今日から3回にわたって、黄長氏単独インタビューの内容をお伝えする。黄氏が語る内容を知れば知るほど、亡命先の韓国でなぜ彼が長期軟禁生活を余儀なくされてきたのかがよくわかる。それはあまりにも「過激」な主張だからでもある。
インタビューは1時間に及んだ。流暢な、というよりも、日本語の原風景ともいえる正しい日本語を使いながら、丁寧に話す口調に、側近として仕えていた元労働党総書記の確固たる信念というものを感じざるを得なかった。
連載ドキュメント、『黄長はかく語りき』の核心部分をなす単独インタビューの(上)です。
□単独インタビューへ
背をピッと伸ばした黄長氏が部屋に入って来た。
小柄な体躯ではあるが、無駄な雰囲気というものが全くなかった。亡命からすでに6年。いかなる日々を過ごしてきたのかがその容姿から窺われた。
私が訪ねた場所はソウル市江南区に建つビルの1室だった。警護の体制は相変わらずだったが、公式のインタビューだ、ということが周知されていたせいか、金属探知器による身体への検査などは型どおりのもので終わった。
ソファーに座った黄長氏はいつものように補聴器を耳に挟んだ。そしてこんな話から始まった。
「私のすべての生活の目的は独裁体制において、非人間的に苦しんでいる北朝鮮の同胞を救うということ以外になにもないです。そのために家族もすべて投げ捨てました。そういうふうな運命にある家族は、私の家族だけではないのです」
正確な日本語が部屋に響いた。
黄長氏の履歴をあらためて眺めてみると、1941年12月から45年8月の解放(注⑫)まで東京の中央大学に留学している。このときに学んだ日本語なのだろうか。
黄長氏は続けた。
「私の座右の銘は、個人の命よりは家族の生命が尊いと、家族の生命よりは民族の生命が尊いと、いち民族の生命よりは人類の生命が尊いというのが、私の座右の銘です」
人類の生命のために個人の命を投げ打つ覚悟を決めた、と黄長氏が語る言葉には、古風な日本語であると共に無駄というものがなかった。
私は早速インタビューに入った。
なんといっても北朝鮮といえば、日本人にとっては拉致問題がなによりも優先される問題だった。だからまずこの問題を黄長氏自身がどう捉えているのかを聞いてみた。
「それは日本人の課題であって、私があれこれいう問題ではないと思います。ただ私の希望といいますか、それを申し上げたら、拉致問題は直接日本国民が皮膚で感じている痛い経験ですね。それを通じて北朝鮮がいかに最悪の政権か、これに対してつくづく考える必要があると思います。つまり、韓国にしても日本にしても、最も重要なものはなにか、最も貴重なものはなにか、韓国を例にとれば、韓国と北朝鮮の天地の差異がどこからきたか、それは一方は独裁であり、もう一方は民主主義だと、私はいいたいのです」
つまり独裁なのか民主主義なのかという問題をしっかりと考えないと拉致事件の背景は理解できない、というのが黄長氏の主張だった。独裁とは、いうまでもなく現在の金正日体制を指している。
しかもこの独裁体制を敷いている金正日政権は、日本人拉致という過去に起きた事件だけではなく、いまも現に日本を脅かす政策を採用しているではないか、と指摘した。
「日本の、太平洋戦争以前を考えてみなさい。そのときといまでは天地の差異だと、それはなんのお陰かと、民主主義のお陰だと、だから民主主義の価値に対して十分考えなければならないと。では民主主義を脅かすそのもとは、源泉はどこにあるか。それは北朝鮮の独裁体制です。だから北朝鮮の独裁体制を崩すことなしに、拉致問題を根本的に解決することができますか?さらにいま拉致問題以上に大きな危険を、脅威を与えているのが北朝鮮側でしょう。ミサイル、核爆弾、それはみな日本人を人質として考えている。だからそういう意味で、単に拉致事件の犯人だとばかり考えることではなくて、日本国民の運命に対して大きな脅威を与えているのが、まさに金正日独裁政権だという考えを確固として日本国民が持たなければならないと思うんです」
それにしても金正日総書記はなぜ日朝会談で日本人拉致を認めたのか、という私の質問を黄長氏は、そういう細かい問題は止めましょう、と遮った。そして金正日という人物はそういうふうな権謀術数家で、いつも1万ほどの企みを持っている。だからそんな細かいことを話す必要はない、たびたび書いた私の本を参考にしなさい、と一蹴した。(以下第12回に続く)
(注⑫)解放・・・1945年8月15日、日本の敗戦によって植民地支配を脱した韓国ではこの日を解放記念日としている。正確には光復節。
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