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『書評・発達障害者当事者研究1』ではあまりメインの著者綾屋さんについて書きませんでしたが、綾屋さんの場合、
プールサイドが歩けない、温度感覚が分からないので、親に体感する寒暖の情報を聞いて、初めてその日着るべきの服の判断
がつく。
空腹かどうかの感覚も判らないし、情報が過剰な食堂、ファミレスのメニューの前で何をオーダーするかの判断で困惑してフ
リーズする。
発声・発語障害である場面では言葉が咄嗟に出て来ない。フラッシュバックに見舞われる。常に既視感デジャビュを伴う夢侵
入に襲われる。
他人の行動パターンに影響され易く、自己の中に他人が侵入する恐怖感に襲われる。
モノに対する知識・情報量が他人よりも優れて多い女性なのでモノの与える情報=フォーダンスの過剰飽和状態に思考能力が
音を上げる。
そして、自己嫌悪と自己不全感に苛まれ身体が悲鳴をあげて寝込んでしまう。
自尊心・プライドはズタズタに切り刻まれてしまう。感性が鈍い人には有り得ない存在構造ですが、彼女自身の内部感覚で
は、情報の整理・すり合わせに時間がかかると意識されます。
(私は情報・アフォーダンスの取捨選択に迷うのは豊か過ぎる感度の持ち主で有るからこそ、一つ一つの意味の検証をする時
間選択に迫られる一種の圧迫感に自己を曝すからだと思うのですが‥)
本当に羨ましい程の溢れる感性です。
彼女の身体は感覚の感度が良すぎるためにアフォーダンスの過飽和・整理不全で障害に成っているです。
障害と書きましたが、場面、場合に拠っては飛び抜けた才能です。
外部情報に対する感受性が鋭すぎるので情報整理能力の限度を超してしまうのです。
ある意味捨てる、忘れる、放置することが出来ない才能の溢れた身体性の持ち主です。
感度が良すぎて日常生活に適応出来ない訳です。
このことに関連して以前にあるブログのコメントに書いた私の記述を紹介します。
健常・普通で有ると言う事は、適度に鈍い能力を維持することなのです。視力・聴力が100倍優れていてウィルス、細菌まで見えたり、周囲の音の微細なものまで全てを聞き取れる能力は精神的に異状をきたすのです。例えば、ある状況(サバンナの狩猟生活)での耐性を比較すれば現代人は耐性が無いのです。この環境では行動が出来ない無能力者の烙印が捺されます。視力6.0以上の人間が耐性があるわけです。逆に私達の社会では視力10.0以上の驚異的な視力の持ち主はは生活上障害者になるのです。恐らく生活上破綻をきたしたり、精神に異状をきたすでしょう。障害とはある種の能力の極端な発現の場合も有るのです。絶対音感は乳児期には誰にでもありますが、生活の快適さを優先するから多数は排除します。排除するとは大抵はその様な能力を喪うということです。2,3歳児の訓練で絶対音感を獲得するのではなくて維持して繋ぎ止め身体感覚に定着させるのです。音楽家の家系に絶対音感者が多いのはDNAがそうさせるのではなく環境がそうさせているのです。偶々、音楽的才能が尊重される社会の場合には価値ですが‥幼児期、少年期に絶対音感を無能力化するプログラムが健常者にある以上絶対音感は障害なのです。天才・重度障害は同じものなのだと私は考えています。才能は場合に拠っては障害と扱われ、その逆も有り得る訳です。全ては健常とされる側の行動規範の都合・多数者の行動様式の習慣の問題で決定されるのです。絶対音感は文化的な多数者の価値観で、ある場合には才能、ある場合では行動に影響してマイナスに評価されれば障害にだって扱われます。才能はその人の置かれた状況で心楽しい輝きにも、辛く悲しい苦悩の素になることもあるのです。心の裕さ、人間性の明るさがその2つの扉のどちらかを開ける鍵なのは言うまでも有りません。
綾屋さんの感受性が群を抜いて横溢し過ぎて、鈍さの基準を求められる凡庸な出来合いの行動規範・行動のまとめあげパター
ンの枠では通用出来ないわけです。
目の前のハエを、手で追い払わずに、最新鋭のセンサー搭載の機器で感受して取り除くようなものです。
このような場合には通常は手か、雑誌などで取り敢えず対応する訳です。
綾屋さんが自分が何者であるのかを探り当てて、行動の規範である、「行動のまとめあげパターン」の選択肢に
『手か、道具か』状況の確認と書き加えると解決するように思われます。
長年の数学学習指導の立場で敢えて、提案させて頂かせると数学の計算で、計算は計算機で必ずすると言う<します性>を
導入すると、計算機を使えない状況では必ずフリーズしてしまいます。
綾屋さんの言う<せねば性>は角度を変えて見れば行動の破綻の現われですし、<したい性>は下手をすると拘りの現れに
繋がりますので、<して措く性>をお勧めします。この場合には取り敢えず下位の概念価値のものに合わせます。
要するに計算機は使わずに指、手の計算にして措くのです。
いい加減に手を抜く、赤塚不二夫流の『これで良いのだ!』とフザケル綾屋さんはの姿は素敵だと信じます。
綾屋さん貴女は裕さの宝庫なのですから。
学校の大縄跳びの環の中で行動がフリーズして、戸惑い孤独感に悩む。普通の行動規範を知識としては分かっても、
咄嗟に動けない訳です。
この場合には他者の眼差しの意味を自分なりに考えて迷い、戸惑い判断に苦悩し「他者の思惑が自我を侵食してくると
感じる」自己不全感に怯えるのです。
集団の符牒の意味と、集団行動の謂れと、歴史と、それに対する普通の子供の対応の仕方と彼女が周囲から孤立して奇異な
目で見られない方策をきっちりと説明して、環の中に加わるか、わが道を行くのか、納得させながら道連れをする支援者が
周りに必要なのです。
IQでは計れない、見落としてしまう、零れてしまう子供達がいます。
私の長女の紘葉(ひろよ)の場合にはこんな感じで付き合って来ました。
いろいろ悩む場合には行動の意味づけを私と話したりしています。
フリーズしたり、孤独感に苛まれることは学校生活の中では日常でしたが就職してからの現在の方が寧ろ減ってきているか、
克服して来ています。
一つ一つの作業の中で本人の身体の形が見えてきて個々の身体感覚の構造を見据えて周囲が支援して行くことが如何に大切か
が学校空間の中では集団主義の建前上無視されます。
綾屋さん・熊谷さんの障害を意識して生きる意味の掘り下げがやがて学校教育・地域・職場の中に生かされて障害児・者をイ
ンクルードする環境の構築に繋がることを念じて私も幾分は係わっていきたいと思います。
発達障害児・者を含めた障害者を支援して、理解するためには、自らが健常・障害に係わらず自分自身の身体とモノを含めた
他の存在との繋がりを構造的に解析してまとめ上げる間身体性を共有することが求められているのです。
2008年10月26日
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