「とにかく儀式はきちんと進めてくれたまえ。勝つ者がいて、負ける者がいる。それが変わらない真実。勝って嬉しいのか、負けても素直にうけいれるのか、それは君ら次第。だけどね、島にはあの秘儀はなくてはならない。舞台の役者が臆病風に吹かれて逃げたんじゃ、観客は困るのさ。うるさい長老衆にせっつかれて困っているからね」
スマホの画面をちらつかせながら、脅迫めかした口調で、御観留め役は念を押す。
「御意」と手短に、渋みを利かした声で答える千華音。「謹んで、ご忠告痛み入ります」と、やや透き通った声でかしこまった媛子。両名ともしおらしくしているのは、このふたりだけの時間を壊されたくはないからだった。私たちには、あとひと月しかない。一秒だって惜しい、誰にも入り込まれたくはない。千華音が媛子の家へ親友面で出入りしているのを、近江和双磨は島へ報告しているのだろうか。
「ああ、そうそう、皇月の。君ね、あの奇襲をかけた猫娘をどうしてとっちめてやらなかったんだい?」
「警察を呼ばれそうになったからです。相手が悪すぎました」
「だろうねえ。彼女はちっちゃいけれど、悪知恵が働く。ま、見た目を裏切っているのは、日乃宮家のお家芸なのかな? ねえ、媛子」
水を向けられた媛子は顔を赤くしてうつむいている。ひたひたと下卑た笑いを崩さない「男」。それを冷ややかに見つめる女。
千華音は先だっての闇討ちを思い返す。
でかぶつの盤力の砕魔とやらの頭に痛恨の一撃をくわえて沈めたあとで、残った相方の小娘は見逃してやろうと思った。気を失って地面に伸びた女傑に縋りついて、すげなく泣きわめいていたからだった。「皇月の馬鹿巫女、あたしらを騙すのにゃあの! 媛にゃんを返せにゃあの、この卑怯者め!」――その言葉に、千華音は攻撃する気力を削がれてしまったのだ。いったい、どういうことなの? 私が媛子をさらったとでも――?! その隙に、小娘は千華音めがけて喉を焼くような炎を噴きつけ、顔を覆った手を狙っては毒の塗られた針────暗器でしたたかに刺してきた。千華音が下腹部を蹴り上げると、毬のように転がった。泣きべそを掻いてうずくまる。勝負あったかに思われた。
すると、周囲の物陰からひとが続々と現れはじめた。彼らは、なんとスマホを抱えて動画撮影をしはじめたではないか!
千華音は奪った敵の武具を手にしていたし、火傷を負いながらもおのれの刀剣は手放さなかった。猫娘は隙を衝いて、「お姉ちゃんが鬼女に襲われ中にゃの、なう」と腕時計型端末に入力していた。千華音は知らずにいたが、この幼女はフォロワー数百万を下らぬ人気のVチューバ―でシンパが多かったらしい。あいにく撮影者たちは一般人だ。巻き込んではならないのが鉄則。千華音は慌ててその場から逃亡したものの、住所を特定されてしまったのか、複数名の男がうろつく自宅にも帰るに帰れず、しかたなく媛子の家へ向かったという顛末なのだった。
「まったく日乃宮の小細工にも閉口するよ。まさか、こんないぎたない手を使うとはね」
媛子が肩をひくつかせて、ぎくりとした顔をする。千華音は背後にいる彼女を振り返りはしない。いま、媛子がどんな顔をしているのか、見たくなどなかった。
「そもそも、媛子が島から逃げ出しただろう。それが掟破りのはじまりなのさ。一部の九頭蛇たちが先にこの泣き虫を襲った。そこを君が助けた――これが事実。でも、日乃宮の連中はね、皇月千華音が一芝居打って、媛子を飼い殺し状態にするために刺客を放ったと主張している。井戸へ毒を投げ込まれたり、邸に火をつけられたりしたから、島から逃げるしかなかったと。そうでも言わないと立つ瀬がないからね。ねえ、そうだろ、日乃宮の。君のレポートにはなんて書いてあるのかなあ?」
双磨の水干の隙間から出されたのは、万年筆で書かれた便せんだった。
千華音ちゃんが部屋に入る前に隠しておいたのに――!? 媛子の顔が蒼白になる。報告書を奪われたとしたら、ふたりで入浴中のことなのだろう。うかつだった。
おろおろしだした媛子をいたぶるかのように、双磨がぱっと手を離す。
その便せんは、あっけなくばら撒かれた。風に乗って、その一枚が千華音の腕に張りついた。きゃあ、と媛子が悲鳴をあげそうになる。バレる、知ってしまう、千華音ちゃんが、わたしのほんとうを…!! だが、千華音はそれに目を落とすことも読むこともなく、包帯を巻いた利き手でバラバラに引き裂いてしまった。媛子がへなへなと腰を落とし、そして千華音の背中に縋りつく。
千華音はいまや、冷静な自分を取り戻していた。
私は夜空にどの星よりも高く、強く輝く孤高の月。この程度ごときの叢雲など吹き飛ばしてやるわ――! それは先ほどまでの熱のこもった殺気ではなく、懼れのない覚悟だった。不思議だった、媛子が側にいるとどんな敵でも対処できそうな気分になる。
「ひとのこころをさんざん弄んでおいて、少々お戯れが過ぎませんか。私は…、この皇月家の名に懸けて、正々堂々と御霊鎮めの儀で、この日乃宮媛子と闘うつもりです。ゆめゆめ誤解なさいませぬよう」
媛子が千華音の浴衣の袖をぎゅっと握りしめる。それでいながら、御観留め役に向ける顔には精いっぱいの平気顔をしてみせる。
「…わたしも、おうちには手出ししないでと伝えてあります…。それは、ほんとうです。儀式から逃げるつもりはありません」
双磨はこめかみに手をあてて、とんとん、と指でそこを叩いた。
まだ、その目の端には、猜疑心がこびりついたように残っている。疑りぶかい人間はいつも半眼だ。眠たげな爬虫類のように重そうな瞼をしている。
「フフ、それはいい心がけだよ。皇月の、君ね、うっかりテロリストとして公安にマークされるところだった。警視庁総監にまで掛け合ってもみ消してもらうのは骨折りだったよ。留置所に拘束されて、儀式の日に間に合わなくなったら大ごとだ。都会は至るところに監視カメラがある。ひとは無関心なようでいて、好奇心旺盛だ。くれぐれも今後は、『大蛇神さまの目』を忘れず、自重してもらいたいものだな」
「それは、重ねてご尽力に感謝いたします」
「いやなに、礼には及ばないさ。なにせ、君たちの勝負には、わが杜束島の未来がかかっている。巨額のマネーが動く。米露の裏社会のマフィアから、中国の華僑、アラブの石油王に至るまで、スポンサーの皆さんが楽しみにしているからね、くくく…。本番でもあっさり死なないでくれよ、すぐ終わったら八百長だと疑われるからさ」
舌なめずりせんばかりに顔をゆがめて、さもゆかしげに嗤う御観留め役。この「男」をここまで憎らしい、出会った人間のうちでもっとも醜いと、千華音は思ったことはない。
ひとの命を手玉に取って、賭け事の道具にするとは、故老の狸どもめ。所詮、私たちの生きたいというあがきも、美しく散りたいという願いさえも、非情な大人たちの欲望が回す歯車にしか過ぎないというのか。資源の乏しいあの神秘の島で、さして観光名所でもなく、だからこそ不可侵の慣習が残る聖地であるはずが、いつのまにか泥くさい資本主義に毒されている。都会に情報を流すなというのは、大富豪たちが不道徳極まりないデスマッチへの賭け事を世間から隠すためだったというのか。俗世の業突く張りどもが金の取り分のために、私たち、神聖な巫女のいずれかの命が潰えればいいなどと、汚らわしいにも程がある――!!
だが、千華音はいやというほど、この東京砂漠にかりそめに住んで思い知らされたのだった。
この街の人びとは、悲しいことに忘れているのだ、この国の歩みが神ともにあったことを。忙しない大都会では誰も神を厳かな気持ちで奉りはしない。朝な夕なに祈りを捧げ、うやうやしく敬ったりもしない。寺社仏閣はないことはないが、ただの一時のお祭り騒ぎの冠婚葬祭の場所だ。南国の戦地でいのち散らした英霊を鎮める神社でさえも、その存在理由を疑問視され、政治家ですらタブー視するものまでいるという。神を信ずることがあたりまえで、生活の中心にあったおのれの日常は、媛子をおいかけてそのまま居着いてしまったこの街で、すっかり変わってしまったのだった。
――神の加護が得られないこの土地で、私は確実に弱くなった…。媛子に出逢ってから、ずっと。以前ならば、刺客はいのち奪うまでではなくとも、刃をふるえば血の雨を降らせ、敵意をあらわにしたら最後、立ち上がって帰れる者などいなかった。あの日乃宮家の手練れのか弱い泣き顔が、媛子のそれと重なったとき、私はもはや斬ることができなかった。その皇月千華音が、媛子以外にも、情けをかけるなんて――。
そう、だからこそ。それが怖くて、自分を失うのが恐ろしくて。
私はなんども宿命の相手・日乃宮媛子を疵物にしようとしたのだった。けれども、なんど試しても、鞘を抜いても、指が動かなかった。まるで、呪いにかかったみたいに――…。「媛子を返してくれ」と言われたとき、それ以上、修羅の道へと進めなかった。そうだ、自分は媛子をあの島へ返すつもりはない。刀の扱いすらろくすっぽ知らず、おっとりとしてまったく闘気が感じられない、この愛くるしい女の子を。おそらく親にも大事に愛されて育てられたのであろう日之宮の家へ、媛子を無事に戻すことができないのだ――そのことが、千華音には現実の重みとしてのしかかってくる。ほんとうに、それでいいのか…と。
【目次】姫神の巫女二次創作小説「さくらんぼキッスは尊い」