陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「ままならない貴女を開く鍵」(一)

2006-10-23 | 感想・二次創作──マリア様がみてる

「ねぇ、祐巳」

クリスマスパーティーも終わった十二月。
薔薇の館のおおきな窓は、静かな放課後の夕陽を迎えていた。暖房のほどよく利いた乾いた室内に、そのしっとりとした声が発せられた。

絹のすれあうような麗しい声の主――小笠原祥子さまは窓際の椅子に腰かけていらした。上質な香りのする古い詩集を、カシミヤの膝掛けのうえに広げ、優雅に頁を繰っていたはず。
久しぶりにふたりだけの薔薇の館、そのお方はときおり、もうひとりがいるのも忘れたように、一節の詩行を口ずさんでいらっしゃった。福沢祐巳はその意味が皆目分からないけれど、清らかなまじないを聞くような思いがして。その美しく透き通った声音に、ときおり耳かたむけていたのだった。お姉さまの声は聞き慣れた言葉を口にされても、聖書にしるされたように尊い御言葉に聞こえてきそうだったから。

だから、その方のうつくしい唇があからさまに、詩句をおやめになって、ありふれた自分の名を呼んだのだとは気づかなかった。

「――ねぇ、祐巳。祐巳ったら、返事をなさい」
「あ、はいっ! すみませんっ」

ぱたん、と栞を伸ばすにはじゅうぶんなほど、分厚い本をきっちり閉じる音がする。
その音で、祐巳は肩をびくつかせた。返事をしなかったのは、うっかり水音にまぎれて考えごとをしていたためだった。

読書する手を休めて、祥子さまが祐巳に声をかけたのだ。
今度ははっきりとそれを認識する。ふたりっきりの館で用事があるとしたら、自分のみ。いつもはどちらかの呼び出しで体育館の裏で待ち合わせしないと、お姉さまとふたりきりになれやしない。薔薇の館に居合わせるのは日課だけれども、他の顔ぶれが出払っていたのも珍しい。そして、嬉しい。そんな貴重なひとときなのに、祐巳はお姉さまではなく、うっかりよそごとに意識をとらわれていた。だから、よけいにお姉さまに詫びをいれるのも後ろめたさが増していた。冬だというのに、いつまでも、のろのろと生ぬるい流水に手を浸していたのもその気の迷いのせいだった。

ちょうど流しの洗い物を片付け終わって──というか、すでに終わっていたのだが終えたことにも気づかず、うかつにも惚けて水を流しっぱなしだった──振り向いた祐巳には、祥子さまのその眼差しのうちに何か言い含むようなものが感じられた。姉の呼びかけにうわの空だった妹の非礼を、咎め立てているような意図ではなく。

こんな真剣な熱の籠もったような瞳を向けられると、とたん祐巳は弱い。読書中だから遠慮してはいたけれど、一体なんなのだろう。
吸い寄せられるようにその麗しいお方に近づくと、その黒光りする瞳がますます優しくなっていくのがとても嬉しい。

傍らに立った祐巳に、軽く微笑まれた祥子さまの口元からこんな問い掛けが発せられた。

「私が祐巳に差し上げたものの中で、いちばん大切なものは何かしら?」

これまで祥子さまに戴いた数々のお品を、頭の片隅にひとつずつ広げ置くように祐巳は思い浮かべた。
刺繍の入ったハンカチ、リボン等、二人のお揃いはたくさんある。バレンタインデートでのお買い物で同じデニムのジーンズを購入されたときは、とても嬉しかった。

貰った物自体はもちろん宝物だけれど、その想い出の時間がより大切だったのだ。物を同じくすることで時を共にすることで、心も揃えられる──祐巳はそう信じていた。

でも、いま祥子さまは祐巳への贈りものが大事に扱われているか、そんな確認のために、お聞きになられたのではないだろう。



【目次】マリア様がみてる二次創作小説「ままならない貴女を開く鍵」





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