武夜御鳴神(タケノヤミカヅチ)は、もともと蒼天や海を思わせる色合いをもつ、まさに地球そのものを化生せしめたかのような、爽やかな神機であった。
光沢のある漆喰壁の白に、銅板葺きでほどよく緑青の取り合わせが美しく雄々しい、そんな城郭のような威厳さえ、あの神機には感じられる。若武者というにふさわしい。
一の首機・嶽鑓御太刀神(タケノヤスクナズチ)はやや紺がかった闇いろをしていたから、最初から邪神として誕生していればもっと暗く陰った機体だったはずではないか。
千歌音が搭乗したときは、アメリカザリガニのような暗褐色に変色したし、フェイス部分も凶暴な人相になってしまった。オロチの手先になった千歌音には、それがあるべきこの武神(いくさがみ)の、暴れん坊な姿であると考えていたのだ。血染めに紅く染まったあの姿こそが。
しかしである――思い返すに、この神機。
ふたりの誕生日のあの日、黒い太陽が昇った日には、この青みがかった機体のまま、まず陽の巫女たる姫子を襲わんとしたのではなかったのか。邪神であったはず、なのに。そして、なぜか月の巫女であるはずの自分には見向きもしなかった。我に返った大神ソウマは、姫子への想いで踏みとどまったと考えただろう。
つまり、こうも考えられるのではないか――封印されていた時点では、この正義感あふれる清々しい青への変態のままだった、と。
すなわち、前回のオロチ対戦であっても、巫女側に加担した可能性も考えられなくはない。巫女に浄化されて封印されたのであろう。
武夜御鳴神は、オロチを裏切り、大神ソウマを裏切り、最終的に千歌音の手に落ちた。姫子を握りつぶそうとしたその巨大な掌で、姫子をなんども救ってくれた。万有を誇る力を発揮したのは、陽の巫女の光りが働いていたからなのだろう。だからこそ、まず、今世のオロチ衆たちは真っ先に覚醒おぼつかぬ陽の巫女を血祭りにあげようとしたのだ。懐柔されやすい弟分の七の首機を奪われないために。
この武夜御鳴神は邪神ヤマタノオロチの合体時には、心臓部に陣取って、他機の司令塔めいた役目を背負った。
もちろん乗っ取った千歌音がいたからこそなのだろうが、万年不在主の八の首機こと翼脊深御観神(ヨクセミノミズチ)の機能不良を思えば、実質、あの七の首機こそがオロチ機のなかでの主格であり、最終戦では離脱して銀水晶の輝きを放ちながらも本体を攻撃せしめた破壊力があるのだから、いまいちばん蘇生させてはならぬ神機なのではないか、と千歌音の危惧はつのるのである。つまり陰にも陽にもなり、いつなんどき裏切るのだかわからない。
いま復活したら、それは私たちの扱いうるやさしい神機なのであろうか。
いや。おそらく、それは真っ先に姫子を襲うのではないか、来栖川姫子の幼馴染・大神ソウマからの愛という安全装置がいない今、この場所では――…。千歌音には自信がないのである。自分があの武神を不義の赤に変えてしまった手前、正義の青に戻せるという自信が…ない。自分が召喚した武夜御鳴神が、またしても姫子に襲いかかるなんて耐えられない。そして、それはまた、巫女が最上に愛すべき剣の神に対しても、そうであったのかもしれない。
武勇猛々しき武夜御鳴神に比べれば、アメノムラクモの斬撃はいささか直線的とみえる。
垂直的な白刃の古代剣をモチーフにされた形状のせいもあるのだろうが、技が多発ということもなく、対ヤマタノオロチ戦では、原始的な頭突きをかましていたりもするわけだ。これは敵方として刃をまじえた千歌音だからわかること。筋肉が柔軟なアスリートらしいアクロバティックな動きではなく、甲冑に身を固めた騎士道めいたスマートな剣筋でもある。指先も爪が長く、ほっそりしていて、ものを掴むのに長けた働きはしなそうでもある。つまり、ひとが自在に使役できそうな構造ではない。ただ、そのエネルギーたるやほかのオロチ機の比ではなく、はるかに膨大でひとたび光りあふれだせば、星ひとつぶんぐらいの輝度をもつかに思われた。腕をブン回すような派手な動きをしない分、内部の操縦者には負担がかかりにくい構造ともいえる。事実、バイクや車などを扱ったことのない姫子や千歌音であっても、すこしの祈念で動く。むしろ、勝手に動く。巫女が使役するというよりも、自立した意思をもっている。
そのせいか、武夜御鳴神に比べれば、剛勇さもなく、静かで底の知れない深さをもった神機ともいえる。
剣神といいながら、えてして血塗られた戦いに向いている機能が備わっているとはいいがたい。代々の巫女はどうやって、あの獰猛な怪獣のごとき魔神ヤマタノオロチと対峙してきたのであろう。私たち神無月の巫女との付き合いは長いはずだが、この剣神の本質をほんとうに見極めることはできたのであろうか…。地獄のとば口から底を見通せないほどに分厚い闇がのぞくかのように押しひらかれ、その月の社の扉が閉じあわさんとするその直前――たしかにその美々しい女神の声を耳にしたはず、なのだが――なぜ、この月面ではだんまりを決めこんでいるのであろう。人語を解するのではなかったのか。どうして、あれは巫女の意のままにならないのだ。
巫女の因子もオロチの因子ももともと同じ。
オロチの神機を私たち剣の巫女が駆ることもできる、という。たしかに、できたのであった。しかし、そうはいっても、七の首機をなつかしんで、われらが神無月の巫女ほんらいの神機に信をおけていないのは、どこか危ぶむべきではなかったろうか。いやいや、そもそも、神聖な機体をそんな児戯に類したことに用いることさえ思い及んではならないのだが、無邪気にそんな子どもじみた夢を語ってしまえるところが天衣無縫な来栖川姫子でもあり、姫宮千歌音の好きな姫子なのでもあった。
雪を降らせた景色は最高の眺めだったはず。
そこに姫子と私がいれば、もう他になにもいらない。いまの私たちを隔てるものなんて、たとえ神であっても――そんなおこがましいことは口にするのは憚られるけれども、姫宮千歌音の本心でもあった。
いけない、いけない。
いまは巫女の本分、そう、オロチ封印固めの儀を円滑に進める手筈を考えるために、現場の検分におりたはず。ありえたはずの冬をとりもどしたからといって、気を許してはいけない。そこが儀式の頓挫にもなっているのかもしれないのだから。アメノムラクモの刀身を規則正しく月面に埋めこんで、封印を最後まで無事完成させる。そのあとは魂に許された残り時間を姫子ともども余すかぎり楽しみきって、この無限の闇の月の社のなかでともに朽ちていく。ふたりは混沌の闇にとけあって、来るべき転生を待つのだ。それが、いまはただ、私たちふたりの望み。
千歌音は雪駄の先に力をこめるように前に進む。
足に力をこめないと、この雪面ではすべりそうになる。抱きとめてくれる相方がいればよいが…、いっしょに転んでしまうが関の山。鼻の奥がツンと詰まった冷たさ。雪まじりの土の音にはどこか金ものくさい鈍い音がまざった気配がある。なにか不自然だ。
はたして、あの神機の待ちそびえるその聖域にたどりついたとき――いくつかそこの精白な輝きがにごされている。ところどころ血の砂のようなものが点々とばらまかれて、まれに塊のようなものさえ落ちている。
千歌音は唖然としていた。まさか、そんな?!
そこには銀光りするあの美しい白亜の巨躯の神機が――…なかったのだ!!
【神無月の巫女二次創作小説「花ざかりの社」シリーズ(目次)】