「では、お先に失礼しまーす!」
「ごきげんよう。乃梨子ちゃん、また明日ねー」
ビスケット扉の前で、豪快に頭を下げるのは、いまどき珍しいミディアムボブの黒髪の少女・二条乃梨子。
彼女の元気のいい声はひときわよく響く。楚々としたお嬢さま然としたこの学園にあっては珍しいタイプだ。頭を下げた少女を部屋の内側から見送っていたのは、来月には三年生としてこの山百合会をひっぱることになる薔薇さま三役。そのうちの庶民派で下級生に絶大な人気を誇るという紅薔薇さまこと福沢祐巳は、親しみをこめて手を振った。
乃梨子は、最後にそのお隣のふわふわした巻き毛が美しい、我がお姉さまこと白薔薇さま・藤堂志摩子を一瞥した。志摩子さんは、優雅に微笑んでいるだけだった。
二年生の影もすがたもなくなると、書類を整えていた黄薔薇さまこと、島津由乃はたちまち、机に突っ伏した。まるで机上に顔が貼り付いたかのように。
「…ったくさー。新二年生のくせにさっさと帰っちゃうなんて、どういうことよお」
「んもう、由乃さんたら、そんなこと言わないの」
というか、車に轢かれたひきがえるみたく、そのだらけた姿を下級生に見せびらかすことからして、まず、一番に止めて欲しいんだけど。
福沢祐巳はつねづねそう願わざるを得ない。くりんと四半回転して、由乃が肘を付いたままこちらに視線を預けた。どうあっても、そのだらだらポーズを辞めるつもりはないらしい。
「祐巳さんだって甘いよお。瞳子ちゃん、きょうも無断欠席しちゃったじゃない?」
「う…それを言われると、厳しいものがあるけど」
正確にいうと、無断欠席ではない。
祐巳の妹である紅薔薇の蕾こと松平瞳子は、級友であり、おなじく並び立つ薔薇の蕾であるところの乃梨子に、参上できない旨を言付けていたのだ。しかし、祐巳はあえて声をかけて詮索したりはしない。そんなことをすれば、瞳子は逃げてしまういっぽうなのだ。生徒会選挙以来、立つ瀬のない瞳子をゴシップ好きの視線から守るために、紅薔薇さまとしても、姉としても、祐巳は瞳子を追いつめてしまうことはもはやできない。
紅薔薇の蕾だからといって、薔薇の館に縛り付けるようなことはしたくない。平凡さと親しみやすさだけが取り柄のこの姉と違って、あの子には神様がくれたかけがえのない才覚があるんだもの。それを自分の妹という枠に押し込めて、壊してしまいたくはない。きっと、彼女はまた彼女だけの世界に入り込んでいるのだ。妹という役割は、瞳子の豊かな仮面においての、ひとつでしかない。それでいい。
「祐巳さんはさぁ、いいわよねー。だって、卒業された祥子さまと小旅行に行かれるんでしょう?」
あー、そういうことか。
由乃さんはあのお姉さま(もうすでに「元」がつくけど)たる支倉令さまと過ごすはずの春休みの予定がキャンセルになって、すっかり臍(へそ)を曲げているのだ。実家からは遠い体育大学に進学なされるので下宿先を探されたり、また住所変更などもろもろの手続きでお忙しいのだろう。残り少ないふたりで過ごせるはずの時間を削ってまで、令さまが離れたがっているようにみえるので、由乃さんとしたらご不満なことこの上ないのだ。しかし、だからといって、余所の妹たちに当たらないでほしい。