最も嫌なことを率先して引き受けるところに、武士の値打ちがあらわれる。言い換えれば、我を捨てることによって、真の我が実現するという考え方は、武士道に限らず、日本の「道」の世界に広く見られるもののようです。
例えば、禅の世界では、便所掃除が大変高い境地の修行であるとされ、便所掃除の役は、通常雲水の第一座である首座(しゅそ)の職務になっています。未熟な者が便所掃除を買って出ようなどとすれば、たちまち叱られるという伝統は、おそらくまだ生きているはずです。
便所掃除が尊いのは、汚い、人の嫌がることをするからだと、とりあえずは言えるでしょう。しかし、自分は人の嫌がることをやっているのだという意識があるうちは、まだまだ不足とみなされます。なぜなら、汚いことをしているという意識は、きれいな楽しいことをよしとする意識と裏表だからです。つまり、その人の心の内には、きれいなものを愛する気持ちが残っているからです。本当の便所掃除は、きれいも汚いもない、浄穢(じょうえ)を超えたところにある。その境地は、若い修行者には容易に到達できないというのが、「貴様にはまだ便所掃除はできぬ」という言葉の真意です。「天下世界を苦にし世話にする」武士の公の精神についても、同じようなことが言えるでしょう。我を捨てているという意識があるうちは、真に公の精神であるとは言えません。それは、どこかで、捨てた「我」に執着しているからです。捨てることすら捨てた「無二無三」(むにむさん)(一つの物事に心を傾けてそれに打ち込むさま)こそが、自在の境地をもたらすというのもまた、武士道の共通する考え方です。
「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用
例えば、禅の世界では、便所掃除が大変高い境地の修行であるとされ、便所掃除の役は、通常雲水の第一座である首座(しゅそ)の職務になっています。未熟な者が便所掃除を買って出ようなどとすれば、たちまち叱られるという伝統は、おそらくまだ生きているはずです。
便所掃除が尊いのは、汚い、人の嫌がることをするからだと、とりあえずは言えるでしょう。しかし、自分は人の嫌がることをやっているのだという意識があるうちは、まだまだ不足とみなされます。なぜなら、汚いことをしているという意識は、きれいな楽しいことをよしとする意識と裏表だからです。つまり、その人の心の内には、きれいなものを愛する気持ちが残っているからです。本当の便所掃除は、きれいも汚いもない、浄穢(じょうえ)を超えたところにある。その境地は、若い修行者には容易に到達できないというのが、「貴様にはまだ便所掃除はできぬ」という言葉の真意です。「天下世界を苦にし世話にする」武士の公の精神についても、同じようなことが言えるでしょう。我を捨てているという意識があるうちは、真に公の精神であるとは言えません。それは、どこかで、捨てた「我」に執着しているからです。捨てることすら捨てた「無二無三」(むにむさん)(一つの物事に心を傾けてそれに打ち込むさま)こそが、自在の境地をもたらすというのもまた、武士道の共通する考え方です。
「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用
