう。」と考えていると、無土器・先土器といった時期区分の話から、旧石器を使うなら前期・後期、あるいは、前期・中期・後期と区分して使用すべきで、「後期以前の遺跡はどこに」とくる。早水台や星野、岩宿0文化といった点をあげると、「あれ石器かい」と帰ってくる。最もこちらは、「石器時代の日本」を中学からバイブルとしていたため、「日本の考古学Ⅰ先史時代」は、もちろん座右の書であったが違和感があった。その後に「古代史発掘 最古の狩人」を購入、カラー写真で見る石器群に興味は尽きなかった。そこに、早水台等の資料が「石器かい」と来ると、何じゃかじゃと理由をつけて話すが、まとまらない。そこを察知しながら、それぞれの批判を連打され、ノックアウト。自分で探す決心を固めるのだが、また、同じ様な話になる。あれから31年、大学の終わり頃から宮城県中心の例の遺跡群が日本全土を席巻したが、あの結末、くしくも友人は、「お前があの場所にいたら確実に飲み込まれていたよ。九州でよかった。」その一言は心に響いた。わたしの性格を見抜いた一言だった。
派閥の戦国時代から全国統一を果たそうとしたが虚実の世界に終わり、前期旧石器の崩壊を経て、今度は全国の研究者の目で確かめようとする時代に入ったようで、学問的にはいい傾向と考えます。願わくば松藤先生が、砂原遺跡の資料をより多くの機会に公開するとともに、平面的に剥片や製作が分かるような良好な地点を探査し、誰もがうなづける遺跡として欲しいですね。あの資料群が石器なら、近くにかなりの数の資料を包含するキャンプ地があるかと思います。石材の採取も含め、ぜひつきとめてください。その際には、石英も頭の隅に置いてください。
1/13から大雪、その頃久々に杉原君から電話がかかる。九州歴史資料館にある嘉麻市関連資料の引き取りについてということで、60箱くらいの量があるらしい。もちろん、引き取ることになるが、思い出深い九歴移転はやや複雑である。中学から何度となく訪れたいわば聖地とも言えようか。ちょっと、おおげさかな。
それと、期待できるグッドニュース、これは、後日分かるでしょう。今、加藤晋平さんの「日本人はどこから来たか」1988を読み返していました。また、日経サイエンス「人類の祖先を求めて」や「人類の足跡10万年全史」なんかも見ております。DNA分析が進み新人の出アフリカから世界への拡散について取り沙汰され、東アジアの東端に到着したのが約4万年前、ランドブリッジを渡り日本列島到着は、立川ロームの最下部あたりになろうか、3万~3万5千年前で、所謂ホモ・サピエンスとなろうが、これに近いのが立川や武蔵野で確認されている古式の石器群、このあたりが列島到達の初期人類となるのか。山下洞窟が3万2千年くらい前かな、福井洞窟が昔の炭素14測定で約3万2千年以上前となり、このあたりに確実な列島内の石器は集中している。
問題は、関東の武蔵野ローム以下のところになるが、そこから先がぷつんと切れている。「シンポジウム 日本旧石器時代の考古学」1977の中で、下末吉期約13万年前の関東における古東京湾が、貝塚氏によって154ページに掲載され南関東が海進により海になっている状況が示されている。その後も氷期により海進・海退をくり返すのであろうが、武蔵野ローム以前の石器文化を追及するには不向きという意見もある。
今、最も関心があるのは朝鮮半島と列島の石器文化の関係がどう整合性するかである。例えば、中国から朝鮮半島への人類の拡散は、近年、意外とスムーズに流れているようである。これは、中国や朝鮮半島の古式石器群の年代がどうなのか、私には分からないが、そこでかなりの間足止めされたのか、動物群は拡散し列島に到着しているようだが。さてさて、問題である。
1/21 検索していたら、偶然、砂原遺跡の記者発表資料にあたり、さっそくプリントした。残念ながら石器の図はないが、土層の断面図は見ることが出来た。今、ちょうど下末吉海進にはまっていたので、興味を覚えた。この海進は実際にどれほど海面上昇があったのか、古い本だと5~10mで縄文海進より上昇したようにとれる。いずれにしても、砂原の下層にこの時の海成層があり、その上に砂礫混じりのシルト層がある。これは淡水の堆積なのか、砂礫を伴うシルトで海成層の上部であれば限りなく海岸に近い堆積物であろう。その上に古土壌3が10cm堆積しその中から下部の石器類5点が出土しているらしい。その上に酸化鉄の薄い層があり、その上に礫混じりの泥砂質シルト層が堆積しその中から、9点が出土しているという。上層Ⅵaは、山側からの二次堆積で所謂礫層から出土している。しかも、浜堤堆と書かれているから、直接的な人類の遺跡ではない。ヨーロッパのハンドアックスが礫層から出土した事は以前からよく引き合いに出されるが、この場合、自然石とは全く異なり誰が見ても石器と分かるもので、昔で言えばアーティファクトかな。今回の砂原はどうなのか、気になるところである。下層のものも含め極めて海辺近くに住んだ人々が残したものと考えられる。その点、出アフリカを果たした人類が海辺づたいにオーストラリアに向ったという説があり、かなり古い貝塚も残っているようで、海辺に住まいした人間も当然考えなければならない。しかし、今回の試掘調査は山側から運ばれたという事実を示しているので、その源を確認する必要があろう。
星野や早水台でも背後から運ばれた、あるいは、崖推など石器以前に、その環境に疑念が投げかけられている。今回は、ぜひ解きほぐしていただきたい。かつて、礫層出土の問題は古くは酒匂川や早川のマンローにはじまり、椿山や長木などもふくめ問題になってきた。星野では、第3文化層が乱堆積の上層と下層との間の不整合面にあってルバロアタイプの石核など人工品と認められるが、出土層事態に信憑性がないと芹沢先生も認めている。石器はいいがあとが・・・というやつですね。その点を思い出しましたが、Ⅵaの上部石器群は、その不整合面あたりにありますね。古いのは上部の火山灰でわかっていますが、不整合面はどうでしょうか。とんでもない、古ーいものが背後の山から流れてきたなんてね。
今後の展開が楽しみです。
1月23日土曜です。休みというのに朝4時に目が覚めました。
またまた空想ですが、下末吉海進に興味を持ち出したのが最近です。というのも、先の砂原遺跡が話題となった頃から気になりだしたのですが、縄文海進で海水面が上昇し、遠賀川は一時期古遠賀湾となり、現直方あたりまで海水が入り込んでいたという。つまり、遠賀川の流路が現在の半部くらいに縮まった結果、川はよどみ現河川は長い湖のようになり、泥炭のような堆積物を残した。この時の海面は5m以内と考えられている。しかし、下末吉海進は5~10mと考えられていて古東京湾を形成したほどの海面上昇とされている。そこで、仮に縄文海進より海面上昇が大きければ海水は、直方よりさらに奥の嘉穂盆地や田川地域へと侵入する可能性が生じる。さもなくば、流路はさらに短くなり淡水の湖は幅を増したであろう。特に、嘉穂盆地はすり鉢に例えられ周囲から飯塚市の中心街に水が集まってくる。
さらに、飯塚市役所付近の沖積地は深く、-6~7m付近で弥生後期土器が出土するほどで、遠賀川川底の数メートル下方からも縄文や弥生土器が出土している。何度も言うように想像の域を越えないが下末吉海進により浅い湖や湾が出来たとすればその周囲が怪しいことになるのだが、いかなるものか。それが、最終氷期になり海面が120メートル下がれば、遠賀川はどれほどの流路になろう。盆地盆地内の水は流速を早め浸食が激しくなり、盆地の周囲や中央部をかなり侵食したであろう。それが、縄文海進ですり鉢の底に堆積物を残すようになり、現在に至る。下末吉海進の痕跡が見つかればよいが、その後の阿蘇4に飲み込まれたため容易にたどれない。阿蘇4は盆地内で結構確認しているが、問題はその下になろう。人工物があるなら阿蘇4との境界でも良いのだが、なかなか。
朝刊に目を通すと、朝日のp24に「石器と石ころどう区別?」という記事を目にした。おや、マニアックな題やなーと内容を見ると、例の「砂原遺跡」に関連して石器と自然石の区別はどんなん。というもので、前期旧石器ではないかとされる、早水台、星野、岩宿0文化などにからみ、いつかはぶつかる「石器か否か」という根本的な問題を著名な先生方にうかがったものである。昔で言えば、「こなた杉原!、かたや芹沢!」という同じ岩宿からスタートされ、杉原先生は岩宿から4年後には、金木で洪積世中葉あたりというかなり古い層から硬質頁岩の石器が多数が発見されるということで、最大の費用をかけて発掘したが、翌年の4月には「偽石器」として報告された。その後、杉原仮説として知られるが、「3万年前の上部旧石器時代になるまで日本列島は無人の地であったろう。」というもので、日本の前期旧石器時代を否定する説を示された。
一方、芹沢先生は、早水台から星野、岩宿0文化など日本列島の各地を転戦し、石英・硅岩製石器の資料を集め、コールスの3条件やバーンズの統計学的方法、セミヨーノフの使用痕研究、そのほか石器に付着した脂肪酸研究などを取り入れ、石器と石ころの違いを科学的に証明しようとした。この二者対決は決着がつかないまま、捏造事件という思わぬ方向へと進むが、昨今の発見等でも行き着く所はそこになる。杉原先生は「杉原仮説を打ち破って欲しい」と願われた。結局、捏造という大火が思いもよらず芹沢先生を巻き込み、焼け野原の中、再び早水台や星野にとの想いを残された。
近年の発見を、例えば金取遺跡の場合「石器セーフ、層位はアウト」そう、あの権現山と同じである。入口遺跡は「層位セーフ、石器アウト」として問題を積み残したまま走る現状を述べている。石器の見分け方として安蒜先生は、石器には「割り方の法則性」があり、道具としての機能が反映されているからその点を注意し観察すれば『きちんとした石器なら見間違う事はありません』としている。この「きちんとした」というのが割り方の法則性をもち道具としての機能が反映されているということであろうか。よく以前から引き合いに出されたのが周口店の石英製石器でフリントや黒曜石といった石材になれたものはなかなか理解できないそうで、吉崎先生がシカゴのフィールド・ミュージアムにある周口店のコレクションは、ほとんどバルブが見えないので、そこの研究者達は石器とは理解していないようにボックスに放り込んだままと述べている。もちろん、周口店の石器は「きちんとした」の方に入っていようが。
問題の砂原について、松藤先生は(人工的な)剥離痕や人が力を加えた部分が認められるため、全て石器であり、発掘した地層中の石は安山岩系が主であるから、石英系や流紋岩といった素材は、(人工的に持ち込まれたもの)で、出土状況も自然石の堆積ではないと述べている。つまり、松藤先生にとっては「きちんとした石器」である。しかし、安蒜先生は、「加工の跡らしいものはあるが」と人工品の可能性を認めて入るらしいが、『きちんとした石器なら見間違う事はありません』には当てはまらないようで、数量が少ないとしている。『加工痕』は「きちんとした」につながらないのか?ますます分からなくなった。
やはり、、「こなた杉原!、かたや芹沢!」にもどってしまう。ただ、当時は白黒はっきりつかなければ認めない主義、今はグレーゾーンと呼ぶらしいが、何だか、はっきりしない。それと、「発掘した地層中の石は安山岩系が主である」というのは、流紋岩や石英、玉髄などが全く含まれてないのか、記者発表資料には、上層Ⅵaは、山側からの二次堆積で所謂礫層から出土していて、堆積場が浜堤堆と書かれているから、当然、山側と海側も考慮しなければならないだろう。摩滅が進んでいるのならなおさらである。Ⅹ層の礫岩の中にそのような質の礫は混じっていないのか、海側も考慮し礫岩やⅦ層の砂礫混じりのシルト層などもサンプリングしては、あぁ、もうされてますよね。
1月も終わり2月になりました。直良先生の「日本の最新世と人類発達史」『ミネルヴァ』を読んでいたら、旧石器時代の遺物を発見するには、ヨーロッパのように洞窟遺跡を探すのではなく、当時河床であった礫層や湖沼を形作っていた湖成層を探す方が良いと記している。もちろん、当時の常識ではローム層はだめであるからしかたない。それと、西八木発見の腰骨化石(後の明石原人)と数点の石器状のものを意識されているのかもしれないが、今の私はうなづける。もっとも、後に数点の石器状の物を観察した芹沢先生は、一部石器と認められる発言をされている。また、春成さん自ら明石海岸の地層から引き抜いた剥片石器状のものと近年は、玉髄製のハンド・アックスも加わっているようだ。
腰痛の日々、明日は文化財保護審議会だ、長年の案件は街道の峠道でこれを指定にするにはかなりの困難を生じている。しかし、勉強にはなった。長年お世話になっている先生から、「あきらめずに資料を探し続ければ必ず行き当たりますね。」ありがたい言葉だった。
2月5日金曜日、朝刊に石垣島で2万年前の人骨の化石が出土したと言う。これに関しては、眠った後に書こう。
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