【前回まで】
エリヒヤ・ロドリゲスさんの娘、ルス・ディナ・ビジョスラダさんは、1996年暮れ、ペルーで起きた日本大使公邸人質事件の容疑者として、ペルー陸軍特殊部隊の突入の際に射殺された。事件はゲリラ全員の射殺で解決したが、当時、人質として囚われていた日本大使館の一等書記官が、射殺されたゲリラ14人のうち少なくとも3人は、命乞いをしたにもかかわらず殺されたと証言。ペルー・リマ市の検察庁もこの証言を元に再捜査に動き出した。
一方、軍は当初から軍事的解決しかないと判断、特殊部隊の基地内に大使公邸とそっくりのレプリカを作り、トンネルを伝っての強行突入作戦を立てた。トンネル掘りには、実際の鉱山労働者がかり出された。
人質の中には、元ペルー海軍の提督がいた。彼はどこかに盗聴器が仕掛けられているに違いない、と信じ、密かにポケベルを使って外部との交信を試みていた。その甲斐あって、2週間後にはメッセージが届いた。そして突入時の合言葉が決められた。「マリーは病気だ、マリーは病気だ」これが合言葉だった。
翌1997年4月22日、ついにこの合言葉が発せられた。占拠していたMRTAメンバー全員が死亡。しかし、彼らはなぜ大使公邸を占拠したのか?彼らの動機を追って私はアンデス山中の村々を訪ねた。
そこで射殺されたルス・ディナ・ビジョスラダさんの母親、エリヒヤ・ロドリゲスさんに会った。
■『ペルー大使公邸占拠事件~ゲリラは処刑されたのか~』⑤
○ポルト・ヴィクトリア村
ジョアンナの暮らした村から一時間ほどの所に
通称シンシア、ルス・ディナの家はあった。
○母 エリヒア・ロドリゲスさん
「これです、これが娘です。
ちょっと太っていて、小柄で、
この頭も、この腕も、全て娘のものです」
○持参した娘の写真
持参した写真は、
公邸を占拠したMRTAのメンバーを写したものだった。
そして母親が指で押さえた女性こそ、
小倉氏がシンシアと呼んだルス・ディナだった。
○国立ペレネー総合工業学校
ルス・ディナがこの工業学校を卒業したのは、
九年前の十六才の時だった。
○学校時代の娘の写真を取り出す母
「娘さんの写真はあるんですか?」
「学校の制服姿の写真があったけどね・・・、
おや、見られたくないのかしら・・・」
○卒業前のルス・ディナの写真
あどけなさの残るルス・ディナが
MRTAのメンバーと家を出ていったのは、
卒業から四ヶ月後のことだった。
○母親 エリヒヤ・ロドリゲスさん
「水や電気がないのはまだいい、
でも、娘が悔し涙を流したのは、
お金がないって、なんて悲しいんだろうね、
ということでした」
○遺体発掘現場
母親のエリヒアさんが家を出ていった娘と
ようやく対面できたのは去年のこと。
小倉氏の証言をきっかけにして、
死亡した十四人全員の遺体が
あらためて発掘されたからだった。
○遺骨の発掘(写真)
武力制圧から四年後、
エリヒアさんは変わり果てた娘と初めて対面した。
○エリヒア・ロドリゲスさん
「骨はまるで焼いたみたいに真っ黒で、
娘なのかどうか分かりませんでした。
そこで頭を持って口を開けたんです。
娘は両方の奥歯を治療してましたからね。
やはり治療のあとがありました」
○泣き崩れるエリヒア・ロドリゲスさん
初めて遺体を見た家族は、
損傷のひどさに驚いたという。
そして、むごたらしい遺体は
武力制圧のすさまじさを物語っていた。(以下第六回に続く)
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