今時分はもう、デジタル描画が流行りであるから、絵画鑑賞をどこでも、どのような見方でもできる時代であるけれど、システィーナ大聖堂の天井画のようなケースを除けば、絵というのは原則、観る者と向き合うものである。日本の絵画は寝かせて描くものだったが、西洋の絵画は爾来、立たせて描くものだった。草むらに座ってスケッチブックを開くとき、イーゼルにキャンバスを持たせかけるとき、机上に紙を広げて落書きするのと異なる、心持ちを感じるはずである。ノートで解くよりも、黒板に書かれた方程式を解くのが緊張を強いられるものであるように。陳腐な言いかたではあるが、目前に対峙する絵画の支持体は、鏡のようでもあり、扉にさえなる。紙を寝かせて描くとそれを所有した気になるが、立たせて描くとそれに語り掛けられるような気さえする。
小説家高村薫は、マーク・ロスコ(Mark Rothko)の絵画のような作品が書きたいと語る。(日曜美術館2009年7月19日放映分)彼女の最新作『太陽を曵く馬』の主人公は殺人を犯す画家の青年の話で、その装丁の表紙にはロスコの代表作『シーグラム壁画 No.4のためのスケッチ』があしらわれている。
高村のロスコ絵画への興味には、なぜ人間は抽象絵画を描くのかという、根本的な問いかけが潜んでいる。その答えを、ロスコの生きた20世紀には、人間が絵画に約束された幸福なつながりを失ったからだと、説く。これは非常に柔らかくわかりやすい言い方だが、要するに教科書的に言えば、絵画が意味性をうしなったということだ。
マーク・ロスコの絵画を、かつて広島の現代美術館や千葉の川村記念美術館で見かけたことがある。
私はほんらい抽象絵画が嫌いなので、ロスコについてもあまりよくは思っていなかった。抽象絵画は、欧米のコレクターが富裕な邸の壁を埋める装飾として買い込まれると聞き、なぜこんな子どもの落書きめいたものが市場で値を吊り上げるのかと不思議に思っていたものである。無知とは恐ろしいもので、たいがいの毛嫌いは無理解から生じていることは承知している。が、実物を前にして違った。作品は実見してみなければわからない、というのはどの作品にもいえることなのだが、ロスコ作品の場合特にそうだった。あの色調の趣は、けっして印刷物のインクでは出せない。認識が一元化する、デジタル画像でも無理だ。
私が見たのはタイトルを失念してしまったが──多くの抽象絵画は意味を剥ぎ取られたものとしてつくられているので、タイトルを覚えるという機会がない。色合いと線の動きとサイズだけ覚えておけばいい──縦長の長方形のキャンバスで、3メートルはあったかと思う。茶色の地に、オレンジなのか、赤なのかわからない正方形が上半分に輪郭を滲ませて描かれているものだった。茶色の地と朱の正方形、そう認識して離れて、その展示室の入口から遠巻きに一覧した時に、その絵画はふしぎなことが起こった。黄砂のようにぎらついたものが、その絵画から現れて見えたのだった。もう一度近よって、しばらくいろんな角度から覗いたりしてみると、異なる印象が得られる。
アメリカのフォーマリスト美術批評家のクレメント・グリーンバーグは、ロスコ作品を評して言う。「色彩が呼吸するように、観る者を包みこむ」のだと。私がロスコのその一枚に感じたのは、たしかに外気と体内をめぐる呼気との区別がつかないような空気感であった。色彩は外ににじみ出て融けあおうとし、また透明な空気のなかから色彩が色づけられてキャンバスへ染み付こうとする。そんな境目のない絵画の生理現象ですらある。
言われてみれば、あの錆ついた鉄のような色あいはまた、肉のようでもあり、血のようでもある。
派手派手しい彩色のロスコ絵画を、私は知らない。肉いろの絵画はやがて、晩年になると黒く変化する。黒といってもべったりと重く塗りつぶされた黒ではない。それは炭ともいえるようなもともと生命の焔のような輝きの色を終えたあとの色とみえ、また生物が腐敗し堆積してできたような黒土のような黒である。
この晩年の黒い絵画を並列させた展示室は、見る者を深い瞑想へといざなう。そこを訪れ、ただ絵画群のまえで長い時を過ごす者は少なくはないという。彼らが、マーク・ロスコの人生を知ってか知らずか。
作品に感動できても、その生きざまや考え方には感心しない芸術家は多い。画家の人生と作品は別ものと考える私にとっては、その人となりを知らずに目を見はらされた、希有な抽象絵画の画家のひとりである。
ロスコは言わずもがな、ジャクソン・ポロック、バーネット・ニューマンらと共に、戦後アメリカから生じた重要な美術潮流の旗手である。
だが、本人自体は、たいがい画家の意向を無視してでっちあげた批評家のそのようなイデオロギーとの関係からは距離を置こうとしていたとされる。アクションペインティングのようなダイナミズムを目指さない彼の絵画には、日本人の好みそうな、柚薬をなんども丹念に上塗りして火に入れてこそ醸し出されるような、渋い沈んだ色調がある。とても静かな絵である。
マーク・ロスコは、自分の絵画を他の作品からいっさい遠ざけて一室に展示してくれと願ったという。それは画家の傲慢だったろうか。その願いは日本の美術館において果たされた。川村記念美術館ほか、ロンドンのテートギャラリーのロスコ・ルーム、そしてワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー。
とある鑑賞者は、この作品に出会えるまで生きていてよかったという言葉を残している。
パブロ・ピカソと並び二〇世紀最大の美術家であるアンリ・マティスは、教会の聖堂のステンドグラスの絵画を描いた。マティスとおなじくロスコにも宗教的なものが流れていたのかもしれない。晩年には、ヒューストンのロスコ・チャペルへ展示する連作に力を注ぐ。センセーショナルな、ニューヨーク・ペインターという気概が、彼には感じられない。
1903年生まれのロスコは、本名をマルクス・ロトコヴィッチといい、現在のラトビア共和国のユダヤ教徒の家に生まれ、1913年に合衆国に移住した。1919年に独立を勝ち取るまで、祖国は内乱状態。戦争の惨禍を嫌というほど眺めた少年期の記憶が、彼の作風に影を落としているようにも思われる。
1968年に大動脈瘤を破裂させたロスコは、その後、病に苦しみ、家族とも離れてアトリエに引きこもった。そして、70年にみずから人生に幕を下ろした。
私が見たあの鉄錆びた色の絵画は、もしかしたら彼の血肉がこびりついたものかもしれない。そう思うことがある。そういえば、あの褐色、ぬらぬらしたぬめりのある色あいは、なんとなく昔見たある寺に残された血天井に似ていなくもない。
抽象絵画は、絵画でありながら絵画ではないものを目指した。要するに限りなく、過剰な意味の付随を省いて自己の本質を問う方向へと向かったのだが、その究極を突き詰めたのが、何を描かない白い画布をおいてこれが絵画だといわしめるようなコンセプチュアルアートの遣り口となる。
だが、ロスコは、キャンバスに穴を空けるだとか、足で乱暴に描くパフォーマンスには走らない。
彼はただひたすら、色彩を塗り重ね、線を引き、キャンパスの列にリズムを生ませただけだった。像を結ばない絵はどこを見てよいやら分からない。
その最終成果が、あの黒い画面だった。それは、いわば絵画の彼岸と呼んでもいいかもしれない。彼の絵筆はもうそれ以上は辿りつけなかったのである。
そして、彼は塗りたくられた絵の具だけ残して、いわば扉のように固く沈黙し、ただ色彩だけが火照った肌のように焼かれた絵画の奥へ行ってしまった。あの暗い色面の壁の向こうに潜んでいるものに、人は取り憑かれてしまうのかもしれない。
(2009年8月の記事を加筆修正)
小説家高村薫は、マーク・ロスコ(Mark Rothko)の絵画のような作品が書きたいと語る。(日曜美術館2009年7月19日放映分)彼女の最新作『太陽を曵く馬』の主人公は殺人を犯す画家の青年の話で、その装丁の表紙にはロスコの代表作『シーグラム壁画 No.4のためのスケッチ』があしらわれている。
高村のロスコ絵画への興味には、なぜ人間は抽象絵画を描くのかという、根本的な問いかけが潜んでいる。その答えを、ロスコの生きた20世紀には、人間が絵画に約束された幸福なつながりを失ったからだと、説く。これは非常に柔らかくわかりやすい言い方だが、要するに教科書的に言えば、絵画が意味性をうしなったということだ。
マーク・ロスコの絵画を、かつて広島の現代美術館や千葉の川村記念美術館で見かけたことがある。
私はほんらい抽象絵画が嫌いなので、ロスコについてもあまりよくは思っていなかった。抽象絵画は、欧米のコレクターが富裕な邸の壁を埋める装飾として買い込まれると聞き、なぜこんな子どもの落書きめいたものが市場で値を吊り上げるのかと不思議に思っていたものである。無知とは恐ろしいもので、たいがいの毛嫌いは無理解から生じていることは承知している。が、実物を前にして違った。作品は実見してみなければわからない、というのはどの作品にもいえることなのだが、ロスコ作品の場合特にそうだった。あの色調の趣は、けっして印刷物のインクでは出せない。認識が一元化する、デジタル画像でも無理だ。
私が見たのはタイトルを失念してしまったが──多くの抽象絵画は意味を剥ぎ取られたものとしてつくられているので、タイトルを覚えるという機会がない。色合いと線の動きとサイズだけ覚えておけばいい──縦長の長方形のキャンバスで、3メートルはあったかと思う。茶色の地に、オレンジなのか、赤なのかわからない正方形が上半分に輪郭を滲ませて描かれているものだった。茶色の地と朱の正方形、そう認識して離れて、その展示室の入口から遠巻きに一覧した時に、その絵画はふしぎなことが起こった。黄砂のようにぎらついたものが、その絵画から現れて見えたのだった。もう一度近よって、しばらくいろんな角度から覗いたりしてみると、異なる印象が得られる。
アメリカのフォーマリスト美術批評家のクレメント・グリーンバーグは、ロスコ作品を評して言う。「色彩が呼吸するように、観る者を包みこむ」のだと。私がロスコのその一枚に感じたのは、たしかに外気と体内をめぐる呼気との区別がつかないような空気感であった。色彩は外ににじみ出て融けあおうとし、また透明な空気のなかから色彩が色づけられてキャンバスへ染み付こうとする。そんな境目のない絵画の生理現象ですらある。
言われてみれば、あの錆ついた鉄のような色あいはまた、肉のようでもあり、血のようでもある。
派手派手しい彩色のロスコ絵画を、私は知らない。肉いろの絵画はやがて、晩年になると黒く変化する。黒といってもべったりと重く塗りつぶされた黒ではない。それは炭ともいえるようなもともと生命の焔のような輝きの色を終えたあとの色とみえ、また生物が腐敗し堆積してできたような黒土のような黒である。
この晩年の黒い絵画を並列させた展示室は、見る者を深い瞑想へといざなう。そこを訪れ、ただ絵画群のまえで長い時を過ごす者は少なくはないという。彼らが、マーク・ロスコの人生を知ってか知らずか。
作品に感動できても、その生きざまや考え方には感心しない芸術家は多い。画家の人生と作品は別ものと考える私にとっては、その人となりを知らずに目を見はらされた、希有な抽象絵画の画家のひとりである。
ロスコは言わずもがな、ジャクソン・ポロック、バーネット・ニューマンらと共に、戦後アメリカから生じた重要な美術潮流の旗手である。
だが、本人自体は、たいがい画家の意向を無視してでっちあげた批評家のそのようなイデオロギーとの関係からは距離を置こうとしていたとされる。アクションペインティングのようなダイナミズムを目指さない彼の絵画には、日本人の好みそうな、柚薬をなんども丹念に上塗りして火に入れてこそ醸し出されるような、渋い沈んだ色調がある。とても静かな絵である。
マーク・ロスコは、自分の絵画を他の作品からいっさい遠ざけて一室に展示してくれと願ったという。それは画家の傲慢だったろうか。その願いは日本の美術館において果たされた。川村記念美術館ほか、ロンドンのテートギャラリーのロスコ・ルーム、そしてワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー。
とある鑑賞者は、この作品に出会えるまで生きていてよかったという言葉を残している。
パブロ・ピカソと並び二〇世紀最大の美術家であるアンリ・マティスは、教会の聖堂のステンドグラスの絵画を描いた。マティスとおなじくロスコにも宗教的なものが流れていたのかもしれない。晩年には、ヒューストンのロスコ・チャペルへ展示する連作に力を注ぐ。センセーショナルな、ニューヨーク・ペインターという気概が、彼には感じられない。
1903年生まれのロスコは、本名をマルクス・ロトコヴィッチといい、現在のラトビア共和国のユダヤ教徒の家に生まれ、1913年に合衆国に移住した。1919年に独立を勝ち取るまで、祖国は内乱状態。戦争の惨禍を嫌というほど眺めた少年期の記憶が、彼の作風に影を落としているようにも思われる。
1968年に大動脈瘤を破裂させたロスコは、その後、病に苦しみ、家族とも離れてアトリエに引きこもった。そして、70年にみずから人生に幕を下ろした。
私が見たあの鉄錆びた色の絵画は、もしかしたら彼の血肉がこびりついたものかもしれない。そう思うことがある。そういえば、あの褐色、ぬらぬらしたぬめりのある色あいは、なんとなく昔見たある寺に残された血天井に似ていなくもない。
抽象絵画は、絵画でありながら絵画ではないものを目指した。要するに限りなく、過剰な意味の付随を省いて自己の本質を問う方向へと向かったのだが、その究極を突き詰めたのが、何を描かない白い画布をおいてこれが絵画だといわしめるようなコンセプチュアルアートの遣り口となる。
だが、ロスコは、キャンバスに穴を空けるだとか、足で乱暴に描くパフォーマンスには走らない。
彼はただひたすら、色彩を塗り重ね、線を引き、キャンパスの列にリズムを生ませただけだった。像を結ばない絵はどこを見てよいやら分からない。
その最終成果が、あの黒い画面だった。それは、いわば絵画の彼岸と呼んでもいいかもしれない。彼の絵筆はもうそれ以上は辿りつけなかったのである。
そして、彼は塗りたくられた絵の具だけ残して、いわば扉のように固く沈黙し、ただ色彩だけが火照った肌のように焼かれた絵画の奥へ行ってしまった。あの暗い色面の壁の向こうに潜んでいるものに、人は取り憑かれてしまうのかもしれない。
(2009年8月の記事を加筆修正)