《以下引用》
「ミャンマーの僧侶による反政府デモは24日、最大都市ヤンゴンで10万人以上が参加し、1988年の民主化要求運動以来最大の規模となった。(中略)消息筋によると、ヤンゴンでは、僧侶と市民らが、NLD本部事務所前や、88年の民主化運動の舞台となり現在は封鎖されている大学付近などを行進。隊列は1キロ・メートル以上に及び、中心部の幹線道路の交通はマヒ状態に陥った。女優や芸術家など国内の著名人も駆けつけ、僧侶に食糧や水を寄付。参加した市民の一部は涙を流しながらスー・チーさんの解放を訴えた。NLD事務所ではメンバーが僧侶に敬意を示し、一部がデモに加わった。軍事政権の治安当局はこの日もデモに対し、直接の鎮圧行動は控え、周囲から監視を続けるだけだったが、事態緊迫化を受け、警備態勢を強化する動きも見せた」(9月24日『読売新聞』)《引用ここまで》
果たしてミャンマーの権力者たちはこの事態にどう反応するのだろうか。昨日からミャンマー情勢を読むたびに、私は韓国の現代史を思い起こしている。韓国では日本の植民地支配から解放され独立したあと、最初の民選大統領になったのは李承晩(イ・スンマン)だった。反日でならした。
反日政策は良かった。だが、権力者というものにはいつも陥穽が待ち受けているものらしい。李承晩は私腹を肥やしたのだ。当時、韓国では朝鮮戦争が休戦となってはいたが、国民は食うに困る日々だった。疲弊した人びとはお上に泣きついたり楯突いたりしてはいたが、それがデモとなって韓国全土に野火のように燃え広がっていった。
デモ封じに政権側は警察力、軍隊を使ったが、釜山や馬山では催涙弾に当たった学生が死亡するという事件も起きていた。そしてその事件をきっかけに火は一気に首都ソウルで燃え広がった。
景武台(キョンムデイ)と呼ばれていた大統領官邸に、学生を中心とした数万のデモ隊が向かった。1960年4月19日のことである。最も堅牢だったはずの大統領警護隊や首都警備隊はデモ隊には手も足も出ずに、戦線から下がった。大統領は這々の体でアメリカ大使館に保護され、そして亡命した。
韓国現代政治史には、さらに「悲劇」がある。しかしそれはいつか記すとして、ミャンマーの状況はまさにこういう状況ではないか。
5倍という一方的な油価格値上げ発表を機に、燃え上がった政権に対する不満はまず首都ヤンゴンで表面化した。立ち上がったのは、仏教国らしく国民からの信頼の厚い坊さん集団、それだけに政治権力者たちも手が出せない彼らの意思表示は、政権にとっても計算外だったに違いない。それに市民が共鳴し、10万というデモにふくれあがった。
もはや、独裁政権が取るべき方法は限られてきた、と私は見る。怒りに満ちた人びととどう妥協するか、政権延命を図るにしても、それが唯一の選択だからだ。そうすれば流血という事態は、最低限避けられるかも知れない。しかし、そうではない選択をしたら・・・?
ミャンマーの政治権力者たちの叡智を信じたいとは思うが、いずれにしてもその結論、あるいは方向性は遠くないうちに見ることになるだろうな、と思う。それだけ緊迫している、ということだ。
日本では福田さんが予定通り自民党総裁に選ばれた。そして党人事では、党3役+1役(選挙担当)計4役が同列に並び、見事な「論功行賞」が行われた。明日は新内閣が決まる。こちらの人事を見てからの話か。
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