私は今でも思い出す――小学生の時の家庭科室で。
青いキュウリを持った痩せぎすな私を、クラスのみんなが冷ややかに見つめていたことを。その日の調理メニューは甘ったるいフルーツポンチ。私の手にあるべきは、キウイでなければならなかったのだ。そのときの私はなにをとち狂っていたのだろう。
いつも、私の耳のなかでは、ざあざあ振りの雨が止まない。
なぜだろう。耳の中はいつも湿っていて、沼地のようにじとじとで気持ちが悪い。他人の声は途切れて、ずたずたになっていくのだ。日本語のはずなのに外国語みたいに聞こえたりもする。会話はいつも虫食いだらけだった。だから、私もワンフレーズしか喋られなくなった。
親にはいつも、話を聞かない頭の悪い子だと呆れられていた。
グループ学習や昼の給食は恐怖の時間だった。私だけがいつも会話から置き去りにされたのだ。だから、私はいつも絵で気持ちをあらわした。画力だけは、とにかく誰にも負けなかった。そのせいか、絵の上手いキャラとして立ち位置を得た私は、なんとか学校では疎外されずに済んだのだった。
けれど、それは学校での話。
高校時代のバイトでもたびたび、そんな不可解な発作が起きた。
飲食店での注文を聞き間違える。電話を別人へつないでしまう。数量の投入を多くする。そのたびに、こっぴどく叱られた。お前はろくな大人になれない。満足に働きもしない、お絵かきしかできないろくでなしだと。どのバイト先でもすぐに引導を渡された。こんなつまらない仕事は自分に向いていないだけだ、そう思いこむことだけが、私のちっぽけなプライドを支えていた。
大学受験を控えたころ、同人誌をつくっていた私は。
運よく出版社の編集に声をかけられ、商業デビューを果たしてしまったのだった。それで大学受験からも逃げおおせた。十代でデビューしたプロ作家なのだ、凡庸な人生なんてさよならだ。ひたすらペンを握りつづければいい、指示のやりとりもFAX一枚、メールの一通で済ませられる。世界は私の思うがままに形成されていく。この仕事は寡黙な私にとっての天職だった。報いられることは少ないとしても、すくなくとも、裏切られることはない道だから、孤独な創作者の道を選んだのだ。
けれども、あんがい、叶えられてしまった夢はつまらないものだった。
孤独こそが創作者のよき伴侶なんて、嘘っぱちだ。いつも誰かの意思に縛られつづけていた。仕事とは、そもそも、そういうものだった。自分のものではない声が、目が、腕が、自分の中に入り込み、私をがんじがらめにして、やつらの好き勝手に私を支配しようとするのだ。しかし、抗ってみても、それが楽なことに私は気づいてしまった。そうしなければならないではなくて、それしかできなかったのだ。すでに誰かがつくりあげたイメージの流用であったり、構成の借用であったりするのは、自分があくまで現実主義だからだった。すでに生まれたものに触発されなければ何も描けなかった。そんな自分に気づくのが遅かったことが情けなかった。
アニメや漫画は大人になっても手放せないぬいぐるみのようなものだった。
死に近い孤独や深い絶望の夜に、そっと自分に寄り添って、自分を抱きしめてくれるかけがえのない仲間なのだ。やつらは私にむりやり話しかけてはこない。あたりきに答えを求めはしない。なにせペラい二次元なのだから。しかし、二次元は所詮リアルではなかった。いまや、キャラクターは作家個人の想像力のなせる結露ではなくして、他人と他人をむすぶアイコンになりつつある。私は神に近い空想力を持つ表現者ではなかった。すでにある鋳型をただいくばくかアレンジして製造するという商売人にすぎなかったのだ。いつも同じ台詞、お約束のふるまい。私の愛おしい子どもたちはじょじょに死んでいった。それでも、ふしぎなことに、そのゾンビたちがなぜかバカ売れしてアニメにまでなった。
私はいつも締切りに追われ、描きたい内容もすべてはねつけられた。打合せの企画書は一時間ごとに書き替えられていた。三日三晩徹夜でしあげたネームが、オトナの事情とやらで、すべて没になったことさえあった。私が出した素案がお蔵入りしたと聞いたあとで、なぜか独立したばかりのもとアシスタント名義で、そっくりそのままな連載がはじまっていたことすらあった。しかも、それが漫画メディア大賞を受賞したりもした。いつのまにか睡眠時間が増え、冷蔵庫の中にはいつも酒瓶が転がっていた。
私の中の雨はいまだに止まなかった。私に太陽はほほ笑まない。
仕事がたてこんでくると、小雨だったものが、雷雨にも暴風雨にもなった。気持ちが荒れると、誰の言葉も、どこの外の音すらも耳に入らない。すでに中堅で売れっ子作家の私には、多少の暴言も許されたから。そんないびつな日々が増えて、編集といくども諍いが耐えない、新人のアシが逃げて原稿を落としたことさえあった。
音信不通になってから一週間のあの日、鳥の脚のように削ぎ落された私のからだは、ふらりと踏切の遮断機の前に立っていた。胃の中にあった大量の正露丸も眠剤も、私を地獄送りにしてはくれなかったのだ。
もし、あの日近くの公園から、あの甲高い歌声が聞こえてこなかったならば。
私はいま、ここに傘をさして存在していなかっただろう。あの甘えた声のお人好しな読者にサインをしてやることもなかっただろう。そして、私はふたたび、見つけたのだ。あの日、ずぶ濡れになりながら狂ったように声を涸らして熱唱していた、あの彼女を――。きっと彼女こそ、黒い太陽の向こうに隠れていた、めらついた強靭な光りの輪だったのだろう。私の生んだキャラが失っていた甘く輝くあの声を、その生意気あふれた少女はもっていたのだ。
【目次】神無月の巫女二次創作小説「ミス・レイン・レイン」