先ほど片づけ終えたはずなのに、またしても、ひっぱり出してきたのだろうか。
黒いミニカーのタイヤを指でさかんに回しながら、ヴィヴィオはおもしろおかしそうに言うのだった。あまりにもこの事態にはそぐわない、無粋にして無邪気すぎることを。
「そっかぁ、黒い車ってゆっくり走るんだ。ねえ、はやてさん。だったら、フェイトママの車も安全運転でゆっくり走ってるね。お外に行ったなのはママたち、なかなか帰ってこないかな? 夕食までにお土産持って帰ってきてくれるといいのに」
もし、それがこの最悪の状況を知り得ていながらあえて発した言葉であったとしたら、あどけなさの残るヴィヴィオの屈託のない笑顔は、世界の命運をおもちゃのレバーをひねるがごとく変えてしまう、血の通う心臓のない小悪魔のそれに思えたことだろう。
はやては、ヴィヴィオの顔を自分の胸元に押しつけてエアディスプレイを遮った。
すでに十分なほど、ヴィヴィオの瞳には何ものも悪しきものなど映るはずがなかったのに。時として大人は自分の不甲斐なさを知らせないために、子どもの視野を狭めてしまうのだ。はやてはとりつくしまもないほど色深い怯えの浮かんだ顔を見せまいとした。
あまりにも、ぎゅ、と抱きしめられていたので、ヴィヴィオは手にしていた黒い車を取り落とした。
それはヴィヴィオの足に当たり、くるりと一回転して、大人が腕を伸ばせば届くぐらいの距離を前進した。
──なんでや。なんで、こんな山んなかに、おるんや。
みんな、あの神社で引き止めてくれたんちゃうの?
いんや、みんなのせいやない…。
そもそも、私が送り出したんが間違ってたんか?!
高町なのはを乗せた、フェイト・テスタロッサ・ハラオウン運転するあの黒い車は、いったいいつ、八神はやての思い描くコースから外れてしまったというのだろう。自分の計算では、夕食どきにはふたりは何事もなかったように帰ってくるはずだ。はずだったのに。
はやては今、芯(ハート)の抜けた林檎のように、自分の全てを支えているものがすっぽりと抜け落ちて、握りつぶされていくようないい知れぬ不安に取り巻かれている。彼女もまた好き勝手にさいころを振りすぎて、ツキに見放されてしまったのだろうか。
小利口な精神が自分を利するため賢明なる判断を下すよりも先に、足が向かってしまうことがある。
それが勇気であり、あるいは憐憫の情であるとしたら、全身がただ強ばったままで鼓動の早まった心臓が胸を突き破って、この状況からさっさと逃げ出そうとするのは、臆病とか恐怖心としか言いようのないものだった。そして、はやては幼いヴィヴィオの不安を抱きとめるためではなく、自分そのものがヴィヴィオによって不安を抱きとめられているのだった。
「フェイトママの車は、遅うなるかもしらんけど、たぶん、いやきっと、帰ってくるで。心配せんでええ」
はやては、それだけを言葉にするのがやっと。
その言葉をいずれどのように捻り回して、しかつめらしく真実を知らせるべきか。それを考えると、目の端にじんわりと悲しいほどに苦い涙が浮かび上がってきた。