居眠りバクの音楽回想

チェンバリスト井上裕子の音楽エッセイブログ。

音楽の快楽と危険

2010-12-13 00:03:31 | 音楽哲学
 中世は宗教的に抑圧された暗黒の時代とも言われているけれど
 それは音楽においても同じことかもしれません。

 音楽を純粋に味わうということは、罪。

 指導者達ですら、それぞれに葛藤していたと分かる文章を引用します。

聖アウグスティヌス著≪告白≫より「音楽の快楽と危険について」

「私が信仰を取り戻した当初、あなたの教会の歌に流した涙を思い起こせば
 また現在でも、清らかな声で妙なるころこの上ない前回しの歌が歌われる時、
 歌そのものではなく、歌の内容によってどんなに心を動かされるかを思えば、
 この高らかに歌う習慣がいかに大切かをあらためて思い知るのです。

 このように私は危険な快楽と健全な経験との間をさまよっています。

 どちらかと言えば私は(決定的な見解ではありませんが)、
 教会で歌を歌う習慣を認めたいと思います。

 それは耳の楽しみを通じて、弱い者の心を敬虔の念に目覚めさせる為です。

 しかし、歌われる内容よりも、歌そのものによって
 一層心が動かされるようなことがあれば、
 そのとき私は許しがたい罪を犯しているのです。


 私はそう告白します。

 そしてそれぐらいなら、むしろ歌を聞かない方が良いのだと思います。

 見てください。

 これが今の私の有様です。

 心のうちで少しでも善なることを求め、それを実行に移す人は
 私とともに泣いてください。
 そして私のために泣いてください。

 もっとも、善なることを心に掛けない人にとっては
 こんなことはどうでもよいことでしょうが。

 しかし主であり、私の神でもあるあなたよ、私の言葉に耳を貸し、
 私を顧み、私をご覧になり、私を憐れみ、私を癒してください。

 あならの御目の前では、私には自分自身が謎になってしまいますが
 これが私の弱さなのです。」


道具の音楽

2010-12-12 00:05:34 | 音楽哲学
ボエティウスによって提示された三つの音楽の種類。

中でも中でも三番目の「Musica instrumentalis」は

私達が現在音楽芸術としているものです。

彼らにとって、道具の音楽は学問としては位置の低いものだったのかもしれません。

音楽は芸術ではなく、あくまで知識の対象であり
音楽とは理性と感覚によって音の響きの多用な高低関係を調べる学科でした。

ゆえに、彼らにとって真の音楽家とは

歌手でもなければ、音楽という営みの本質を理解せず
本能的に歌を作りあげるだけのもでもなく

哲学者、批評家であって

「音楽のための、音楽に即した理性的思索に従って判断する能力を有するもの」でした。

彼らの音楽観は一見・・・現代の音楽観とあまりにも隔たりがあるように見えます。

音楽は何のために存在するのか。
そして、私達は何故演奏するのか。

その答えの一つがここにはあるような気がします。

演奏するとき、音楽に携わるとき・・・心は神聖でなければなりません。


ボエティウスによる音楽理論の手引き

2010-12-11 00:04:05 | 音楽哲学
※ボエティウス(480-524)は中世においてもっとも尊敬され、
 影響力のあった音楽の権威とされる。

 6世紀初頭に特に音楽の概要についてまとめた「音楽教程」を書いたが、
 これは主にギリシア音楽理論についてまとめたものである。
 中世の音楽理論は、ギリシャの音楽観に基づいていた。

ボエティウスによると、音楽は次の三つの種類に分けられる。

 ①「Musica mundana~宇宙の音楽~」
   惑星の運動、四季の変化、元素に秩序ある数的関係

 ②「Musica humana~人間の音楽~」
   肉体と魂およびそれらの諸部分の総合を司る。

 ③「Musica instrumentalis~道具の音楽~」
   人声を含む楽器の生み出す、耳に聞こえる音楽であり、
   特に音程の数比において、①②と同じ秩序の原理を例示する。

彼は、プラトンやアリストテレス同様、
音楽が性格や道徳に対する影響力を持つことを強調していました。
音楽は、音楽そのものだけでなく、
哲学入門としても教育上重要な科目の一つとされました。

現代、特に日本では、音楽は教育の蚊帳の外に置かれています。
音楽観がこの時代と大きく異なるにせよ、情操教育において
忌むべき現実だと思います。。。

葛藤と否定

2010-12-10 00:04:35 | 音楽哲学
初期キリスト教で良くないとされていた音楽

「技巧的な歌唱」「大規模な合唱」「器楽」「舞踏」

これらは、異教的見世物を思い起こさせるものとして有害とみなされる傾向があった。

これらは、あまりにも心を動かし、人々を快楽の虜にしてしまうからである。

「あの”悪魔的な合唱”やあの”淫蕩で害のある歌”に耽るくらいなら
 ”楽器の音につんぼ”の方が良い。
 ”天使ケルビーノの神秘な声を聞いた者が、劇場の放埓な歌や
  華美な旋律に耳を引き渡してしまうとは、ばかげたことではなかろうか。”
 しかし、神は人間の弱さを哀れんで
 ”宗教の教えに甘美な旋律を混ぜ合わせ、子供の頃から、ただ音楽を
  歌っているだけと思っている間にも、実際にはそれが魂の鍛錬に
  なっているようにするために、妙なる詩篇の旋律が付け加えられた。”」

 ~聖ヒエロニムス、バシレイオス、
  ヨーアンネス、クリュソストモス等・・・・教父たちの言葉より~

「私が自作の賛歌の旋律によって人々を誘惑したと主張している人たちがいる・・・しかし、私はそのことを否定しない(むしろ誇りに思う)」

 ~聖アンブロシウスの言葉~

ある種の音楽を否定する指導者達がいる一方で
それを擁護する意見を持つ教父も存在していました。

「音楽の喜び」そのものを味わうことが罪とされる世の中・・・。
 なんと抑圧的なんでしょうか。
 人々は何を喜びに暮らしていたのだろう?

 この事実が物語ることは
 それほどまでに音楽が人の心に影響するものだと
 彼らが考えていたことです。
 これは、私には重要かつ、大変重みのある事実です。


節度と勇気の美徳を喚起する音律

2010-12-06 00:02:02 | 音楽哲学
※備忘録※

理想国家の統一の統治者となるべく教育されるものは
軟弱さや怠惰を表現する旋律を避けなければならない。

節度と勇気の美徳を喚起する旋法として「ドーリス」と「プリギア」を推奨する。

また、細かいリズムの使用や複雑な音階、楽器の混合は忌むべきものである。

音楽上の慣行は一度確立されたら変えてはならない。

何故なら、芸術や教育に法が欠けていると、必ず風習が模倣になり
社会の混乱をきたすからである。

~プラトン「国家」より~

少し極端です。
弟子のアリストテレスはもう少し寛大です。


プラトン式、教育と音楽

2010-12-05 00:04:37 | 音楽哲学
※備忘録※

正しい人間を生み出す方法は、公的教育体制にある。

教育には肉体を鍛えるために「体育」が、精神を鍛えるために「音楽」が重要である。

優れた人物の育成には、これら二つの均衡が保たれる必要があり

音楽が多すぎると、人間は軟弱・・・もしくは神経質に

体育が多すぎると、野卑で粗暴で無知になってしまう。

「音楽と体育とをもっとも見事に折り合わせ、それをもっとも適切に魂に供する人こと、 もっとも優れた音楽家と呼ばれるにふさわしい」

~プラトン「国家」より~


模倣論

2010-12-04 00:04:29 | 音楽哲学
音楽は魂の動き、もしくはその状態(優しさ、憤怒、勇気、節度など)を

模倣(表現する)するものである。

ある感情を模倣した音楽は、聞き手にその感情を喚起する。

そして、もし人が卑劣な感情を目覚めさせるような音楽を
いつも聞いていると、その人の性質はゆがめられる。

要するに、間違った音楽は人を間違った人間にしてしまうし
正しい音楽は人を正しい方向へ導く。

~アリストテレス「政治学」より~


エートス論

2010-12-03 00:03:14 | 音楽哲学
音楽は道徳的な質を有しており

人の性格や振る舞いに作用する。

何故なら、音楽は音の高さとリズムの組織であり

それは可視、不可視の世界全体に作用しているのと同じ

数学的法則に支配されているからである。

人間の魂は数の関係によって調和を保たれる複合体である。

音楽はこの秩序ある組織を映すだけでなく、
魂・・・そして無生命の世界にまで浸透する。

~ギリシャ哲学、ピュタゴラス派~