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戦争とどう向き合うか 伊藤千尋さん

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侵略されたとき、人はどうするか
 ロシアによるウクライナ侵略から間もなく2か月がたちます。この間、日本では「侵略されたとき、どうするか」という論争が起き、中には「ウクライナが降伏すべきだ」という不思議な意見をお持ちの方もいるそうで、ちょっとびっくりしました。
 これまで世界各地を取材してきました。日本のアジア・太平洋戦争、欧州の第2次世界大戦、ベトナム戦争などの当事者の話を聞き、中南米の内戦の現場を踏み、東欧革命では市街戦のさなかに突入取材しました。そうした中で思ったことがあります。人間には三つの責任があるのではないでしょうか。

 まず自分への責任です。自己を確立した人はその人なりの価値観を持っているでしょう。それは他人がとやかく言う筋合いのものではありません。命を基調とし「戦争になっても銃を取らない」と公言できる人は、むしろ勇気ある人だと思います。
 しかし、人間は一人で完結して生きているのではなく、社会的な存在です。2番目はその社会への責任です。周囲との関係の中で生き、生かされてきたからには、誰もが社会に対する責任を負うでしょう。社会が危機に陥ったときに「私は無関係」という態度をとるのは、社会に対する責任を果たしているとは思えません。
 たとえば大災害でみんなが助け合っているさいに知らんぷりしているのは、人間としてあるべき姿ではない。ウクライナの事態で言えば、目の前で家族が侵略者に殺されたりレイプされようとしているとき、黙って見ていますか?
 「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」というキリスト教でさえ、フランシスコ教皇が風刺画事件のさい「私の母を侮辱するならパンチが飛ぶだろう」と言いました。
 侵略されたとき、戦う人が少なければ侵略者を押し返す力もそれだけ弱くなります。周囲の人が侵略者と戦っているときに逃げるのは、はっきり言って卑怯だと思います。別に武器を持たなくても負傷者の世話や食料の調達など、できることはいくらでもあります。社会への責任を果たすべきです。
 第3に人類への責任です。侵略者という存在に対して人類としてはどうすべきでしょうか?抵抗もせず手をあげて相手の言うなりになるのは「奴隷の平和」であり、「悪」を認めることです。人類の歴史を後退させることだと思います。
 人間は歴史の中で進歩してきました。戦争の歴史は、同時に平和を創る歴史でもありました。戦争が続いた欧州でドイツの哲学者カントが『永遠平和のために』を著したのは1795年です。その中で軍隊の廃止や侵略戦争の放棄、国際調停機関など今日につながる「平和の構築」の処方箋を示しました。人類はその道に沿って平和のための地球づくりを、ゆっくりながら着々とやってきました。

 国連が役に立たないと切り捨てるのは間違っています。国連に対する世界の国の収斂は進んでいます。過去を振り返ると、ベトナム戦争で国連は何もできなかった。イラク戦争では武力行使容認決議を否決する段階に進歩したものの、非難決議はありませんでした。2014年のロシアのクリミア併合ではロシア非難決議をあげ、賛成は100でした。今回のロシア非難決議は賛成141です。侵略した大国への非難決議をこれだけ多数の賛成で成立させたのです。国連改革を叫ぶ声は人々が国連に期待している証拠です。
 こうした反戦や人権の流れを創る責任は、国連や政府だけではなく個人にもあります。先の投稿でも書きましたが、10年前にウクライナのオデッサ(オデーサ)を訪れたさい、第2次世界大戦でナチスに虐殺されようとするユダヤ人を助けようとして銃殺されたウクライナの市民42人の記念碑を観ました。そこには「一人の命を救った人は、世界を救った人だ」と書かれていました。
 そう、歴史を進めるのは、私たち一人一人です。ヘミングウェーの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭にジョン・ダンの詩があります。「そはわれもまた人類の一部なれば/ゆえに問うなかれ/誰がために鐘は鳴るやと/そは汝がために鳴るなれば」。スペイン内戦に義勇兵として参加した人間の行動を描いたこの作品、僕は好きですね。彼の『武器よさらば』はもっと好きですが。
 もっとも、あくまで平和主義を貫いて戦場を捨てる人類的な生き方もあります。朝鮮戦争のさいに徴兵を嫌った米国のキリスト教徒の一派は米国を逃れ、平和憲法ができたばかりのコスタリカに集団移住しました。そこで豊かな森を開発から守る環境保全に尽くし、自然と人間のつながりを考えるエコツアーを創始しました。今日いや、未来につながる人類の発展への貢献です。各地を取材して非暴力による抵抗の強さを感じます。そして抵抗から創造へと向かうこうしたケースが最善なのでしょう。
 ともあれ、具体的な事態の想定もないまま批判ばかり先立つ論争はやめませんか?今はウクライナで困っている人々の支援と反戦の主張を叫ぶ時です。それに、3か月後の参議院選挙の結果によっては、憲法9条が無くされるかもしれない。私たちが為すべき闘いは目の前にあります。
 画像はコスタリカで「木の妖精」と呼ばれるカエルさん。エコツアーのさいに撮影したものです。

(ここまで)
考えさせられますね。

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