Re-Set by yoshioka ko

■「黄長はかく語りき」 第十回

 南北の朝鮮問題に関して、北が南を見る目と、南が北を見る目の「温度差」というものを書いている。今日もその続き。『黄長はかく語りき』連載の10回目です。

□〈計算された演出〉
 相変わらずPC画面上では、喜柱先生一行が平壌で撮影した南北教師たちが集った交流会の映像が流れていた。歓迎攻めにあっている画面からは、58年間閉ざされたままの壁がようやく開かれた喜びがいっぱいに広がってはいたが、私にはなにかしら〈計算された演出〉に乗せられたご一行様、といった感じの方が強かった。
 〈計算された演出〉と形容するには意味がある。
 日本でもそうだったが、電撃的な日朝首脳会談の場で日本人拉致の事実が明らかにされてからというもの、北朝鮮に対する批判、非難は苛烈を極めた。なんといっても北朝鮮の最高権力者が非を認めたのだ。国家犯罪だったことを認めたのだ。
 それは私にとっても衝撃的な事態だった。

 思い起こしてみると、1967年、朴正熙政権下の韓国を初めて訪ねたときから80年5月、全斗煥将軍による光州事件の報道内容が問題視され、〈要視察人物=危険人物〉と目されて入国禁止措置が執られるまでの10年余り、私は独裁政権下に呻吟する人々の声や表情を追いかけた。
 
 当時、韓国中央情報部(KCIA)はメディアに対して厳しい監視の目を光らせていたが、一方北朝鮮はそのメディアが独裁政治の実態を暴けば暴くほど、書かれた記事を下敷きに自由も希望もない、とか、アメリカ帝国主義にあえぐ南朝鮮労働者とか、貧しさに飢える人々・・・・などと報じ、翻ってわが国は偉大なる首領様のご指導の下、といった宣伝に大いに利用した。
 
 相対立する両当事国にあって、このような宣伝合戦は当たり前のことではあったが、ただひとつ私の胸のなかには、絡みついたままほどけない繊維の塊のようなものが常にあった。それは、北朝鮮の実の姿だった。
 
 前述したように、独裁政権下の韓国もメディア規制には厳しいものがあった。だが、入国さえしてしまえば人々の暮らしの実相から、経済の状態や政治、文化などの状況を推し量ることができた。が、北朝鮮から届く情報はどんなに読み解いても、そこから社会で暮らす人々の実の姿が掴めないことだった。
 
 つまり真実は金日成・金正日父子の側近だった黄長氏が亡命し、彼が著した書物によって初めて、霞に覆われていた像に輪郭が与えられ、最後は金正日総書記自らが日本人拉致の事実を認め、工作船活動を認めたことで実像を結んだ。ようやく〈生〉の北朝鮮が登場したのだ。
 
 私の胸に絡みついて離れなかった繊維の塊はその瞬間にほどけた。
 だからこそ南北教師交流会に参加した喜柱先生が語る北朝鮮印象記には、どこか乗せられてしまった人の純真さというものを感じてしまうのだった。(以下第11回に続く)

 明日からはいよいよ黄長氏の登場です。

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