発達障害当事者研究と言う本は示唆に満ちている著作だと思う。最後の7章がとても意味深いので、私が
縷々述べる前に、示唆に富んだ原文を紹介します。発達障害の綾屋紗月さんと一緒にゆっくりとていねい
にお互いの行動規範の構造のすりあわせをしてきた共著者の脳性マヒの小児科医熊谷晋一郎氏の文です。
発達障害の構造を解明する時に、精神科医、心理関係、療育専門家の視点とは別の障害者自身の身体性の
掘り下げが必要だと私は思っていたので大いに我が意を得たりの感慨で抜粋させて戴きます。
私の身体や、私の歴史が刻まれている、これらの「行動のまとめあげパターン」を綾屋さんが取り込
む姿を見ていると、まるで自分が綾屋さんに乗り移ったかのような不思議な印象を受ける。
‥‥‥省略‥‥。
多くの人がうっかり取り込んでいる「意味・行動のまとめ上げパターン」を、私たちのような少数派は、
様々な理由で取り込めない。そのかわり手探りで、独自なパターンを、ゆっくりていねいにまとめあげ
ることになる。また多くの人はできあいの同じパターンを取り込むことで、互いにつながっている感覚を
得ることができるが、少数派にはそれもかなわない。そのかわり手探りで、互いに共有できる意味
や行動のパターンを、ゆっくりていねいにまとめあげることになる。(208頁)
そして、著者2人が辿り着いた優れた障害観を注記の形で述べています。
あらゆる生物は周辺の環境に対して不断に改変を加えている。その改変のパターンを決めているは、各々の
生物の身体的特徴だ。すなわち生物は、身体と環境のすりあわせのために、みずからの身体を環境に合わせて
変化させていくだけでだけではなく、逆に周囲の環境をみずからの身体に合うように改変しつづけているのである。
そのようにしてつくられる、身体とすりあわされた局所環境のことをニッチ(『棲家』の意)という。
こうしてつくられたニッチは、再び身体に影響を与えるので、身体と周囲の環境は相互に影響を与えながら
共進化している。こうして生物は遺伝子だけではなく、ニッチを次世代に継承している。
ビーバーにとってのダムや、蜘蛛にとっての蜘蛛の巣が、そのようなニッチの例である。
私にとっての八畳のアパートと何が違うだろうか?(209頁脚注)
障害を意識して生きる事は、自分自身の身体がモノを含めた他の存在とどのような繋がりを持っているか
を極て構造的に解析してまとめ上げる事だと思います。
多くの人々は歩行する事は理屈抜きで当たり前の事だと感じています。
会話する事。共感する事。字を読み書きする事も教育・訓練で可能だと思い込んでいます。
人間だから当たり前。しかし、私には『人間だから当たり前』と言う考えは傲慢な極論だと思えるので
す。生まれた時に仮死状態だった熊谷晋一郎氏には脳性マヒのために歩行は当たり前な事ではなくて、そ
れゆえに様々な障害が二次的に派生してしまいました。
身体の構造が違うために行動の基準・規範が他人と異なり、コミュニケーションに苦闘して、他人と繋が
り、共感する事の困難を抱えて生きて来ました。入試に挑戦して東大医学部に入れたから知的な障害が無
いと言うのが一般的な通念です。
しかし、この本を読めば、知的には遅れていないと通常は判断される熊谷さんのような身体障害の人には
健常な幼児ならば分かり切っていて自明だと考えている事さえも分からない発達段階も有ったことが理解
出来るでしょう。
いや、現在だってそんな、困難を感じることもある筈です。
行動療法的リハビリで地べたに這い回る不自由さで身体を縛られていた時代と電動式車椅子と言うも
う1つの新たな身体を得てからの、自由にモノと対話が可能になってからの彼とは生きる構造が違って来
ました。
発達障害とは運動障害であり、また生活文化の認識障害だと私は感じて来ました。熊谷さんは自閉症スペ
クトルの人間ではなくて脳性マヒと言う障害ですが同じような構造的な原因で行動が阻害されて終う障害
でアスペルガー障害のもう1人の著者綾屋紗月さんとゆっくりと丁寧に障害観をまとめ上げる共同作業を
通じて繋がりを育て上げて来ました。
健常者が出来合いの健常者が自明だと納得している行動原理パターンを熊谷さんは『多くの人がうっかり
取り込んでいる』常識的な行動のまとめあげパターンだと揶揄しているのが爽快でした。
吉本隆明が言う『共同幻想』を持ち難いのが少数派の障害者なのです。ハウツー物に書かれたやり易
さは健常者にはやり易さを与えますが、逆に本のやり方を真に受けた障害者を更なるやり難さに追い込
み、自己の存在の疑念への導きと繋がり、ますます困難を抱えこませます。熊谷さんは「動作訓練」と言
う、心理学的なアプローチ、行動療法の流れを汲む身体のリハビリを受けて何度も何度も叱咤激励されて
違和感を感じていました。行動を反復練習・訓練によって普通の動作に近づけるという地べたを這いずり
回る苦闘が求められて10年以上も無駄に費やしました。しかし、リハビリをやめて電動式車椅子の導入
によって、彼は自分の身体感覚を持ったのです。地面の与えるアフォーダンスが違ってきました。周りの
モノのアフォーダンスが拡がったのでした。地面は『スイスイ進んで』と語りかけ、自販機は「買ってみ
たら」と、本棚の本は「読んで見る?」と誘うようになったと言うのです。遠くにある広場・公園までも
が手招きしてくれるようだったと熊谷さんは書いています。モノと対話するという感覚は障害者の心の窓
を開くのです。丁度、ヘレンケラーが水の冷たい感触に何かを感じて、W・A・T・E・Rという言葉と
モノの結びつきを覚え、世界の意味を見出し、周囲の世界の花・風・木々等など存在するものの輝きに目
覚めたような発見だと思います。健常者の思惑に従って「健常な感覚」に近づきそれを受け入れさせる事
は、健常な専門家の自己満足と専門家の矜持を保たせるために障害者を不幸で不自由な環境に閉じ込める
事なのです。空を翔べる鳥が陸上の歩行が下手であるからリハビリさせて飛翔能力を奪ってしまっても果
たして鳥は幸せなのでしょうか?
31歳の熊谷さんはトイレの仕方で人生の殆ど30年近く苦闘して来ました。車椅子を電動式にしてかな
りの自立した行動を獲得しても、入浴に介助・支援は不可欠ですし、便意と折り合いを保ちながら、自宅
の八畳の部屋でスムーズに動けなければ自立は出来ないのです。モノが与える情報をアフォーダンスと言
います。例えば、健常な人たちにとっては階段は上に歩くと言う情報、アフォーダンスを発して来ます
が、車椅子の熊谷さんにはその様なアフォーダンスが階段から発されないのです。部屋の構造を彼の電動
式車椅子と一体の彼の身体に合わせる迄モノを含めたあらゆる存在の構造を解析してまとめあげて行動の
パターンに取り込む独自な作業が障害者には必要なのです。健常者の行動のまとめあげパターンは大量生
産の既製品に例えられますが障害者の行動のまとめあげパターンは個々の身体状況で違っています。だか
ら、オーダーメイドの特注品になりますが、世の中の価値観は逆で健常者に手間隙掛けた育て方をしてし
まいます。多様な生き方が障害者の特徴です。1つ1つが宝物の存在です。この『発達障害当事者研究』
のメインな著者、34歳2児の母親で2年前にアスペルガー症候群の診断が下った綾屋さんは大学卒業の
学歴ですから、通常、知的な障害が無いと思われますが、知能検査に絶対に反映され無い障害を抱えて生
きて来ました。2、3歳のレベルに達していない障害を抱えて来ました。プールサイドは行動がフリーズ
して歩けない、近づけない。学食、ファミレスでもメニューを前にして何十分もフリーズする。子供のこ
ろから今日が暑い日なのか判断出来ないのです。当日着る衣服の選択が困難なのです。知能検査を作成す
る時にこのような感覚項目をフォーカスしてテストを作り直すと彼女のIQは確実に低くなります。場面場
面で健常な人が咄嗟に取れる行動が取れないし、行動の意味が分からずにフリーズしては自己嫌悪の繰り
返しの人生でした。巧みな文章を書ける女性ですから、知識として25℃の日は夏日と呼ばれ、30℃は
真夏日だと言う知識は持っているはずです。
日本の最高気温は熊谷市と多治見市で去年記録されたという知識情報などは人並み以上に豊富な女性だと
思います。
しかし、体感で30℃位と判断する場合には真夏日の知識は役に立たないののです。
寧ろそのような知識が彼女を不自由に縛ります。
自己嫌悪・自信喪失の負のスパイラルに陥ります。
『私はどこか変わった、ダメな人間だ』
25℃と30℃の区別が身体でつかないのです。
また彼女はお腹が減ると言う身体感覚が分からないのです。
熊谷さんも便意の感覚が障害されていました。
このような、自閉症、脳性マヒの障害を持つ二人が自分達の身体とモノのアフォーダンス、モノとの対
話、間身体性(モーリス・メルロ=ポンティの提唱による)を考えながら障害の構造を解明・説明したの
がこの『発達障害当事者研究』です。
間身体性と言う、フッサールからメルロ=ポンティに受け継がれた難しい現象学用語を理解するためにあ
る、エピソードを記します。(関心の有る方はメルロ=ポンティの『知覚の現象学』<1982 法政大学出
版局>をお読み下さい。)
発達障害の綾屋さんには簡単に分かる音楽のリズムが脳性マヒの熊谷さんには身体感覚で理解出来ないの
です。綾屋さんは二人羽織り宜しく、彼の後ろに廻り、音楽に合わせてリズム感覚を伝えたら感動が共有
出来たそうです。この本は綾屋・熊谷の2人の二人羽織りによる知的探求の結晶だと私は思います。
このように発達障害を身体感覚の観点で見れば身体感覚の不全が惹き起こす困難が発達障害の構造を照ら
していると思われます。
この『発達障害当事者研究』は今までの発達障害専門家の感じた障害観と専門家が考えるリハビリ観に声
高な口調ではないのですが、自分たちの身体の在り方をゆつくりしかもていねいに検証して他のモノとの
間のアフォーダンスで身体がどの様に反応しいてどの様な状況を招来するかを述べることで障害を抱える
者が思考・指向する自分たちの身体に合わせた共有環境の自己構築に向けての問題提起なのです。
障害を持つ側の感性と思考が生み出した「身体性と障害」と言う根本的な視点を提示することで此れまで
の専門家主導の発達障害観に異議を唱え、新たな視座の構築への問題提起の論考なのです。
この本の出版が障害観の根本を見直す契機になる事を期待して書評に致します。
2008年10月26日
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