武士の生活は、危機の連続といえましょう。合戦や喧嘩は当然危機の連続ですが、武士の場合は平時のお城勤め、役人としての日常も様々な危険に囲まれているのです。合戦におけるわずかな失策が死につながるように、平時におけるつまらぬ失策も直ちに死に至るのが武士の生活でした。またちょっとした口論が容易に命の取り合いに発展することもありました。
戦国乱世の法から発展した武家社会の法制は、過酷で弾圧的なものでした。「成敗」「御仕置」といえば原則「死刑」を意味する社会において、失敗の責任を取ることは「死」と同義語だったのです。
どんな時でも危機を切り抜けるために必要なのは「機転」です。いつもやっていることが通用しないからこそ危機なのであり当然のことです。普段と違う状況に対応して頭を切り替える柔軟性、未知の事態に動揺しない胆力、直ちに行動に移す実行力、こうした知恵・力のあらわれが、臨機応変・当意即妙の「機転」と呼ばれるものなのです。
「葉隠」より鍋島直茂(後の佐賀藩主)が秀吉に従い朝鮮へ出陣したときのエピソードを紹介します。直茂が高台から自陣の様子を見渡すと、母衣(ほろ)武士が母衣をはずしてくつろいでいました。陣中、無断で軍装をとくとはけしからんと怒り、詮議のため使者を送ったところ、小山平五左衛門という武士が次のように答えました。
「二十八人の母衣衆が、目と目をきっと合わせ一斉にはらりと母衣を脱ぎました。」この答えを聞いた殿様は「やられた」と思ったことでしょう。
おそらく小山平五左衛門という武士は、身分は低かったかもしれませんが、胆力のみならず、柔軟な思考、状況全体を見抜く冷静さ、そして何より率先して危機を引き受ける勇気・実行力を兼ね備えた武士だったものと考えられます。
「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用
写真:母衣武士(金沢市)
戦国乱世の法から発展した武家社会の法制は、過酷で弾圧的なものでした。「成敗」「御仕置」といえば原則「死刑」を意味する社会において、失敗の責任を取ることは「死」と同義語だったのです。
どんな時でも危機を切り抜けるために必要なのは「機転」です。いつもやっていることが通用しないからこそ危機なのであり当然のことです。普段と違う状況に対応して頭を切り替える柔軟性、未知の事態に動揺しない胆力、直ちに行動に移す実行力、こうした知恵・力のあらわれが、臨機応変・当意即妙の「機転」と呼ばれるものなのです。
「葉隠」より鍋島直茂(後の佐賀藩主)が秀吉に従い朝鮮へ出陣したときのエピソードを紹介します。直茂が高台から自陣の様子を見渡すと、母衣(ほろ)武士が母衣をはずしてくつろいでいました。陣中、無断で軍装をとくとはけしからんと怒り、詮議のため使者を送ったところ、小山平五左衛門という武士が次のように答えました。
「二十八人の母衣衆が、目と目をきっと合わせ一斉にはらりと母衣を脱ぎました。」この答えを聞いた殿様は「やられた」と思ったことでしょう。
おそらく小山平五左衛門という武士は、身分は低かったかもしれませんが、胆力のみならず、柔軟な思考、状況全体を見抜く冷静さ、そして何より率先して危機を引き受ける勇気・実行力を兼ね備えた武士だったものと考えられます。
「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用
写真:母衣武士(金沢市)
