【合気道 横濱金澤クラブ】電子掲示板

2012年から横浜市立金沢中学校の武道場をお借りし活動しており、2019年には(公財)合気会から公認を受けています。

忠孝一本

2015-06-13 16:21:04 | エッセイ
 戦前のわが国の道徳の柱は「忠孝」でした。「忠孝」はもともと武士社会の中で培われた基本道徳です。武士が社会の支配的階級となった徳川時代には「忠孝」は農民や町人の間にも浸透していきます。
 「忠」と「孝」という二つの道徳から成り立っております。しかし、日本人は、忠孝は究極的には一つに帰着する、同じ道徳であるとみる理解を強くもっておりました。
(中略)
 忠孝が一つであるという理解は、戦闘者の人間関係に即して考えるとその意味が良くわかるように思われます。
 武士たちの人間関係理解、道徳理解は、戦闘を基準とすることでとらえなければなりません。武士にあっては、主君と家来とは戦闘を媒介とした絆で結ばれております。主君とは、本来戦闘の指揮者であって、経営者や雇い主ではありません。忠もまた、本来は戦闘における指揮命令の関係をあらわしております。しかも武士の場合、家族もまた戦闘者の共同体でありますから、親と言ってもそれは一般市民社会の親とは異なり、第一義的にはやはり戦闘の指揮者であります。
 主従関係(忠)が戦闘における指揮命令関係であり、親子関係(孝)もまたそうであるとすれば、戦闘者たる武士にとって、主君への忠と親への孝は、全く同一のものとなります。忠孝が一つというのが当たり前のように受け止められた背景には、こうした戦闘者としての武士の生活実感があったのではないでしょうか。
 面白いことに、このことは、日本の伝統的な道の世界に、一般的に見られる感覚であるように思われます。職人であれ、芸能であれ、日本の道は、多くの「家」を組織単位として受け継がれております。
 例えば、歌舞伎役者の家に生まれた者にとって、自分の親は普通の意味での親である以前に、その道の先達、師匠であります。だから、彼らにとって、親への孝は、師に対する礼と同じことだということになるのです。
 しかし、ひるがえって考えれば、そもそも「普通の意味での親」とは、一体どういう存在なのでしょうか。それがただ、子どもを生み育て養う存在というのなら、動物の親子となんら差はないのではないでしょうか。血のつながり以上の何か―主君でも師匠でもいいのですが―であるからこそ、動物とは違う人間の親だといえるのではないでしょうか。
 家が道を伝える組織としての意味を喪失してしまった今日、世の親御さんたちが、ただの親にとどまっているのではないことを信じたいと思います。

 「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用
 写真:市川猿之助一門
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サムライとはなにか

2015-02-23 19:50:39 | エッセイ
「いかに美しく生きるか」
 
 人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸の武士道倫理であろう。人はどう思考し行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸期の儒教である。この二つが、幕末人をつくりだしている。
 幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。しかもこの種の人間は、個人的物欲を肯定する戦国期や、あるいは西洋にはうまれなかった。サムライという日本語が幕末期からいまなお世界語でありつづけているというのは、かれらが両刀を帯びてチャンバラをするからではなく、類型のない美的人間ということが世界がめずらしがったのであろう。また明治後のカッコワルイ日本人が、ときに自分のカッコウワルサに自己嫌悪をもつとき、かつての同じ日本人がサムライというものをうみだしたことを思いなおして、かろうじて自信を回復しようとするのもそれであろう。私はこの「峠」において、侍とはなにかということを考えてみたかった。それを考えることが目的で書いた
 その典型を越後長岡藩の非門閥家老「河井継之助」にもとめたことは、書き終えてからもまちがっていなかったとひそかに自負している。(略)

 「峠」(司馬遼太郎)あとがき より引用
写真:「河井継之助」
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八甲田山 死の彷徨

2015-01-25 12:43:24 | エッセイ
八甲田山雪中行軍遭難事件
 日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦した。そして更なる厳寒地での戦いが予想される対ロシア戦を目前にして、同陸軍にとって冬季訓練は当時緊急の課題であった。
 1902年(明治35年)1月、陸軍第4旅団の雪中行軍訓練として、青森から歩兵第5連隊210名が、弘前から歩兵第31連隊37名が参加した。青森歩兵第5連隊は八甲田山系の大雪の中でほぼ全員が死亡した。一方、弘前歩兵第31連隊は全員生還した。
 高倉健主演の映画「八甲田山」(1977年)が有名ですが、気象条件(大寒波の到来)はほぼ同じであったものの、両部隊の生死を分けたのは、1.稚拙な装備、2.指揮系統の混乱、3.雪に対する認識不足などと言われています。113年前の本日1月25日は、多数の陸軍将校、下士官、兵卒が冬の八甲田で殉職した日でもありました。
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高橋先生のご逝去について

2014-12-12 16:03:30 | エッセイ
 八景合気会の師範であり、長年にわたり横浜市立大学合気道部の指導にあたられていた高橋茂稔先生(七段)が今月お亡くなりになりました。22年2月の八景合気会入会以来5年足らずの期間ではありましたが、先生のお蔭で密度の濃い時間を過ごすことができました。
 一対一のご指導を受けたことが鮮明に記憶に残っています。合気道の先生の中では、どちらかと言えばいかついタイプでしたが、先生の「合気道は、肩や腕に力を入れてはダメで、力を入れるのはハラ(腹)だけ」「相手の方へハラを向ける」などの(奥の深い)教えを私は自分なりに考え、試してみて、ようやく意味がつかめてきたかな、というところでした。
 返す返すも先生のご逝去は残念ですが、遺志を継ぐため、引き続き稽古に精進していきたいと思います。
 また、自分自身の健康管理にも、今まで以上に意を払おうと決意しました。
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武士の子育ては「全人教育」― 「知る」教育ではなく「なる」教育

2014-10-17 19:16:25 | エッセイ

 武士に限らず、近代以前の世襲的社会においては、教育の基本はいわゆる「全人教育」でありました。
 武士の教育目標は、立派な武士に育てることであり、商人はわが子を立派に商人に仕立てようとし、百姓もまた同様でありました。
 立派な武士とは、頭のてっぺんから足の先まで、一分の隙もなく武士としての魂、力を身につけた者だということができましょう。とするならば、立派な武士に育てるとは、肉体・精神の働きすべてが武士らしくあるようにさせることにほかなりません。ですから、武士の子弟は、箸の上げ下ろし、歩き方、座り方、眠り方から始まって、武芸、文学の知識、内面的な人格まで、あらゆることを、武士という一つの目標に向かって統一的に学ぶべきだと教えられたのでした。武士という稼業にあっては、心の持ち方、身のこなしどれ一つをとっても、武士稼業と関係ないものはないとされたからです。(中略)
 時と場によっていくつもの役割を使い分ける近代人と、寝ても覚めても武士として暮らす人たちとでは、教育のあり方も大きく異なってまいります。(中略)
 いずれにしても、武士においては、知情意すべての教えが、立派な武士という目的に統一されております。そして、武士の子弟は、己のすべてをもって、武士という目標に一致すべきものとされていたわけです。
 このような、全人的な数値目標は、文学・書物の知識の伝達だけで達成されるものではありません。教育目標は、武士を「知る」ことではなく、武士に「なる」ことだからです。「知る」教育ではない、「なる」教育、これが武士の教育の基本であり、また「全人教育」が本来意味するところであるわけです。


 「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用

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捨てることをも捨てる

2014-09-30 18:52:49 | エッセイ
 最も嫌なことを率先して引き受けるところに、武士の値打ちがあらわれる。言い換えれば、我を捨てることによって、真の我が実現するという考え方は、武士道に限らず、日本の「道」の世界に広く見られるもののようです。
 例えば、禅の世界では、便所掃除が大変高い境地の修行であるとされ、便所掃除の役は、通常雲水の第一座である首座(しゅそ)の職務になっています。未熟な者が便所掃除を買って出ようなどとすれば、たちまち叱られるという伝統は、おそらくまだ生きているはずです。
 便所掃除が尊いのは、汚い、人の嫌がることをするからだと、とりあえずは言えるでしょう。しかし、自分は人の嫌がることをやっているのだという意識があるうちは、まだまだ不足とみなされます。なぜなら、汚いことをしているという意識は、きれいな楽しいことをよしとする意識と裏表だからです。つまり、その人の心の内には、きれいなものを愛する気持ちが残っているからです。本当の便所掃除は、きれいも汚いもない、浄穢(じょうえ)を超えたところにある。その境地は、若い修行者には容易に到達できないというのが、「貴様にはまだ便所掃除はできぬ」という言葉の真意です。「天下世界を苦にし世話にする」武士の公の精神についても、同じようなことが言えるでしょう。我を捨てているという意識があるうちは、真に公の精神であるとは言えません。それは、どこかで、捨てた「我」に執着しているからです。捨てることすら捨てた「無二無三」(むにむさん)(一つの物事に心を傾けてそれに打ち込むさま)こそが、自在の境地をもたらすというのもまた、武士道の共通する考え方です。

 「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用
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場をはずさぬこと(只今をとらえる)

2014-07-27 13:51:25 | エッセイ
『葉隠』の中でも最も有名な箇所は、
「武士道というは死ぬ事と見つけたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に子細なし。胸すわって進む也。」(聞書1-2)
「大事」に臨んで、タイミングを逃さないための要諦は、ためらいなく切り殺されることを引受けることだと言うのが、山本常朝の説くところなのです。「場をはずさぬ」仕方に、何も面倒なことはない(別に子細なし)。斬り殺されると決めてしまえば、「胸すわって」進むことができるというのです。
 山本常朝はこれに続けて、分別・理屈は、決して「場をはずさぬ」方へ導くことはないと強調します。なぜなら、人は誰でも「生きる方が好き」だからです。分別・理屈は、おそらく自分の好きな「生きる方」を正当化するように働くであろう。しかし、その場に臨んで後れを取らないとは、好きでもないものを選び取ることである。(中略)つまり、「場をはずさぬ」仕方とは、まさに己にとって最も大切な生の断念ということに尽きるのです。(中略)
 生命や欲望を断念すること、それがタイミングをとらえることである。しかも、その断念は、日頃蓄えた己の実力のいかんなき発動を導くであろう。だから、「斬り殺される事」を選んだ者は、かえって相手を倒すという目的を果たすことも可能になるのだ。「場をはずさぬ」教えの核心は、おそらくこのあたりにあるのではないでしょうか。

 「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用

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嘘をつかない

2014-06-03 19:55:01 | エッセイ
 この言葉は次の二つの意味を含んでいる。
1. 嘘をつかない。(正直であること。)
2. 絶対約束を違えない。(約束を守る。武士に二言なし。)
『甲陽軍鑑』とそれに続く『可笑記』『葉隠』『武道初心集』など諸々の武道書もまた、「嘘をつかず正直であること」を徳目の第一に掲げている。
『武道初心集』に「義はすなはち善、不義すなはち悪なり」とあるとおり、「義」はまずもって善行である。善をおこない、悪を退けること。不正に走らず、不正の物に手を出さぬことである。たとえ周囲の多くの人間が加わっておろうとも、不正な企てには同調しないと言う態度を持すること。とされていた。
 1.の意味については、嘘をつかないで正直であれ、とは誰でも簡単にできそうだけれども、人間には、自分を良く見せようとか、上司に叱られたくないなど自己保身などの気持ちがあり、思わず嘘が口から出ることも考えられる。武士が活躍する戦場ではこの嘘の報告が指揮官の判断を誤らせ致命的な結果を招くことがある。この単純で基本的な「嘘をつかない。(正直であること。)」という徳目は、組織が戦(いくさ)に勝つため、部下(家来)たちに要求すべき第一の徳目であることが理解できるのである。特に戦況報告では、「見たまま、ありのままの事実を報告すること」が非常に重要となる。

次に2.の意味であるが、正直の徳は自らの約諾の遵守となり、信義・信頼の貫徹へも進んでいく。武士はひとたび言葉を発したならば、それを違えることは許されず、約諾は命に代えても守り抜くという気風が強調されるようになった。余談であるが、武士同士が堅い約束を結んだとき、金打(きんちょう)といって、刀の刃と刃又は鍔と鍔を打ち合わせることによりその証としていた。

 1,2とも、武士が生きた時代はもちろんのこと現代においても(戦闘)組織には欠かせない徳目であることが理解していただけよう。

写真:什の掟(会津若松市:日新館)
 一方、作家の池波正太郎は「関ヶ原」(『真田太平記』第七巻)で、西軍から東軍へ「最後の瞬間」で寝返る武将の姿を生々しく描いている。特に小早川秀秋に代表されるところの、究極の選択を迫られた時の人間の弱さが存分に出ている。名のある武将たちの「嘘をつかない」という徳目に反する行動をどう評価するのか。これは別の機会に譲りたい。
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名こそ惜しけれ

2014-05-06 15:06:26 | エッセイ
 武士の最期は、若い盛りに訪れるかもしれないし、また、老いを重ねるまでなかなかやってこないかもしれない。いつ来るかわからないその時を見事に迎えるには、日頃からの覚悟がなければならない。武士の日常のたしなみは、まさにいつ来るかわからぬ最期のために、日々ぬかりなく行われるべきものとされておりました。「葉隠」に次のようなくだりがあります。
「毎朝水にて顔を洗候へば、討死のとき顔色変ぜずといへり。」
 死の覚悟とは、単に精神の持ち方だけではありません。毎朝毎夕、今討ち死にするのであると想定し、実際にそれにふさわしいよう、髭を整え、爪を磨き、武具を手入れしておくのです。武士にとっての身だしなみとは、人目にさらされる己の死体のためになされる行いをいうのです。
 最高の状態で断ち切ることが、物事の完成である。裏返せば、断ち切るために最高の状態へ持っていくというこの考え方は、おそらく武士道思想の他には見られぬ迫力の根源をなすものです。執着を断つというだけなら、決して珍しい考え方ではありませんが、武士にあっては、執着を断つことはそのまま己の死を意味するからであります。
 こうしてみると、満開の桜の盛りに名残りを惜しまれながら散る桜が、他のあらゆる花にもまして武士の姿にふさわしいということが、よく納得されるかと思います。そうしてまた、名残(なごり)という言葉もまた、どこか象徴的なものに思われてまいります。というのも、一生の晴れの討死にを遂げた武士たちが、命に代えて残したものこそは、まさに武士たる己の「名」であったからであります。
 惜しまれながら散る桜が、この世を超えた見果てぬ栄華の夢を名残りに見せるように、武士は、己の理想を末代まで残る「名」に託して示したといえるのでしょう。
 「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用
写真:鶴ヶ城と桜(会津若松市)
 現代に生きる我々に対し、武士のような覚悟は求められることはないでしょうが、いつ不慮の事件・事故に巻き込まれないとは限りません。身だしなみを含め、出来るだけ身辺を綺麗にしておきたいと思う今日この頃です。
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「尚武の季節」(その2)

2014-05-04 10:17:29 | エッセイ

 江戸時代の武士たちにとっても、五月の節句は、正月の具足祝いと並んで、尚武の精神を高める祭りと受け止められていたようです。
 たとえば、山鹿素行はこのようなことを述べています。
「甲冑は武士一生の終りの時の装束なれば、平生念を入れ、昼夜心がけて、その着て快く自由ならんことを考ふべき也。(中略)せめて正月具足の備を祝するとき、五月小旗かざらんとき、この外六月虫干しの時分は、必ずおこたらず考ふべきこと也。」
 甲冑は「武士一生の終りの時の装束」であるから、毎日欠かさず手入れをせよとは、いかにも武士らしい言葉です。しかしながら、すでに戦火がやんで五十年以上たった太平の世のこと、武士たちの間には遊惰の気風が蔓延しはじめていました。甲冑などめったに取り出すこともなく、「妙薬鼻紙のたぐひまで」きちんと「具足のはながみ入れ」に補充しておくような武士は少なくなっていたのでしょう。だから山鹿素行は、せめて正月、五月、六月くらいは具足の手入れをし、いつでも着用できるようにすべきだと説いているのです。
 武士は戦闘者ですから、戦闘のない期間が長く続けば、おのずと気のゆるみに襲われます。思えば、太平の江戸時代は、武士たちにとってゆるめようと思えば限りなくゆるむことのできる、長い長い誘惑の期間だったと申せます。武士道とは、そういう常に襲ってくる気のゆるみとの不断の戦いであったということもできるでしょう。
 五月の小旗かざりのときは、そうした気のゆるみに活を入れるための大切なきっかけだったに違いありません。五月は、まさに尚武の季節だというわけです。ちなみに「小旗」を飾るというのは、今日の鯉のぼりの前身、つまり吹き流しや旗・のぼりを飾る風習を指しております。
 「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用
写真:五月人形
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「尚武の季節」(その1)

2014-05-01 17:49:30 | エッセイ
 五月五日といえば、なんといっても鯉のぼりに武者人形ですが、もう一つ忘れてはならないのが菖蒲飾り、菖蒲湯です。邪気・病を払う儀礼と「武」が深い関わりをもっているのは、古くから人類普遍の現象ですが、武道と「健康」が切っても切れない関係にある以上、それは当然のことでしょう。
 わが国古代には、「薬狩(くすりがり)」と称して鹿狩りを行い、薬用としたことが「日本書紀」や「万葉集」から知られます。鹿狩りはもちろん練武を兼ねた儀式であります。これが、平安時代には宮中での騎射となり、中世以降「印地打(いんじうち)」(石合戦)や綱引・競馬(くらべうま)など五月五日に行われるさまざまな競技へと変遷していったといわれます。また、薬を採取して無病息災を祈る風習は、今日の菖蒲飾りにまで引き継がれています。

 「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用
写真:しょうぶ湯(神奈川県公衆浴場生活衛生同業組合)
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鶴ヶ城の桜(会津若松市)

2014-04-25 14:30:00 | エッセイ
 所用があり家族で会津に行く機会がありました。
 桜が満開だったので折角だからお花見をして帰ろうかということになり、何処にしようか
少し迷ったものの、会津を代表する「鶴ヶ城」に寄ってみました。
 すると満開の桜と多数の観光客で大賑わいでした。約3週間ぶりのお花見みを楽しめ、
家族皆得した気分になりました。特にサクラのソフトクリームは淡いピンク色で桜餅の
葉っぱの味、少し塩味が効いて大変美味でした。
 ゴールデンウィーク直前に時期外れのお花見ができたことは非常にラッキーでした。
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苦をこらえるのが、よき事

2014-02-24 18:51:39 | エッセイ
 元々武士たちにとっては、苦境や困難こそが彼ら本来の生活の場であった、ということができます。刀を抜いて切り合うのが本来の業でありますから、苦痛や困難は彼らにとってまさに普通のことでありました。逆境も苦労も人生においては当たり前のことだと見る感覚は、戦闘者としての武士の習性にその根源を持っていると考えられるでしょう。
 危機に身をさらすことをなりわいにしてきた人たちですから、その逆境に対する感覚も、およそ平和の民の意表をつくものがあります。
「大難・大変に逢(あ)いても、動転せぬと云うはまだしき也。大変に逢いては、歓喜踊躍(ようやく)して勇み進むべき也。一関(ひとせき)越えたる所也。水増されば船高しというがごとし。」(「葉隠」より引用)
 とてつもない危機・困難に直面して、「全く動転しない」という程度では、まだまだ未熟だというのです。困難に出合ったときには、躍り上がって喜ぶくらいの気持ちで勇み進む、一段越えた境地にならなくては駄目だ、と山本常朝は主張いたします。(中略)
「よき事をするとは何事ぞといふに、一口にいえば苦痛(いた)さこらゆる事也。苦をこらへぬは、皆悪(あ)しき事也。」(「葉隠」より引用)
 同じ事がらでも、苦痛をこらえてなされるのが、「よき事」で、苦を伴わずに行うことは悪いことなのだというわけです。「よき事」とは何かを問われたときの、いかにも武士らしい意表を突いた定義であります。
 しかし、よく考えてみるとこの定義は、逆境・不調を克服する知恵として、なかなかに含蓄のあるものと思われます。
 この定義を利用すれば、例えば、不調・スランプのときに行う練習は、何事も順調で稽古が楽しくて仕方がないといったときのそれよりも、はるかに「よき事」だということになります。苦しいときにした努力は、好調のときにした同じ努力よりも、はるかに実りが豊かなのだということです。

 「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用
 写真:現代語全文完訳「葉隠」(山本常朝)表紙
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武は晴のわざである

2014-02-09 19:59:51 | エッセイ
 時と場所にかなった武士らしい振る舞いは、「伊達」、すなわち粋(いき)で美しいものでなければなりません。
 平安の昔から、人目に立つ(今日いう「目立つ」の「立つ」は、「ダテ」の語源に通ずるともいわれています)華美ないでたち・所作は、武士たちの等しく好むところだったようです。もちろん幕府や大名は、たびたび華美・豪奢(ごうしゃ)な身なりを禁止しましたが、禁令が多く出された事実は、逆に、武士たちがそれほど派手な形を好んだということを裏付けてもいるでしょう。
 武士たちのオシャレ、伊達好みは、おそらく「武」というこの本質にかかわっているものと思われます。戦闘というものは、むき出しの力のぶつかり合いであるいから、美的な要素は余計な邪魔者であると考える方もいらっしゃるかもしれません。確かに、派手な飾りは敵の目標になりやすいし、意匠をこらした甲冑は、近代的な軍装に比べて運動性に劣るでしょう。(中略)
 戦闘者たる武士にとって、戦いというものは、己の人生を懸けた特別な営みであったといえます。武士にとって、戦いは単なる身体運動ではありません。それは生の意味そのものにかかわる、大切な晴(ハレ)のわざであったのです。

「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用
写真:伊達正宗像
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皆妻子のためなり

2014-02-02 18:57:50 | エッセイ
 武士は、戦うことにおいては自己を成就する存在です。戦いの結果は、所領の拡大・一族の繁栄という「利」になってあらわれます。戦いに敗れても、その武士の「名」は一族の名誉として語り継がれます。その意味で、武士は、妻子眷属(けんぞく:血筋のつながっている者)、一族郎党という共同体に根ざした存在であるということができます。
 また、武士は女子供を蔑視するという一面的なイメージがあるようですが、ある意味で、武士ほど妻子を大事にした者はいないのです。
 「壬生義士伝」で作者の浅田次郎氏は、主人公である吉村貫一郎(盛岡南部藩を脱藩し新撰組に加わり壮絶な最期を遂げた。)に、「女房に忠義を尽くす(した)」と言わせていますが、これは誇張ではなく、「三河物語」のほか妻子を大事にすることについては様々なエピソードが残っています。
 「奉公一篇に精を入れ、又は妻子以下の育てに心懸け候者は、一生を見事に暮す者也。」(「葉隠」より引用)すなわち、武士に求められていたことは、「一命を捨て奉公すること」と「妻子を育むこと」の2つがあり、武士の武士らしい「見事」なあり方には、命を捨てる戦いと並んで、捨てがたい「妻子」というものが欠かせぬ用件として含まれているのです。
 「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用
 写真:映画「壬生義士伝」より



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