【前回まで】
1996年12月に起きたペルー・リマの日本大使公邸占拠事件は、翌97年4月22日、ペルー陸軍特使部隊の突入によって解決した。公邸を占拠したMRTAのメンバー14人はは全員が射殺された。
特殊部隊による強行突入は、実は入念に練られた結果だった。正面からの突入が不可能だと悟った軍は、特殊部隊基地内に日本大使公邸とそっくりのレプリカを造り、地下からの突入を想定し、トンネル作戦に踏み切った。トンネル掘りにかり出されたのは、実際の鉱山労働者たちだった。彼らは45日間でトンネルを彫り上げた。
一方、囚われの身となっていた人質の中に、元海軍提督がいた。彼はポケベルを使って軍との交信を試みていたが、ある日、返信メッセージが来た。「ギターを4本差し入れる」という内容だった。ギターには、盗聴器が仕掛けられていた。そのとき以降、元海軍提督と軍は突入の時期を探っていた。占拠された公邸の居間にMRTAのメンバーがいなくなったとき、それが突入のチャンスだった。
突入の符牒は「マリーは病気だ」。人質の安全だけを考え、強行突入を控えるようにとのメッセージをフジモリ大統領に送り続けていた日本政府が強行突入を知ったのは、テレビの報道だった。
■『ペルー大使公邸占拠事件~ゲリラは処刑されたのか~』④
○アンデス・チクリョ峠
リマから百十キロほど車で来た
アンデス山脈の中でも最も高いチクリョの峠。
標高四千八百十八メートル。
私にとってこの峠越えは二回目だった。
最初は占拠事件が起きた六年前、
多くの若者たちがMRTAにリクルートされたと聞いて
チャンチャマーヨ郡にある
ある村を訪ねたことだった。
○「サンチリオ村」
この村で、娘をMRTAに取られたという母親に会った。
そのとき母親はこんな話をしてくれたのだ。
○エンマ・プラセンシア
「こんな何もない村からは出て行ってやる、
これが子供たちの口癖でした。
娘からも、何度も聞きました。
復讐だとかなんとかいってね・・・」
○破れた家屋
娘が村を出たのは
一九九〇年暮れ、わずか十才の時。
それから六年後に公邸占拠事件は起きた。
○ジョアンナの母(当時)
「ジョアンナ・・・」
○窓辺の女兵士(資料)
中にいるのでは、
という母親の心配は杞憂に終わりました。
公邸の中にいたのはジョアンナではなく、
シンシアと呼ばれた女性でした。
○再びの村サンチリオ
6年前と同じ佇まいを見せるサンチリオの村。
○軒下にたむろする若者たち
「誰かジョアンナという女性の家を知らないかな?」
「あの女テロリストのことだろう、
もうこの村にはいないよ」
「その家族はいつこの村を出ていったの?」
「テロ事件を始めたころ、出ていったよ」
○ラ・メルセの町
MRTAの拠点ともいわれた
チャンチャマーヨ郡には、
先住民が住む村の他に、
入植者が作った村が四百カ所以上ある。
収入は果樹などの農産物に限られる。
○果樹農民
「いくらぐらいで売るの?」
「一キロ二十五センターボです」
「これが一ソル(33円)?毎日売れる?」
「果物が採れれば採れるほど値段が下がる、
つまり採れても採れなくても、
あんまり変わらない。
ただなんとか生きるために金を稼いでいるだけで、
子供の教育とかに回す金はないんだよ」
○果物市場
加工業というものはなく、
一次産品だけに頼る生活である。
公邸を占拠した十四人のうち、
十一人はこういった村の出身者だった。
○車道
そして当時のフジモリ大統領は
貧しさとテロは一体だ、として、
ジャングルの村々に道路を引き、
電気をともす政策に力を入れたのだが・・・。(以下第五回に続く)
最新の画像もっと見る
最近の「テロとの戦争」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事