精神医学者の木村敏さんによると正常(健常者)と異常(障害者)を区別する論理は
例えば身体的には指が片手に6本ある人は極めて少数派なので「多数者正常の原則」によって
異常と判断される論理だと述べています。
身体的機能の領域ではこの原則で構いませんが、知的・精神的領域、とくに
統合失調症・精神分裂病(この投稿の記述に於いては統合失調症を使わないで
木村敏氏・中井久夫氏の著作引用の表記に倣って分裂病と表記します)
に関してはこの「多数者正常原則」はそれ自体(多数の存在が有っても)では自明ではなく、
さらに別の基準が必要とされます。
(例えばナチスのユダヤ人に対するホロコーストの悪夢を想定して下さい)
他の規範なり基準が必要なのです。
例えば精神分裂病者・知的障害者・PDD者を異常と感じさせるものとは何か。
木村氏によると「常識の自明性の欠落」にあるそうです。
木村氏は「常識とは相互了解的に規範化された実践的感覚である」と定義します。
「人間が社会的生活を行おうとする時、お互いにいちいち考えなくても分かり合っているはずの
暗黙の前提」ということです。
「おはよう!」と挨拶されたら、「こんばんは」と答えずに「おはよう」と答えるとか、
銭湯に行ったら脱衣してお湯に入るとかのことです。
木村氏が分かりやすく挙げた実例が有ります。
ある分裂病患者は、危篤状態の自分の娘に棺おけをクリスマスプレゼントとして贈ったそうです。
精神分裂病者には「規範としての暗黙の前提」が欠落しているのが見て取れるでしょう。
木村氏の定義の中に、「相互了解的」と「実践的感覚」という語が含まれていますが、
常識とは認識の領域における規範ではなく、対人関係における行動感覚の規範であることは言う迄
も無いでしょう。
自分の部屋でどんなに孤独な妄想に浸っても常識が欠落していることにはなりません。
常識とは対人関係において幅広く共有された行動感覚のことであり、常識のない人間とは
行動感覚が世間的共有観念とズレている人だといえます。
精神異常の中でも、最も強力な破壊力を常識に及ぼすのは、精神分裂病だといわれています。
木村氏は、精神分裂病の病状を一言で言い表すとすれば、「常識の解体」だろうと述べています。
自分以外のみんなが当たり前に前提していることを「当たり前に感じることができない」ことに
苦しんでいるのが分裂病者なのです。
私たちが当たり前に感じる常識を支えている原理とは何でしょうか。
木村氏によれば、(以下の★から★までの記述は難解ですので読み飛ばして下さっても結構です。
分裂病者は自分が自分ではないような自己不全感を抱いて刻々と変化する世界に浮遊していると
感じている存在だと理解すれば読み飛ばし可能な部分ですから)
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
1個物の個別性の原理。
2 個物の同一性の原理。
3 世界の単一性の原理。
だそうです。
1は私は世界でただ一人であるはずであるという原理です。
2の個物の同一性の原理とは、私は昨日も今日も明日も生きている限り「同じ私」であるはず
であるという原理です。
3の世界の単一性の原理とは、私が存在する世界は単一なはずであるという原理です。
私たちは普段自覚していませんが、日常的常識の世界はこの3つの原理に基づいて成り立って
いるのです。
木村氏はこれらの3つの原理を1つの数式で表すならば、「1=1」になるといいます。
言い換えれば、「私はこの世界で常に私である」ということです。
この数式は、証明を必要としないという意味で、数学における公理みたいなものです。
では、日常的常識のこの公理は、どこに合理的根拠を持つのか。
もし「私はこの世界で常に私である」が合理的であるとすれば「私はこの世界で常に私でない」は
不合理だということになりますが、木村氏は「私はこの世界で常に私でない」が不合理である
のはそれが「私はこの世界で常に私である」の否定として考えられた場合のみであるといいます。
(つまり健常者の観点を絶対肯定してこの健常者の観点を合理的と決める訳です)
しかしこの見方自体が合理的な見方であると木村氏は指摘します。
「もしもここで、合理と非合理とはなんら反対概念ではない、したがってその一方が他方の否定
ではない、というようなそれ自体非合理な考えを持ち出したりするならば、
「合理」の概念そのものが根本的に成立しなくなり、したがってまた、それの反対語としての
「非合理」の概念も根底から崩れることになる。
精神分裂病者の存在がそれを証明しています。
精神分裂病者は、1個物の個別性の原理、2個物の同一性の原理、3世界の単一性の原理が
欠落していながら、でも存在しているのですから。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
では、なぜ健常者に取って(強迫観念として)「私はこの世界で常に私である」を無謬の合理性
として信じるように命令されているのでしょうか。
木村氏は、「そうじゃないと生活が上手くいかないからだ」と看破します。
「真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができないかもしれないような種類の
誤謬である。
生にとっての価値が結局は決定的である(ニーチェ権力への意志より」)
つまり「常識」を合理的として社会の基準とし反対に分裂病者を「非合理」として排除しないと、
私たちの社会生活が効率的に成立しないからだということです。
しかし木村氏が主張するように、「この論理は私たちの生存への意志の論理であっても、
生命そのものの論理ではないことに注意しなければならない」ことは重要です。
つまり、常識的感覚は「合理的」だから合理的なのではなく、そうじゃないと社会生活は
上手くいかないから「合理的」だということにしているだけの強迫観念です。
そして精神分裂病者の存在は、日常的常識の無根拠性を想起させるからこそ、私たちは
不安を感じ、彼らを排除するのだと木村氏は指摘します。
中世までの社会はそれでも精神異常者に社会的位置を与えてきました
(シャーマン、魔女、占星術師、占い師)。
しかし中世末期から近代にかけて魔女狩り等々異質者を監禁し排除するする方向に進んできた
ことは、木村氏のみならずフーコーなどによっても指摘されてきた周知の事実です。
(特に北アメリカの魔女狩りは近・現代社会の狂気の集団心理[身近な例では学校内の苛め]
に通底していると私は思います)
2010年11月13日
例えば身体的には指が片手に6本ある人は極めて少数派なので「多数者正常の原則」によって
異常と判断される論理だと述べています。
身体的機能の領域ではこの原則で構いませんが、知的・精神的領域、とくに
統合失調症・精神分裂病(この投稿の記述に於いては統合失調症を使わないで
木村敏氏・中井久夫氏の著作引用の表記に倣って分裂病と表記します)
に関してはこの「多数者正常原則」はそれ自体(多数の存在が有っても)では自明ではなく、
さらに別の基準が必要とされます。
(例えばナチスのユダヤ人に対するホロコーストの悪夢を想定して下さい)
他の規範なり基準が必要なのです。
例えば精神分裂病者・知的障害者・PDD者を異常と感じさせるものとは何か。
木村氏によると「常識の自明性の欠落」にあるそうです。
木村氏は「常識とは相互了解的に規範化された実践的感覚である」と定義します。
「人間が社会的生活を行おうとする時、お互いにいちいち考えなくても分かり合っているはずの
暗黙の前提」ということです。
「おはよう!」と挨拶されたら、「こんばんは」と答えずに「おはよう」と答えるとか、
銭湯に行ったら脱衣してお湯に入るとかのことです。
木村氏が分かりやすく挙げた実例が有ります。
ある分裂病患者は、危篤状態の自分の娘に棺おけをクリスマスプレゼントとして贈ったそうです。
精神分裂病者には「規範としての暗黙の前提」が欠落しているのが見て取れるでしょう。
木村氏の定義の中に、「相互了解的」と「実践的感覚」という語が含まれていますが、
常識とは認識の領域における規範ではなく、対人関係における行動感覚の規範であることは言う迄
も無いでしょう。
自分の部屋でどんなに孤独な妄想に浸っても常識が欠落していることにはなりません。
常識とは対人関係において幅広く共有された行動感覚のことであり、常識のない人間とは
行動感覚が世間的共有観念とズレている人だといえます。
精神異常の中でも、最も強力な破壊力を常識に及ぼすのは、精神分裂病だといわれています。
木村氏は、精神分裂病の病状を一言で言い表すとすれば、「常識の解体」だろうと述べています。
自分以外のみんなが当たり前に前提していることを「当たり前に感じることができない」ことに
苦しんでいるのが分裂病者なのです。
私たちが当たり前に感じる常識を支えている原理とは何でしょうか。
木村氏によれば、(以下の★から★までの記述は難解ですので読み飛ばして下さっても結構です。
分裂病者は自分が自分ではないような自己不全感を抱いて刻々と変化する世界に浮遊していると
感じている存在だと理解すれば読み飛ばし可能な部分ですから)
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
1個物の個別性の原理。
2 個物の同一性の原理。
3 世界の単一性の原理。
だそうです。
1は私は世界でただ一人であるはずであるという原理です。
2の個物の同一性の原理とは、私は昨日も今日も明日も生きている限り「同じ私」であるはず
であるという原理です。
3の世界の単一性の原理とは、私が存在する世界は単一なはずであるという原理です。
私たちは普段自覚していませんが、日常的常識の世界はこの3つの原理に基づいて成り立って
いるのです。
木村氏はこれらの3つの原理を1つの数式で表すならば、「1=1」になるといいます。
言い換えれば、「私はこの世界で常に私である」ということです。
この数式は、証明を必要としないという意味で、数学における公理みたいなものです。
では、日常的常識のこの公理は、どこに合理的根拠を持つのか。
もし「私はこの世界で常に私である」が合理的であるとすれば「私はこの世界で常に私でない」は
不合理だということになりますが、木村氏は「私はこの世界で常に私でない」が不合理である
のはそれが「私はこの世界で常に私である」の否定として考えられた場合のみであるといいます。
(つまり健常者の観点を絶対肯定してこの健常者の観点を合理的と決める訳です)
しかしこの見方自体が合理的な見方であると木村氏は指摘します。
「もしもここで、合理と非合理とはなんら反対概念ではない、したがってその一方が他方の否定
ではない、というようなそれ自体非合理な考えを持ち出したりするならば、
「合理」の概念そのものが根本的に成立しなくなり、したがってまた、それの反対語としての
「非合理」の概念も根底から崩れることになる。
精神分裂病者の存在がそれを証明しています。
精神分裂病者は、1個物の個別性の原理、2個物の同一性の原理、3世界の単一性の原理が
欠落していながら、でも存在しているのですから。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
では、なぜ健常者に取って(強迫観念として)「私はこの世界で常に私である」を無謬の合理性
として信じるように命令されているのでしょうか。
木村氏は、「そうじゃないと生活が上手くいかないからだ」と看破します。
「真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができないかもしれないような種類の
誤謬である。
生にとっての価値が結局は決定的である(ニーチェ権力への意志より」)
つまり「常識」を合理的として社会の基準とし反対に分裂病者を「非合理」として排除しないと、
私たちの社会生活が効率的に成立しないからだということです。
しかし木村氏が主張するように、「この論理は私たちの生存への意志の論理であっても、
生命そのものの論理ではないことに注意しなければならない」ことは重要です。
つまり、常識的感覚は「合理的」だから合理的なのではなく、そうじゃないと社会生活は
上手くいかないから「合理的」だということにしているだけの強迫観念です。
そして精神分裂病者の存在は、日常的常識の無根拠性を想起させるからこそ、私たちは
不安を感じ、彼らを排除するのだと木村氏は指摘します。
中世までの社会はそれでも精神異常者に社会的位置を与えてきました
(シャーマン、魔女、占星術師、占い師)。
しかし中世末期から近代にかけて魔女狩り等々異質者を監禁し排除するする方向に進んできた
ことは、木村氏のみならずフーコーなどによっても指摘されてきた周知の事実です。
(特に北アメリカの魔女狩りは近・現代社会の狂気の集団心理[身近な例では学校内の苛め]
に通底していると私は思います)
2010年11月13日
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