以前どこかのニュースサイトで読んだが。
某会社がオフィス内の椅子をすべてなくしたところ、従業員の生産性があがった、という記事があった。とんでもない話だと憤慨したものだ。おそらく、この会社の社長室の豪壮な椅子や、応接室のソファまでのけろと言われたら、そこの経営者は怒りだすだろう。なぜ、従業員には椅子がなくてもよいなどと思うのか。人を大切にできない会社だと知らしめているようなものだ。
断捨離生活のなかで、家具はたくさん毀してきた。
嫁入り道具の桐箪笥、サイドボード、ミシン台、エレクトーン、子どもの勉強机。
だが、私が絶対に捨てなかったものがある。
それは椅子だ。脚がとれたのならともかく、座れそうなら保管した。これは古い納屋を取り壊すときに、外に並べておいて、工事業者さんに休憩してもらうためだった。その後も、残った車庫には保管してる。
椅子というのは重宝なもので。
簡便な物置にもなれば、踏み台にもなる。我が家は天袋の収納が多いので、土台のしっかりした椅子はあっても困ることはない。エレクトーンは廃棄しても、椅子だけはきれいでテーブル代わりになる。
あちこちの部屋を片付けて、空いた部屋にかならず一体は椅子、もしくは座椅子を配置するようになった。
それと仮眠用の毛布や座布団なども。
こうすれば、経理作業で疲れたときに、ふらりと座ってリラックスできる。
私は数時間おきに休憩を挟むようにしているが、すべて場所を変えている。いつも同じ場所で座り込んでも疲れが抜けないからだ。
よほど疲れたときは、パソコンや書棚からかなり遠い、窓際の明るい場所へ座り込むことにしている。
布団のある場所へいくと、そのまま眠り込んでしまう恐れがあるが、座椅子ならば小一時間ほどの仮眠ですむからだ。
こうした、あちらこちらで移動して休むことを続けると、あまりカラダが疲れなくなった。
以前は会社から帰ったあとや、休日はもう現実逃避ばかりで、身の回りに本が散乱し手が付けられなかった。それが片付けることで、部屋が広くなって、あまり感情もささくれ立たなくなったのだ。同居人も片付けに乗り出してくれたので、家の中のごたごたが減った。
いちばん広くしたのは、トイレのなかだった。
以前はゴミ置き場にしていたが、ゴミ袋を置く場所を変えたので、トイレにはひと一人は入れるようなスペースが生まれた。だからたまに本を読んだり、スマホを触ったりしても、しんどくないし、採光がとれるので気持ちがよくなった。そのせいか、お腹をあまり壊すこともなく、また不衛生にもならなくなった。
歩き続けた先に、椅子がポツンとある。
ただそれだけで、たとえ腰を下ろさなくとも、自分の頑張りが許されている、休むことを認められている、という気がしてくるのである。ロダンの考える人よろしく、立ち止まって、空想にふけることができるような。
現住まいには折り畳み式の細めのパイプ椅子があるが、これもなかなか役立っている。たった五秒でもいい、座るだけ気分が和らぐのである。年をとると椅子のありがたさを、つくづく実感する。寝たきりにならないためにも椅子は必要だ。
イームズのデザインチェアのような、こじゃれた、座るのがもったいないような椅子でなくともいい。
ただ腰を落ち着けていいよいえるような台でも、コンテナでもいいのである。机が前にあればなにか作業をしなくてはと焦るが、椅子だけならば座るだけ、休むだけの作用なのだ。
ミュージアムにいくと、白い空間にポツンとひとつだけモニュメントがあり、あとは椅子だけがある、なんて展示空間がある。やはり動線が狭くてややこしいと、のんびり鑑賞できないからだ。実際の作品の重量は大したことないのに、遠くから離れて望まれることを願う作品には、向き合うものも不思議な畏敬を感じざるを得ない。とても贅沢なスペースの使い方なのだが、そこがいい。日本の和室に書院造やら床の間といった、一見不要な空白があるのも、暮らしの中に美を添えることを忘れない、心遣いなのだろう。
そうした気配りが、日常の生活空間の中にもあることが、暮らしにゆとりを生み、穏やかな日々を送る手立てになるのではないだろうか。
(2022/07/24)