陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

知性の光が歴史を変える――アニメ「チ。―地球の運動について―」

2025-02-25 | 教育・資格・学問・子ども

俗に既成の概念を打ち破るような真理の発見のことを「コペルニクス的転回」などという。
しばしば常用されがちな言い回し「パラダイムシフト」と同義と言ってもよろしいかもしれないが、常識にとらわれないとか、枠にハマらない、といったものとはいくらか趣がことなる。なにか新しいものを生みだすとか、ちゃぶ台返しめいたチェンジとかではない。なぜならば、後者は普遍的なことをひっくり返す衝撃のことであって、またいつなんどき覆るかわからないような共通認識を叩き壊すハンマーを指すからだ。その時代ではうけいれられていた社会通念それ自体はなかったことにはされない。パラダイムは並べ置かれるのである。

もともと、そこに存在していたのに、ひとびとの目が曇って見えていなかったものが忽然として現れた。
すなわち、人類がその叡智に到達するまでに熟達していなかったのだ、と。誰かが編み出したのではない。啓蒙の光りによって、世界を動かす法則が見えたのだ。洞窟から抜け出たとき見えた星空のような、そん神々しいな印象がある。絶対に揺らがない真理がもたらされたという歓喜。その真理は誰かを殴るものでも、その人生を奪うものでもなかったはずだ。なのに、それに触れることでコロナ患者であるかのように畏怖され、唾棄される時代があった。恐怖のために、私たちはそれを見まいとしていたのだ。

18世紀の哲学者イマヌエル・カントが『純粋理性批判』第二版の序文のなかで提唱したことによって広まった「コペルニクス的転回」。人間の認識が対象を規定しているのであって、対象そのものの本質はそれとは無関係に存在しているというこの言説は、視座を転換すれば世界のありようは全く異なるということを示した。

ニコラウス・コペルニクスは地動説の創始者である。
しかし、太陽中心説はすでに前三世紀に古代ギリシア、サモス島のアリスタルコスが提唱していたが、アリストテレスやプトレマイオスの天動説が席捲していたがため、2000年間は封印されていた幻の学説だった。地動説で迫害されたといえば、17世紀のガリレオ・ガリレイにふりかかった異端審問裁判がよく知られているが、極度に迫害されたのではないというのが現在では通説である。

いずれにせよ、地動説と聞けば、名に聞こえし学者の面子が浮かぶものであろう。学説は知のプロフェッショナルのもの、エリートの所産、象牙の塔の住人たちがふるうのを許された鉈。ところが、この漫画はそうではない。そうではないからこそ、すこぶる面白いのだ。知は権威によって占有されるものではない。

人類は土地を争い、血を隔てたばかりに戦争を起こしさえする。
それによって滅びた王朝も、失われた文明も数えきれない。だが、それを掘り起こし、つないでいくのも人類の知なのである。それを伝えるのは、「感動」である、とこの物語は語る。なんという、わかりやすいテーマだろう。

ここ近年、教科書で太文字表記にならないような、サブ偉人枠を主人公に据えたドラマや小説などが増えるなか、架空とはいえ、歴史に名を残しはしないが知の営みをつなぎとめるために苦闘した人間の群像劇として、「チ。―地球の運動について―」は傑作としかいいようがない。

べつだん好きな画風でもなく、好みのテイスト(和風であるとか)でもなく、残虐なシーンもあって、キャラが報われない。カタルシスがないのにも関わらず感動できるのは、忘れていた知性への信頼を取り戻してくれたからなのだろう。

勇み足の学生が抱えがちな、教会の権威=アカデミズム批判という青くささを内包しつつ、車輪の下のような少年期の挫折は神童ラファウ、女性研究者のガラスの天井はヨレンタ、はみ出しギフテッドの苦悩を抱えた高慢な修道士バデーニの変節や、最善の死と生の渇望をかかえた無学の徒オクジーがおこす奇蹟、あるいは革命組織がはらむ自家撞着と内部崩壊、などなどさまざまなイシューがかいまみえる。故郷を飛び出して一儲けをたくらむ野心家のドゥラカでさえ、やがて自己利益をかえりみずに故人の遺志を継ぐ。彼女は知的に人生をみちびいてくれる師に飢えていたのだろう。

彼らの生き様は一歩間違えば、カルトに近い。
実るか実らぬのかわからないものに命を賭ける。そして、そこに少年漫画のような都合のいい勝利も、うるわしい友情も、熱い感情の深いやり取りもとりたててあるわけではない。狂ったような情熱もなく、正義をかざすわけでもない。男と女がいるのに恋愛で結びつくことがなく、男たちの主義思想は細部で織りあうことはないのに、それでも彼らはなぜか、ひとつの信念にもとづいて倒れていく。おぞましき異端審問官のノヴァクですら、時代の求めに忠実だったばかりの犠牲者とさえ映る。

私たちは学問さえ究めれば、ひとかどの人物にばれるのだと教わってきた。
けれども、暗記のようにして頭に叩き込んだ学説ひとつとっても、なぜそれが生まれたのか、どうしてこの時代にまでそれが伝わってこれたのか、など思いだにしない。その発見に浴した人物がどんな感慨をもっていたのかさえ、知ることすらない。

それを伝える文字でさえ、それが人の意思伝達を未来永劫に延べ送りする奇蹟の手段であり、言葉を読み書きできることはそれ自体がすばらしいスキルなのであることを知りもしない。

ちょっとした日常のつぶやきがまたたくまに全世界に発信されてひと騒動巻き起こしかねない。そんな巨大なメディアの最先端に生きるわれわれは、本というものが原初、どのように誕生したのか、それさえありがたみが湧かない。文字があたりまえのように溢れすぎている現代で、自分の欲しい情報にたどりつけることがどれだけ幸せであるか。その恩恵を忘れている。きっと、ある人物のように目を潰されてから初めて気づくのであろう。

この作品、2024年10月放映開始のNHKアニメから入ったにわかで、原作漫画はまだ1巻しか入手していないのだが。
「進撃の巨人」同様、ネタバレを恐れて原作を遠ざけていたからである。ついでに失礼を承知でいえば、あまり絵柄が好ましい漫画でもない。

主要人物のほとんどがたどる運命は総じて悲劇的であり、けっして幸福感に包まれるものではない。何かが解決されたわけでもない。
アニメの動きが闊達であるとか、演出がずば抜けてすばらしいとか、でもなく。台詞回しが冗長でさえもあるのだが、なぜ、この作品がこころを打つのかといえば、学ぶ喜びの本質に立ち返らせてくれるものだからなのだろう。ともすれば、経済の荒波にもまれて学問が軽視されがちなニヒリズムへのカウンターパンチとして、この作品は機能する。

なぜ勉強しないといけないのか? ――そんな質問を浴びせられて答えに詰まるときに、私は本作をお勧めしたい。
学ぶという楽しさをなぜ、あなたは放棄してしまうのか、と。それは脳に対する極上の栄養であるのに。

この作品の描きたかったものはなんだろうと考えたら、行き着いた言葉が「フィロソフィア(philosophia)」すなわち、知を愛することだった。
知りたいという人間の欲求には終わりがない。毒杯を煽ったソクラテスは著作を残しやしなかったのに、その対話は弟子たちのなかに生きて、彼らのそのまた教え子たちがその思索の種を飛ばし、その著作に私淑した多くの読者たちが何世紀も語り伝えつづけてきた。哲人は語り継がれることで、なんどでも、よみがえる。ひとつの真理を愛することで、人間はふしぎと袖触れ合う縁もなくとも、過剰で義務めいた連帯感でなくとも、どこかで慎ましやかにつながっているという嬉しさではなかったろうか。

その信念のためなら命さえ惜しくはないという美学には、日常から踏み外れる危険な香りがある。こうした愛(という名の執着)に取り憑かれる経験をいくども歩んできた者ならば、この作品で死んでいく人物たちに惜しみない賛歌を贈れるはずである。

NHKで放映中のアニメは残り数話を残すのみだが、4月から再放送もあるとのこと。見逃し回もあるので楽しみにしている。


(2025.02.19)



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