なんか、最近愚痴るのがはやっとるらしいな、私もいろいろあるから、折りに触れて愚痴りの考古学といジャンルを作ろう。
この間、地形的に谷地形と思われる箇所を試掘調査した報告を聞くと、地形状からして谷の湧き水が流れていた場所なのだが、鉱害復旧により様子は変わっていた。地下の様子は、予想では、マサ土の堆積した厚い層と下部からの湧水で、堆積層に遺物が混じる程度と踏んでいたら、1m以上の客土下に黄色(白色気味)の粘土層があり、その下に、鉄分の多い黄褐色の粘土層、それ以下はだんだん黒褐色に移り湧水下という。問題は、黄白色系粘土層の存在である。そういえば、この谷地形の始まりは第三紀層の丘陵で、横穴墓群が点在する。ひよっとして、第三紀層が風化するとこのような粘土層になるのか、それとも、黄砂の堆積したレス層なのか、確認が必要である。
4/25 旧石器のシンポジゥムの旧版を読んでいたら、芹沢氏いわく、山内先生の究極は実年代を求めることとある。おや、と思ったが、山内氏は先史考古学なるものを提唱し実行している。では、先史考古学とはとなれば、氏の先史考古学会から出版された先史考古学の本学会内容を読んでみた。「先史考古学の本義は、個々の遺物遺跡発見記録に始まり、年代及び地方による組織を整え、能く古文化の系統、地域性の変遷を尋ね、独自の体系を持って人類史の欠を補うものと云うべきであろう。」と記されている。山内氏のこだわりは、カーボンによる年代測定結果を無批判に近い状態で受け入れ、そのままに、縄文の編年やそれ以前の年代に当てはめる基本的態度について、私見を披露した事に始まる。
このことについては、長くなるので別途コーナーをつくって考えることとする。
ようやく、風邪も治まり、鼻のどの調子もよくなった。
5/8 追記 山内氏は「考古学の最高目的は実年代を知ること」と考えたか否か と題して掘り下げるつもりだったが、内容が難しすぎて書けなくなった。そのため、この コーナーは削除します。なお、掲載分は下記に記します。
1977年 学生社のシンポジウム「日本旧石器時代の考古学」256ページに、日本旧石器の課題として「山内学説の検討」という項を設け、特に、丹生問題に関するものであったが、当然、山内氏の学説全体を検討する必要があったのであろう。
芹沢氏はその中で「山内先生の一つの問題は、考古学の最高目的は実年代を知ることであるという考えかたです。」とし、自分達は年代を知ることは考古学の仕事のほんの一部にすぎないとして、真向から対立していると考えてよいだろう。そして「画龍点睛の弁」を引き合いに出している。
「画龍点睛の弁」は、1964年成城新聞に2回分けて掲載されている。その(上)に先史考古学を段階的に1~4に区分し、遺跡遺物の発掘調査の記載を初歩、つまり1として始め、A多くの研究資料の分類。B比較考究して系討論に至る。C分布を調べる。D往時の生活手段を推定復元する。そして、その他、多くの個別的分野が開かれている。これまでを2としている。3として、組織的研究に進み、一国の先史時代の各時期を区分して、その詳細を極め、文化の発達を論ずる。ここまでくれば大半の作業を終えたことになる。そして、4で実年代の決定を説いている。相対的な積み重ね、しかも、一国のものでは積み木細工に過ぎないが、そこに、実年代を与えることで、世界史の一員に加えられ広汎な文化史のうちに編入される。
実年代は最終的なものであるが、1~3までの過程が完成しなければ意味を持たない。積み木細工にもならないのである。また、実年代の付与は世界史への位置づけを行うための重要な点としている。旧石器さながらな生活を近年まで続けていた世界もあれば、金属器の利用をかなり早い段階で行っていた世界もある。そのような様々な世界と物だけで比較すると、とんでもない状況となりうる。この点では、山内氏が晩年に縄文草創期の石器類の比較を海外に求められたり、縄文の海進期を諸外国のデータと比較されたりしている。その内容が現在の水準でどのように取り扱われているかは分からないが、「年代を知ることは考古学の仕事のほんの一部にすぎない」という芹沢氏の考えは1~3をすっとばして、4だけを見ているように感じる。
芹沢氏の言葉からは、「年代を知ることは考古学のほんの一部にすぎないことで、それをを、最高目的としている山内氏の考古学に対する考え方は如何なものかと受け取れるのである。つまり、自分達はもっと崇高なところに目的があると聞こえて来る。尤も、このシンポジウムは、山内氏が他界された後のものである。
山内氏は、縄文文化の研究を通じて、考古学の方法による解明を段階的に論じられている。昭和7年に雑誌「ドルメン」に掲載された「日本遠古の文化」を14年に序文と50の補註を加え先史考古学会より再出されている。
4/27 黄砂がひどいようで、車が黄粉をまぶした状態になっている。レス層とはこの黄粉がが大量に降り積もったやつかと思うと、大陸により近い九州の位置を改めて知る。 このところ、沖出古墳公開後、提出書類が多くて困っている。
4/30
1 6月補正ヒアリング資料 2 行政改革 3 人事考課制度 4 公的施設での喫煙なんとか 5 来週のスケジュール表 6 緊急雇用対策 7 史跡めぐり関連スケジュールの送付8 事前審査書類の返送 9 時間外の提出等等 黄砂より事務関連のアレルギーである。
5/1 ようやく連休に入った。入ったとたんに連休後のことを考える。すでに、病気ですな。あと2ヶ月で52歳になりますが、職探しでもしますか。合併とともにトンネルに入ったが、まだ、闇の中を走る列車に乗っている。闇の舵取りは難しく、1つのポイント切り替えのミスでも、ネプリーグではないが谷底に・・・おぉー怖
5/3 考古少年回顧録118ページを55~60ページに縮めている。うまくいけば、何か読み物にでも投稿してみようと考えている。だめもとでね。
5/13 考古少年の編集まったく進まず、才能のなさに自信喪失。尤も、ここ10年くらいは喪失感で埋め尽くされている。それにしても、読み返すとダラダラと長いだけで、面白くないものを書いていたと反省する。それでも、当時の仲間達に形になったものを見せたくて、パソコンに向かうが、肩こりがひどくなる。
5/18 立岩の石庖丁について考えてみようかと考えている。弥生社会の中で産声をあげたと考えられる今山や立岩にいてもう一度整理し、なぜ現れたのかを考えてみるのも良いかと思っている。特に、立岩は自分にとって絶好のフィールドであるため笠置山をも含めて、考察したい。なぜ、地場産の石庖丁が入り込むのか、糸島や吉野ヶ里、壱岐にまで流通する赤紫色のもの、機能の面で非常に切れ味がよくそれが持続するらしい。品質の良さという点からのアプローチ、それ以外に、製作行程の見直し、流通事情などもう一度再考する時期かと考えている。
5月も最後の金曜日となった。黄砂が引き起こすのか鼻から喉が悪く耳鼻科に行かなければならないだろう。せきが止まらず苦しい。それは別として分業論について改めて学習する必要があるようだ。藤田先生が以前言われていたが、考古学的に極めて難しいらしい。まずは、藤田先生が『日本の考古学を学ぶ』2の分業論から原 秀三郎先生のものあたりを読まなくてはならないようだ。それにても苦しい。うー
半月ほどブログを更新していない。仕事で色々あって頭に浮かばなくなっています。明日は、考古少年回顧録を短くまとめたものの校正を考えていますが、実にだるい日々が続きます。「やる気が出ない」というやつですかね。そういう時はしない、やらないのが一番でしょう。あぁーだるー
7月5日になった。再びブログの更新を開始します。
最近、気になりだしたのが九州考古学82号に掲載された能登原孝道さん・中野伸彦さん・小山内康人さんの『いわゆる「頁岩質砂岩」の原産地』である。ゆっくりと読み進めるが、まず、気になったのが能登原氏が実見確認した立岩の石庖丁(921点)とある。これは製品で流通したものの数を示されている。ところが、立岩遺跡群では、中島茂夫氏により1980年頃に製品・未製品あわせて1488点をカウントしている。しかも、未製品が1283点もの数になっており、その大半が採集品であることに驚く。
立岩は今山と異なり原材を6キロ先から運び込んだ石器製作の遺跡であり、笠置山の輝緑凝灰岩で石包丁をつくった経験のある方は、お分かりになるだろうが、かなり加工しやすく研磨も初心者の子供でも出来るものである。ただし、穿孔はドリルでやるのでわからないが粘り気があり、滑石より気をつかわない。それが、1300点近く採集された状況を考えるなら、どれだけの材料が運び込まれ製品化されたのであろうか、想像するしかないが要注意点である。
能登原さんは、実見された頒布資料から考えられ、私は頒布した側から考えを述べているのでかみ合うこともないであろうが、「頁岩質砂岩」は、現在研究資料として取り上げられ、新たな位置づけをされつつあるようだが、「輝緑凝灰岩」は、1970年代で止まっている状況である。笠置山も含めもう一度立岩遺跡を見直す必要が出てきているものと考えている。
頁岩質砂岩と輝緑凝灰岩をビッカース硬度試験機を用いて硬度測定をされている。結果、今山の石斧は5.68GPaですごく硬いらしい。また、叩いて金属音のする玄武岩は緻密で硬いということも経験でなんとなく分かり、重くて硬い玄武岩を大きな石斧にする今山の人達に感心する。問題の頁岩質砂岩は3.36GPaで、細粒砂岩の石斧と硬度が近いらしい。そして、問題の輝緑凝灰岩は軟質で測定が出来なかったという。頁岩質砂岩は石斧の硬度に近く、薄く剥がれる性質がなければ石斧でもいけるかもしれない。一方、輝緑凝灰岩は軟質で石斧に向かないようであるが、石庖丁には向いていたようで、軟質でも稲穂は摘むことが出来るようである。笠置山には黒い頁岩が大量に産出し、磨製石器の材料にもなっているが、どうも、前期段階で、石庖丁には軟質の輝緑凝灰岩がお気にめしたらしい。もっとも、軟質という点では切れ味が落ちてもすぐに研ぎなおせるという利点はあるようだ。草を刈る人達が大鎌や鎌を使う際には、常に砥石を携帯して近くの水や草の露、それもない時には唾で鎌をといでいる。
実際にどうなのか、笠置山には頁岩や粘板岩もあるのだが、好んで紫の軟質な石材を大量に製品化している。硬度や粘り、加工のしやすさ・・・重さはどうであろう。輝緑凝灰岩は思いのほか軽い、石斧と違い稲穂を摘むのに重さはあま関係ない。むしろ、稲穂1本ずつを摘むには軽くて切れ味がよく、研磨しやすいものがよい。本体を薄く仕上げる必要もない。逆に、緻密で比重があるものはより薄くする必要があろう。稲穂を1本ずつ摘み取っていくのだから。
気になる記載が14ページの終わり頃に、立岩の石庖丁の石材である輝緑凝灰岩が河川で採集されていたようにということで、森 貞次郎先生の文献から引いているが、先生は川床に輝緑凝灰岩の礫がおびただしくあるということと、その後に露頭を発見したと書いているが、川床の礫をそのまま拾ってきたとは書いていないと思います。その後、何人かの研究者が川床の礫、割り取った長方形の石片、一時加工した石片などと記載していますが。残念ながら現地での調査は行われておらず、どういう石材の採集を行ったかは、不明と言わざるを得ない。したがって、菫青石ホルンフェルスも同じように河川の礫を採集したのではないかという考えは、現状としてストップしておいた方がいいと思います。
というのも輝緑凝灰岩の場合、河床の礫になると意外と硬く加工しにくいものです。しかし、露頭から長方形に剥がれる石材は薄く加工しやすいのです。菫青石ホルンフェルスも露頭からの採集を考えられてもいいと思います。
7/27 ようやく、回顧録を60ページにまとめ、中学編のスタイルで投稿しました。まぁ、採用はされないでしょうが、ブログ紹介は出来ます。
8/15 一年ぶりに書き込みを行っているような状況です。考古少年回顧録は、見事に散りました。内容は別のブログに掲載しております。なかなかアクセスがありませんね。落ちるはずだし、小説でもないから、もっともですわ。ツイターで愚痴るのもいいですが、私はここで頑張ります。
石包丁の原産地については、小田先生の喜寿記念になんとか掲載してもらいました。第三者の調査も行い一応認めていただいたと感じております。また、行政的には宮若市に入るので、先方の教育委員会にも直接申しております。そのうち、周知の遺跡として登録されるはずですが、なかなか進んでないようですね。かなり重要な遺跡で今後の研究に活用される、あるいは、活用すべきと感じております。
8/16本日のお昼に我が家に用事があってもどると、玄関の床にやまかかしの小さなやつがうろついてました。すぐさま、かさで追い出しましたが、初めて蛇のお客か、これは何やらお金が入る前兆かと喜んで家族に話すと、蛇のようなまなざしでにらまれました。今日は夕方に自転車に乗ろうと思います。40分程度でしょうか、乗り始めると続くようで、これがやめてしまうと、なかなか乗りたくない。乗っていて思うのは、目的地があって乗っているのではなく、なんとなく風景を見ながらぶらついている感じで、写真でも撮りながらとなれば、気分も盛り上がるのでしょうが、窓の外は突然アキアカネの群が飛んでいます。川沿いや水田のところもアキアカネが飛び回っているでしょう。
8/21 昨日は、土曜講座をやっていました。2回目になりますが、台湾の植民地化における主要な施策の中に、教育と社会教育による教化があることがわかり、迎えの車中で先生に、大内氏支配体制の中で、秋月や千手氏が次々に禅宗にかわっていったことを話し、宗教観、世界観といった部分への教化政策ではなかったか、本来は、真言化天台宗であったが、中本山とされる寺院が、地方の核となり政策がすすめられたようです。なんて知ったかぶりを吹聴しました。しかし、この問題は以前から興味を持っていて、政治・経済政策と同時に教化が行われる必要があるのかと考えています。これを、弥生や古墳といった古い時代に持ち込めないか、嘉穂地域であれば、甕棺の導入なんてことも関連するか、尤も、土坑・木棺墓と甕棺墓の視覚的相違はわかりますが、宗教観の違いなどは分かりませんね。そのあたりをもっと追究する必要があるでしょうね。
この間、地形的に谷地形と思われる箇所を試掘調査した報告を聞くと、地形状からして谷の湧き水が流れていた場所なのだが、鉱害復旧により様子は変わっていた。地下の様子は、予想では、マサ土の堆積した厚い層と下部からの湧水で、堆積層に遺物が混じる程度と踏んでいたら、1m以上の客土下に黄色(白色気味)の粘土層があり、その下に、鉄分の多い黄褐色の粘土層、それ以下はだんだん黒褐色に移り湧水下という。問題は、黄白色系粘土層の存在である。そういえば、この谷地形の始まりは第三紀層の丘陵で、横穴墓群が点在する。ひよっとして、第三紀層が風化するとこのような粘土層になるのか、それとも、黄砂の堆積したレス層なのか、確認が必要である。
4/25 旧石器のシンポジゥムの旧版を読んでいたら、芹沢氏いわく、山内先生の究極は実年代を求めることとある。おや、と思ったが、山内氏は先史考古学なるものを提唱し実行している。では、先史考古学とはとなれば、氏の先史考古学会から出版された先史考古学の本学会内容を読んでみた。「先史考古学の本義は、個々の遺物遺跡発見記録に始まり、年代及び地方による組織を整え、能く古文化の系統、地域性の変遷を尋ね、独自の体系を持って人類史の欠を補うものと云うべきであろう。」と記されている。山内氏のこだわりは、カーボンによる年代測定結果を無批判に近い状態で受け入れ、そのままに、縄文の編年やそれ以前の年代に当てはめる基本的態度について、私見を披露した事に始まる。
このことについては、長くなるので別途コーナーをつくって考えることとする。
ようやく、風邪も治まり、鼻のどの調子もよくなった。
5/8 追記 山内氏は「考古学の最高目的は実年代を知ること」と考えたか否か と題して掘り下げるつもりだったが、内容が難しすぎて書けなくなった。そのため、この コーナーは削除します。なお、掲載分は下記に記します。
1977年 学生社のシンポジウム「日本旧石器時代の考古学」256ページに、日本旧石器の課題として「山内学説の検討」という項を設け、特に、丹生問題に関するものであったが、当然、山内氏の学説全体を検討する必要があったのであろう。
芹沢氏はその中で「山内先生の一つの問題は、考古学の最高目的は実年代を知ることであるという考えかたです。」とし、自分達は年代を知ることは考古学の仕事のほんの一部にすぎないとして、真向から対立していると考えてよいだろう。そして「画龍点睛の弁」を引き合いに出している。
「画龍点睛の弁」は、1964年成城新聞に2回分けて掲載されている。その(上)に先史考古学を段階的に1~4に区分し、遺跡遺物の発掘調査の記載を初歩、つまり1として始め、A多くの研究資料の分類。B比較考究して系討論に至る。C分布を調べる。D往時の生活手段を推定復元する。そして、その他、多くの個別的分野が開かれている。これまでを2としている。3として、組織的研究に進み、一国の先史時代の各時期を区分して、その詳細を極め、文化の発達を論ずる。ここまでくれば大半の作業を終えたことになる。そして、4で実年代の決定を説いている。相対的な積み重ね、しかも、一国のものでは積み木細工に過ぎないが、そこに、実年代を与えることで、世界史の一員に加えられ広汎な文化史のうちに編入される。
実年代は最終的なものであるが、1~3までの過程が完成しなければ意味を持たない。積み木細工にもならないのである。また、実年代の付与は世界史への位置づけを行うための重要な点としている。旧石器さながらな生活を近年まで続けていた世界もあれば、金属器の利用をかなり早い段階で行っていた世界もある。そのような様々な世界と物だけで比較すると、とんでもない状況となりうる。この点では、山内氏が晩年に縄文草創期の石器類の比較を海外に求められたり、縄文の海進期を諸外国のデータと比較されたりしている。その内容が現在の水準でどのように取り扱われているかは分からないが、「年代を知ることは考古学の仕事のほんの一部にすぎない」という芹沢氏の考えは1~3をすっとばして、4だけを見ているように感じる。
芹沢氏の言葉からは、「年代を知ることは考古学のほんの一部にすぎないことで、それをを、最高目的としている山内氏の考古学に対する考え方は如何なものかと受け取れるのである。つまり、自分達はもっと崇高なところに目的があると聞こえて来る。尤も、このシンポジウムは、山内氏が他界された後のものである。
山内氏は、縄文文化の研究を通じて、考古学の方法による解明を段階的に論じられている。昭和7年に雑誌「ドルメン」に掲載された「日本遠古の文化」を14年に序文と50の補註を加え先史考古学会より再出されている。
4/27 黄砂がひどいようで、車が黄粉をまぶした状態になっている。レス層とはこの黄粉がが大量に降り積もったやつかと思うと、大陸により近い九州の位置を改めて知る。 このところ、沖出古墳公開後、提出書類が多くて困っている。
4/30
1 6月補正ヒアリング資料 2 行政改革 3 人事考課制度 4 公的施設での喫煙なんとか 5 来週のスケジュール表 6 緊急雇用対策 7 史跡めぐり関連スケジュールの送付8 事前審査書類の返送 9 時間外の提出等等 黄砂より事務関連のアレルギーである。
5/1 ようやく連休に入った。入ったとたんに連休後のことを考える。すでに、病気ですな。あと2ヶ月で52歳になりますが、職探しでもしますか。合併とともにトンネルに入ったが、まだ、闇の中を走る列車に乗っている。闇の舵取りは難しく、1つのポイント切り替えのミスでも、ネプリーグではないが谷底に・・・おぉー怖
5/3 考古少年回顧録118ページを55~60ページに縮めている。うまくいけば、何か読み物にでも投稿してみようと考えている。だめもとでね。
5/13 考古少年の編集まったく進まず、才能のなさに自信喪失。尤も、ここ10年くらいは喪失感で埋め尽くされている。それにしても、読み返すとダラダラと長いだけで、面白くないものを書いていたと反省する。それでも、当時の仲間達に形になったものを見せたくて、パソコンに向かうが、肩こりがひどくなる。
5/18 立岩の石庖丁について考えてみようかと考えている。弥生社会の中で産声をあげたと考えられる今山や立岩にいてもう一度整理し、なぜ現れたのかを考えてみるのも良いかと思っている。特に、立岩は自分にとって絶好のフィールドであるため笠置山をも含めて、考察したい。なぜ、地場産の石庖丁が入り込むのか、糸島や吉野ヶ里、壱岐にまで流通する赤紫色のもの、機能の面で非常に切れ味がよくそれが持続するらしい。品質の良さという点からのアプローチ、それ以外に、製作行程の見直し、流通事情などもう一度再考する時期かと考えている。
5月も最後の金曜日となった。黄砂が引き起こすのか鼻から喉が悪く耳鼻科に行かなければならないだろう。せきが止まらず苦しい。それは別として分業論について改めて学習する必要があるようだ。藤田先生が以前言われていたが、考古学的に極めて難しいらしい。まずは、藤田先生が『日本の考古学を学ぶ』2の分業論から原 秀三郎先生のものあたりを読まなくてはならないようだ。それにても苦しい。うー
半月ほどブログを更新していない。仕事で色々あって頭に浮かばなくなっています。明日は、考古少年回顧録を短くまとめたものの校正を考えていますが、実にだるい日々が続きます。「やる気が出ない」というやつですかね。そういう時はしない、やらないのが一番でしょう。あぁーだるー
7月5日になった。再びブログの更新を開始します。
最近、気になりだしたのが九州考古学82号に掲載された能登原孝道さん・中野伸彦さん・小山内康人さんの『いわゆる「頁岩質砂岩」の原産地』である。ゆっくりと読み進めるが、まず、気になったのが能登原氏が実見確認した立岩の石庖丁(921点)とある。これは製品で流通したものの数を示されている。ところが、立岩遺跡群では、中島茂夫氏により1980年頃に製品・未製品あわせて1488点をカウントしている。しかも、未製品が1283点もの数になっており、その大半が採集品であることに驚く。
立岩は今山と異なり原材を6キロ先から運び込んだ石器製作の遺跡であり、笠置山の輝緑凝灰岩で石包丁をつくった経験のある方は、お分かりになるだろうが、かなり加工しやすく研磨も初心者の子供でも出来るものである。ただし、穿孔はドリルでやるのでわからないが粘り気があり、滑石より気をつかわない。それが、1300点近く採集された状況を考えるなら、どれだけの材料が運び込まれ製品化されたのであろうか、想像するしかないが要注意点である。
能登原さんは、実見された頒布資料から考えられ、私は頒布した側から考えを述べているのでかみ合うこともないであろうが、「頁岩質砂岩」は、現在研究資料として取り上げられ、新たな位置づけをされつつあるようだが、「輝緑凝灰岩」は、1970年代で止まっている状況である。笠置山も含めもう一度立岩遺跡を見直す必要が出てきているものと考えている。
頁岩質砂岩と輝緑凝灰岩をビッカース硬度試験機を用いて硬度測定をされている。結果、今山の石斧は5.68GPaですごく硬いらしい。また、叩いて金属音のする玄武岩は緻密で硬いということも経験でなんとなく分かり、重くて硬い玄武岩を大きな石斧にする今山の人達に感心する。問題の頁岩質砂岩は3.36GPaで、細粒砂岩の石斧と硬度が近いらしい。そして、問題の輝緑凝灰岩は軟質で測定が出来なかったという。頁岩質砂岩は石斧の硬度に近く、薄く剥がれる性質がなければ石斧でもいけるかもしれない。一方、輝緑凝灰岩は軟質で石斧に向かないようであるが、石庖丁には向いていたようで、軟質でも稲穂は摘むことが出来るようである。笠置山には黒い頁岩が大量に産出し、磨製石器の材料にもなっているが、どうも、前期段階で、石庖丁には軟質の輝緑凝灰岩がお気にめしたらしい。もっとも、軟質という点では切れ味が落ちてもすぐに研ぎなおせるという利点はあるようだ。草を刈る人達が大鎌や鎌を使う際には、常に砥石を携帯して近くの水や草の露、それもない時には唾で鎌をといでいる。
実際にどうなのか、笠置山には頁岩や粘板岩もあるのだが、好んで紫の軟質な石材を大量に製品化している。硬度や粘り、加工のしやすさ・・・重さはどうであろう。輝緑凝灰岩は思いのほか軽い、石斧と違い稲穂を摘むのに重さはあま関係ない。むしろ、稲穂1本ずつを摘むには軽くて切れ味がよく、研磨しやすいものがよい。本体を薄く仕上げる必要もない。逆に、緻密で比重があるものはより薄くする必要があろう。稲穂を1本ずつ摘み取っていくのだから。
気になる記載が14ページの終わり頃に、立岩の石庖丁の石材である輝緑凝灰岩が河川で採集されていたようにということで、森 貞次郎先生の文献から引いているが、先生は川床に輝緑凝灰岩の礫がおびただしくあるということと、その後に露頭を発見したと書いているが、川床の礫をそのまま拾ってきたとは書いていないと思います。その後、何人かの研究者が川床の礫、割り取った長方形の石片、一時加工した石片などと記載していますが。残念ながら現地での調査は行われておらず、どういう石材の採集を行ったかは、不明と言わざるを得ない。したがって、菫青石ホルンフェルスも同じように河川の礫を採集したのではないかという考えは、現状としてストップしておいた方がいいと思います。
というのも輝緑凝灰岩の場合、河床の礫になると意外と硬く加工しにくいものです。しかし、露頭から長方形に剥がれる石材は薄く加工しやすいのです。菫青石ホルンフェルスも露頭からの採集を考えられてもいいと思います。
7/27 ようやく、回顧録を60ページにまとめ、中学編のスタイルで投稿しました。まぁ、採用はされないでしょうが、ブログ紹介は出来ます。
8/15 一年ぶりに書き込みを行っているような状況です。考古少年回顧録は、見事に散りました。内容は別のブログに掲載しております。なかなかアクセスがありませんね。落ちるはずだし、小説でもないから、もっともですわ。ツイターで愚痴るのもいいですが、私はここで頑張ります。
石包丁の原産地については、小田先生の喜寿記念になんとか掲載してもらいました。第三者の調査も行い一応認めていただいたと感じております。また、行政的には宮若市に入るので、先方の教育委員会にも直接申しております。そのうち、周知の遺跡として登録されるはずですが、なかなか進んでないようですね。かなり重要な遺跡で今後の研究に活用される、あるいは、活用すべきと感じております。
8/16本日のお昼に我が家に用事があってもどると、玄関の床にやまかかしの小さなやつがうろついてました。すぐさま、かさで追い出しましたが、初めて蛇のお客か、これは何やらお金が入る前兆かと喜んで家族に話すと、蛇のようなまなざしでにらまれました。今日は夕方に自転車に乗ろうと思います。40分程度でしょうか、乗り始めると続くようで、これがやめてしまうと、なかなか乗りたくない。乗っていて思うのは、目的地があって乗っているのではなく、なんとなく風景を見ながらぶらついている感じで、写真でも撮りながらとなれば、気分も盛り上がるのでしょうが、窓の外は突然アキアカネの群が飛んでいます。川沿いや水田のところもアキアカネが飛び回っているでしょう。
8/21 昨日は、土曜講座をやっていました。2回目になりますが、台湾の植民地化における主要な施策の中に、教育と社会教育による教化があることがわかり、迎えの車中で先生に、大内氏支配体制の中で、秋月や千手氏が次々に禅宗にかわっていったことを話し、宗教観、世界観といった部分への教化政策ではなかったか、本来は、真言化天台宗であったが、中本山とされる寺院が、地方の核となり政策がすすめられたようです。なんて知ったかぶりを吹聴しました。しかし、この問題は以前から興味を持っていて、政治・経済政策と同時に教化が行われる必要があるのかと考えています。これを、弥生や古墳といった古い時代に持ち込めないか、嘉穂地域であれば、甕棺の導入なんてことも関連するか、尤も、土坑・木棺墓と甕棺墓の視覚的相違はわかりますが、宗教観の違いなどは分かりませんね。そのあたりをもっと追究する必要があるでしょうね。
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