陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

私が百合作品から学んだ過ちは、同性との付き合いかた

2020-10-30 | 二次創作論・オタクの位相

今回は二次創作に限った話ではないのですが、ヲタクの生存戦略の一環としてお話をすることにします。
二次創作というのは、そもそも原作にはないカップルの特殊関係を深堀りして物語をつくるものです。ときにそれはテンプレと化し、ときにそれは原作にはないキャラの立ち位置をゆがめることがあります。趣味として、それは楽しい作業ですが、思わぬ副作用があります。それは、現実の人間関係の築き方を誤ってしまうことです。これがヲタクが世間様から厳しいまなざしを向けられる理由の一つです。

たとえば、現実にあなたが会社員としましょう。
職場には、経営者、上司、先輩、後輩がいます。そして、社外には顧客がいます。通常、お客様向けにはいい顔ですが、社内の人間関係がごたごたはよくありがちです。なぜでしょうか。

もちろん、相手の性格やふるまいにも問題がありますが、自身のコミュニケーション能力にも難点があることが多いものなんです。
私達は、同じ場所、同じ組織、同じ時間、同じ職種で働いていると、連帯意識により、相手は味方、自分と価値観が同じと考えがちです。しかし、社内の人はすべて自分の延長線上にはいませんし、自分のために存在してくれているわけではありません。

とあるビジネス書を参考にしてみると、

・顧客:自分の市場価値を示してくれる存在
・上司:社内クライアント、仕事や役割をくれ、評価してくれる存在
・先輩:教育者でもあるが、乗りこえていくライバル
・同僚:仕事に巻き込み、協力し合うパートナー

ここでいささかヲタク目線から意外なのは、上司と先輩の位置づけ。
上司もある意味、お客様。そして先輩はなんでもかんでも面倒見のいいひとではないのだということです。

百合モノに毒された脳においては、すべてが同じ感じに捉えてしまいます。「マリア様がみてる」のような姉妹愛やら、「神無月の巫女」のような同性の純愛やら、「リリカルなのは」における上司に友達感覚で盾突いても許されてしまうような、そんな都合のいい人間関係は、現実存在しません。殺し合いをして闘うのだけど、その勇敢さを認められてめでたく友だちになるなんてこともありません。才能でなく、コミュニケーションで相手とわかりあう努力をしないとだめなんです。

でも、百合モノにはまっちゃうと、自分の身近な同性のひとすべては、わがままで個性あふれる自分を、母性愛でうけとめてくれるひと、みたいに思ってしまうんですよね。あるいは、自分がオトコみたいに上位にたたねばと気負ってしまいがち。百合だけではなく、BLでも同じなのかもしれません。

上司、先輩、お客様、あるいは知人友人、家族。
親しくなればなるほど、自分にとってのどういう存在か忘れます。家族ですら、自分の人生の道具のように都合よく利用していい存在ではありません。契約によって言いなりになるサーヴァントでもなんでもないのです。

同性だから、同年代だからといいまして、自分のすべてを理解してくれることも、受容してくれることも不可能です。

なぜ、こんなことを書くかと言いましたら、自分の過去記事でのコメント交流をみて、変だなと思うことが増えたからです。なんだか、とても暑苦しい。他人と適切な距離がとれず、密着しすぎで、相手を追い込んでいる。過疎化しているジャンルなのに、これでは同志を失うも同然でしょう。コメントのみならず、この二次創作論シリーズでも同じことです。

二次創作で、原作の人気キャラになりきって描くことを繰り返していると、現実世界の自分の姿を見誤ってしまうことはよくあります。サブカルチャーは日本が誇る文化財なのに、その効能のせいで、ゆがんだ人間関係を築き上げてしまう。それに気づいてしまった今、私はなんとなく二次創作がつくりにくくなっているのかもしれませんね。


【二次創作者、この厄介なディレッタント(まとめ)】
趣味で二次創作をしている人間が書いた、よしなしごとの目次頁です。
二次創作には旨みもあれば、毒もあるのですね…。

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