男は生きていることに意味など無いと考えていた。
それは今まで生きてきて経験したことと、様々な知識を深く探求してきた結果の答えだった。
人間は、いやあらゆる生命はただ生まれて死ぬ。生命だけではなく、目の前に展開される出来事はただ生じて消える。いや、それさへも無く。すべては何も起こっておらず、何も無い。
それは地球だけではなく、この人間が観ている。私が観ている世界の全ては意味も無く、存在もしていない。
私はいない。
そう考えていた。
もしも意味があると思いたいならば、それは意味があるという陳腐な人間機能が創り出した意味のない意味である。
あなたは何を基準に意味を創り出しているのかを考えてみたことがあるだろいうか。そこに意味を見出す基準があるだろうか。
神の基準があなたの基準だろうか。
神は善悪や意味を人間に与えて教えただろうか。
神や自然は善も悪も無く、ただ全体であるに過ぎない。全体には全部があり、全部が無い。在るには無いものがなければ在るのがわからないし、無いものを見出すには在るものがないと見いだせない。
従って、全部あると全部無いは同じ言葉となる。絶対有は絶対無であり、絶対無は絶対有である。
もしも生きることに意味があったとしたら大変だ。生きる意味に人生の全てを拘束される。そんなのは大変だ。男は生きている意味が無いから、自由に生きていけるのだと考えていた。
意味が無いから、自由があるのだ。苦しいことも悲しいことも、何の意味も無い。だから何も悩むことなど無い。そうして好きなように生きていける。
男は在る夜に自家用車で高速道路を南に走った。夜の高速道路にはライトをつけた車が赤いテールランプを流しながら数台目の前を走っていた。
高速道路を照らす街灯が道路に沿って並んでいた。
運転席から見える道路の先には、満月の金色のスーパームーンが、ひと際大きく輝いていた。
金色の月の周囲にはうっすらと雲がたなびき、すこし分厚い雲の部分は黒く影になって、夜の暗闇と高速道路の街灯と車のテールランプで、今まで見たことの無い幻想的な景色が広がっていた。
思わず息を呑み、呼吸が一瞬止まったような気がした。
この世のものとは思えないほどの美しい月だった。
写真を撮りたいと思ったがハンドルを握る手と、アクセルを踏む足を感じて、男は写真は無理だなと諦めた。
頭の中と身体中に詩と歌が車のスピードに合わせて流れ始めた。
目的地に着くころに男はある悟りを得た。
生きている意味だ。男は初めて生きることの意味がわかった。
男はこの世界に生きている意味を見出した。それは人間はこの世界の美しいものを観るために、見出すために、発見する為に生きているのだ。
そしてその美しいものは、ダイヤモンドでもルビーでもない、高級な車でも無く、一般的に美しいと言われるようなものでもない。
それはとても個人的なものだ。どんなに汚い世界ににでも、それはとても小さくても、誰にも理解されなくても、必ず見出すことができる。
それは戦争のような悲惨な状況においても、観ようとすれば必ず美しいものは見つかるだろう。
あなたが銃を持ち殺し合いをしている最中にでも、目の前に花が咲いている。青空は見えるだろう。
フランクルがナチスの収容所で笑うことが出来たように。
その話をある人にしたところ、その人はこう言った。
苦しくて目の前が真っ暗な時は、夜空の星にも気づかず、晴天の青空にも、足元に咲く花にも気がつきませんと。
男は言った。いや、必ず美しいものはどんなところにもある。
それを見出せないのは、生きている意味を知らないからだ。
生きている意味は、生きている間に、どんな時でも美しいものを見出せると理解していることだ。
あなたは私の話を聞いて、生きている意味を知った。だからこれからはどんな暗闇でもあなたは光を見出すことが出来るだろう。
男は自宅に戻り、頭と身体の中に流れていた詩とメロディーを紙に書き出し、そして歌った。
金色の月
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます