真夏の寝苦しい夜に、少々のひんやりしたお話をします。
なに、怪談の類ではございません。
私はとある業界新聞をとっているのですが。
先日、そこに著名な女性エッセイストの寄稿文を見つけました。正直、その業界新聞の傾向と全く関係ない私生活まわりのことが書きつけてありまして。なぜ、このひとは、ここのコラムを担当したのか…と小一時間悩むものです。いえ、べつに、そのひとが嫌いなのではありませんが、ペンネームがかなり気になる方なので。
それはともかくも。
ある日のその女性エッセイストの文章を読んでびっくり。アフリカ製の仮面を民博かどこかで眺めていたら体調不良になった、怪我をした。ものを失くした。これは呪いをかけられたせいではないか、というのです。
ドキリとしたのは。
私は学生時代にあちこちのミュージアムに出かけていまして。お土産代わりにポストカードを購入していたものです。平面の絵ならばよいのですが。私が買うというカードがきまって、なかなか癖のある仏像だとか、クメールの石像だとか、どろどろにとけた鍾乳洞だとか、そんなものばかりです。
で、私が買ったコレクションのなかには、アフリカの仮面やら彫刻やらの写真カードもあったわけで。
正直あまり気に入らないのもあるので、複数枚入りセットで買い求めたのでしょう。今から見てもかなり不気味です。干物みたいな人体像なので。ツタンカーメンの仮面とかもありました。
ハガキの裏面をみると、タンザニア・マコンデ現代彫刻とあります。
そうそう20歳ぐらいの自分に、伊勢のあたりのマコンデ美術館というのに足を運んだ覚えがあります。青春十八切符を使って。私はなぜか印象派みたいなきらびやかな絵画の美術館でなく、生活用品だのの民具の博物館だとか、立体物の野外展示してあるようなミュージアムが好きで。こういう変わりものの展示は好んでよく出かけました。やはり、美術の研究者には向いていなかったのでしょう。
パブロ・ピカソがアフリカの彫刻に惹かれて、創造の源泉としたことはよくしられていますよね。
そういえば、「泣く女」等のキュビズムの代表作、あるいは反戦の大作壁画の「ゲルニカ」も、どことなく顔の崩し方がアフリカの彫刻を思わせます。原始的なエネルギーが宿る彫刻は、天才芸術家でさえ虜にし、自分の姿を模造して複製させるように迫ったのでしょうか。それもまた、美的な呪術ともいえそうです。強烈なエネルギーに満ちた彫刻は、並の一般人が眺めてよいものではなかったのかもしれません。
アンリ・マティスの彫刻にも、黒檀の木をつかった滑らかな仕上がりのアフリカ彫刻を思わせるようなものがありました。タヒチの生命力に引かれたゴヤもまた、未開人の創造性に魅せられていたのでしたね。今から百年ほど前の、戦前の造形家たちは、なぜ奇妙奇天烈なグロテスクなカタチに惹かれたのか。そうしたゆがんだ好奇心がむしろ文化史を変えたのだといえるのですが。美術の王道的なアカデミーに属さなかった野良芸術家たちだった彼らには、素朴な生命の響きが斬新なものだったのでしょうか。もし彼らがいま生きていたら、日本のカワイイ萌え文化をどう思うのか聞いてみたいところではありますね。
ところで、くだんの不気味なポストカード類。
興味本位でスキャンしてブログでお見せしようかとも思いましたが。
閲覧した方のご気分が悪くなったら困りますので、そのまま廃棄することにしました。わたしがうっかりポックリ逝ったら、遺された家族が心臓止まりそうな不気味さがあるからです。破ってすてるのもなんだか怖いので、雑誌の廃品回収置き場へ、見えないように隠して。
それにしても、私、こんなものをなぜ後生大事にとっておいたのでしょうか。
悪いことがおこったのはそのせいだったのか、どうか。いずれにせよ、あまり気味の悪いものをいつまでも日常の中においておくべきではないのでしょう。
家の中に仏像のミニチュアだの、こけしやぬいぐるみなどの人形だのを飾っておくのも、あまりよくないとされています。
(2022/07/23)