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No.11 わたしの難聴ヒストリー⑦(鉄道会社社員 ゆきさんの場合)

2024年05月17日 | 記事

ゆきさん 鉄道会社勤務    29歳  右94dB   左99dB 補聴器装用

 

 ゆきさんは、2歳の時にご家族が聞こえの反応やことばの遅さで、専門機関での幼児聴力検査してもらったが、その結果、聴力に問題なしと言われてしまい、少し遠回りして、3歳で私たちの療育施設にきた。その頃は、たまにそういうことがあった。聴力は、その頃80dB台であったが、今は90dB台とのことだ。

  療育施設でのゆきさんたちのクラスは、人数が多かったので、ゆきさんはここでたくさんの友人と出会った。保護者さん同士も、お互いに支え合うよい関係だった。卒園してからも、連絡を取り合い、夏休みなどには、一緒に遊んだりしていたし、子供達が大きくなると、自分たちで会うようにもなった。社会人になった今でも、年に2回は集まって、お互いの近況などについて話合っているし、何かおめでたいことがあるとみんなでお祝いしたりしているようだ。頼んでおくと私にも集まった時の写真を送ってくれて、うれしい。

  今回、ゆきさんにインタビューをお願いすると、快諾してくれた。自分の経験が誰かの役に立つのはうれしいと言ってくれた。そういう心持ちも大変うれしい。横のつながりも縦の繋がりも応援したい。

 

【 ゆきさんのストーリー 】

<幼児期・小学校時代> 

 

 療育施設の思い出は、和太鼓を練習したことや、劇ごっこをしたことなどで、そういう行事が楽しかった。並行して幼稚園にも通っていた。

 幼稚園、療育施設を卒園した後、地元の小学校に通った。雑音防止のために教室の椅子すべてにテニスボールをつけてもらった。席も前の方にしてもらっていた。ほとんどが幼稚園からの友達で、今思うと皆自分のことをわかってくれる子ばかりだったように思う。あまりきこえのことで困った記憶がない。

 3、4年生の時、ノートテイクも希望すれば、やってもらえそうだったが、断ってしまった。今から思うとプライドがあって、他の子と同じように扱って欲しいという気持ちが強かったし、目立ちたくなかった。友達に気軽に話しかけてもらえなくなるという心配もあった。

 席替えも本当は、皆とおなじようにくじ引きで決めたかったが、それは前の方にしてほしいという母からの要望が出ていたので、諦めた。自分がみんなとは違うということを意識したのは、席替えで自分だけ、くじ引きができなかった時からだったように思っている。

 きこえなくて困った記憶はあまりないが、音楽の授業は、できないことが色々あった。鍵盤ハーモニカを真似してひくことは難しかった。

 

<中学校時代>

 

 中学校も小学校からの友達が多かった。しかし、段々勉強も難しくなっていたし、6年生の時に、地域の中学校かろう学校かどちらに進むかで少し迷った。ろう学校に見学に行ったりした。見学してみて、確かに授業はろう学校はわかりやすいと思った。

 しかし、遠いところを通わなくてはならないし、何よりもこれまでの友達と離れるのは残念だと思った。結局勉強よりも友達を優先して、地元の中学校への入学を選んだ。勉強のわからないところは、お母さんにきいたと思う。お母さんは、参考書などを買って、一緒に勉強してくれたりした。

 高校受験の時は塾で個別に教えてもらった。個人的に教えてもらうとよくわかった。高校選びの時は、選択肢にろう学校はなかった。公立の工業高校を受験した。前期の面接は難しいだろうと思って、後期の試験でがんばろうと思っていたが、前期の面接で受かってしまった。

 面接では、「お菓子のパッケージはどんなものをイメージするか」ときかれたり、「新聞は読んでいるか」きかれたりした。新聞は、こぼちゃんを読んでいたが、それは言わず、地元の出来事などのニュースのところを読んでいると答えた。政治の欄を読んでいると言うと、政治のことをきかれるかと思って、言わなかった。予想に反して、面接で受かってしまった。

 

<高校時代>

 

 工業高校だったので、聞くだけの授業の割合は多くなく、実際にものを作ったりする授業が多く、楽しかった。ただ、英語だけはいつも赤点だった。別に英語は、外国にも行かないし、使わないからいいやと思っていた。しかし、後に鉄道会社に就職してから、駅員をしていた時に、お客様にご案内する仕事をしていて、外国の人のお客様が多かったり、自分が海外旅行にはまったりしたので、勉強しておけばよかったと後悔した。 英語はレポートを提出したりして、なんとかクリアした。

 就職については、初めは地元の老舗のお菓子屋さんに就職したかったが、難聴があるということを学校の先生が伝えると、面接を受けてくれなかった。そこで、受け入れてくれるという会社を先生が教えてくれて、それが今の勤め先の鉄道会社だった。

 

<鉄道会社に勤めて>

 

 18歳で入社して、初め2ヶ月は新入社員研修をした。その研修の時、列車防護というのがあって、レールになんかあった時に大声で列車を停めるというのがあり、その大声を出すというのが苦手で難しかったと記憶している。

 研修後に各駅に配属され、自分は東京駅に配属された。初めは駅員として新幹線東京駅のホームに立った。また改札に立ったり、窓口で切符を作ったりした。ホームなどでのお客様対応は、初め大変だったが、質問のパターンが大体決まっていた。トイレはどこ?大丸はどこ?何時何分の電車は何番線?などの質問が多く、そのパターンを把握してからは、接客ってこんなに楽しいんだというのを知った。相手に喜んでもらえるのは、やりがいがあって楽しかった。 高校の時は接客なんてとんでもないと思っていたがいざやってみると、きこえる友達の中で鍛えられたおかげで何とかやれたのだと思う。

 しかし、お客様に後ろから呼ばれて、気づかなかったことも何回かあり、そのうちの1回は、なんで無視するんだ!と怒鳴られた。その時はたまたま近くにいた同期の友達が代わりに謝ってくれた。が、悔しい思いだった。その時から、周りをよく見るように努力したり、困っているお客様がいないか自分から目を配ったりするようにした。

 

 通常のコースとしては、駅員を3年やって、次に新幹線の車掌になり、車掌を5年やると、全員ではないが、今度は運転士になる。運転士になるには、厳しい訓練を受けて、さらに半年研修を受けて、その後見習いを半年やってようやく運転士になれる。女性でも運転士に成る人は、珍しくなく、例えば出産後に運転士となって復帰する人もいる。

 しかし自分は駅員としての仕事、ホーム、改札に立つ、切符を作成する窓口業務のいずれも、最後まで一人立ちができなかった。本当はどれも一人でやってみたかったが、ホームは騒がしく、きこえないと何かあった時にすぐに対応することができない。窓口での切符作成も切符を作る際に色んな質問がくるので限界があった。改札もすべてのお客様の質問がききとれるわけではないし、結構頻繁に業務での電話がかかってくるが電話も難しかった。流れてくるアナウンスをききとって案内するのも限界があった。

 結局駅員を3年やって、同期が皆車掌になっていく中で、自分は、「わかっているとは思うけど、あなたにはこのまま駅に残ってもらいます」と言われた。それで駅員として残り、結局6年間駅員をやり、そのほとんどは、新入社員の教育係をやった。

 今、同期がどんどん運転士になっているのだが、自分もきこえていたら、なっていたのかなと思う。この会社に入れたからには、やってみたかったと思う。でも1300人のお客様の命を預かると思うとやはりちょっと無理かなと思う。

 そして、5年前に今いる営業課に配属された。そこでは、団体旅行の予約の処理や、列車の変更があった時に券売機に変更をかけるシステム(マルス)の管理などをしている。コロナ対応とか、冬休みなど、新幹線の運行に変更がある時は忙しい。接客ではなく、裏方なので制服も着ていない。コロナの最中は、皆マスクをしているので、接客は難しいが、コロナが終わったら、もう一度接客はしてみたいなと思っている。

 今の営業課の仕事は、上司と先輩と自分の3人でチームを組んで行っている。上司は耳のことをよくわかってくれる人で、上司の方から「しゃべる時は、マスクをはずした方がいいよね」と配慮してくれている。先輩は、自分より後からこの部署に来た人だが、この部署に来る前に予めメールで「自分には難聴があること。マスクをしていても大きめの声ならわかるが、外してもらったほうが正確に伝わること」を伝えておいた。それで、先輩は、話す時はマスクをはずして話してくれる。しかし先輩は、他の人と話す時もマスクを外す癖がついてしまったようで、申し訳なく思っている。

 まわりの人が気持ちよく協力してくれている。まわりとの人間関係は大事だと思っていて、それを大事にすることで、気持ちよく協力してもらえると思っている。また、今後異動があった時にまた環境が変わる可能性はあるなとは思っている。

 

<友達のこと・デフフットサルチームのこと>

 幼児期に同じ療育施設に通った友人たちとはずっと付き合っている。年に2回くらい集まっている。お互い難聴同士でも、ずっと口話で話をしていたが、皆段々手話もできるようになって、自分が一番手話に関しては遅れていた。一緒に旅行に行った時は、お風呂の時など、補聴器をはずした時は会話についていけなかった。ずっと手話は覚えたいなとは思っていたが、普段使わないとなかなか身に付かない。

 3年前に療育施設の後輩に誘われて、デフフットサルチームに参加した。初めは、埼玉女子チームを立ち上げる時に誘われたが、自分には無理だと思って断っていた。しかし、その後メンバーが足りないからお試しでもいいから来てほしいと言われ、試しに手伝ってみたところ、思いの外、楽しくて、はまってしまった。

 フットサルのおかげで、友達が増えた。ろうの友達もできた。おかげで、手話ができるようになった。手話で会話する楽しさを知った。土日や、仕事帰りにもやっている。仕事だけでない楽しみもできて、充実した生活を送っている。

 

<インタビューを終えて>

 

 ゆきさんは、鉄道の駅員を経験して、ホームでの駅員業務、改札での切符作成、窓口でのお客さま対応など、自分なりに工夫し、努力し、接客の楽しさややりがいを知ったと言う。「接客は初めからあきらめることはないよ、やってみればできるし楽しいよ!」ということを後輩たちに伝えたいとインタビューをお願いした時にも言っていた。

 そういうポジティブなメッセージを第一声で伝えられるのは、改めてすごいなと思う。インタビューを進めてゆくと、同期が通常のコースを進む中で、自分だけ、駅員として残るという苦い経験もしていることがわかった。

 駅員としての接客業務は、想像以上に楽しかったのに、ホーム、改札、窓口いずれも誰かのサポートを必要とし、独り立ちできなかったことについては、その当時はきっと悔しい思いをしたのだろうと察する。

 また、後ろから話かけられて、無視するなとお客様にどなられた悔しい経験もあった。しかし、その経験を活かし、周りを自分から見回したり、自分から困っているお客様を探すようにしたという彼女の努力の姿が心に残る。へこんでいるばかりではないというのが彼女らしい。できなかったこと、させてもらえなかったことを全面に出して、困難さをアピールするというよりも、できる部分、楽しかった部分をアピールするところが、ポジティブで彼女らしいと思った。

 また、一緒に働く仲間にも、予めメールで、難聴があること、口元を見せてもらえると話がよみとりやすいことなどを伝えるなどして、理解を求めるところも、ゆきさんならではの根回しが、上手だなと思った。

 

  ゆきさんは、幼児期から芯のつよい子だった記憶がある。5歳頃だったか、療育施設で、みなでサッカーのまねごとをした時も、男の子に混じって、果敢に、強気でボールを取りにいく姿はとても印象に残っている。決して自己主張の強い目立つタイプではないが、意味なく引き下がることはなく、やりたいことはやりたいとはっきり意思表示する子だったように思う。一見おとなしそうだけど、1本筋が通っているというのが私の印象である。

 だから、大人になって、できれば同期と同じように新幹線の運転士がやってみたかったというのは、とてもゆきさんらしいと思えた。調べてみると、国の定めた法律「動力車操縦者運転免許に関する省令」では、運転士は「各耳とも5メートル以上の距離でささやく言葉を明らかに聴取できること」と決められている。聴力として何dBという基準ではないのが、ちょっと法律の古さ(昭和31年つまり1956年)を感じさせるが、乗客の安全を担う仕事として、きこえは条件の一つとなっている。

 医者、看護師、薬剤師などは、難聴があっても門戸が開かれているが、消防士、警察官、列車の運転士などは、まだハードルが高いのだろうか。命を預かるという面では、医師や看護師とて同じと思うが、少なくとも運転士などの方も、もう少し基準を今の時代に合ったものにしてほしいなという気がする。

 

 最後に、これはどちらかと言うと、私たちの、そして指導者側の課題なのだが、小学校の時、ノートテイクは、断ってしまったこと。皆と同じがよかったこと。については、小学校1年から「支援は受けるもの、受けることが当たり前」という空気を作ることも、私を含めて、大人の仕事、学校の仕事として大事だったのだろうと思う。クラスに対する理解授業なども当たり前になるといいなと思う。本人が恥ずかしくなってしまったり、目立つことが嫌になってしまう前に。支援を受けることが、当たり前で目立たないような社会になってほしいと思う。きっとクラスメートにも大切な学びとなるに違いない。

 

 

 

 

 



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