神様との日々をまったりとアップgooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

自分自身のために祈る(本) その④

2021-04-19 23:50:36 | 日記
自分自身のために祈る(本)より続き
④の部分
<赦せない時には>
 赦しというのはもともと決して簡単ではありません。でも時々、自分をボロボロにしたすさまじい苦痛を思うと、赦すなんて全く不可能だとまで感じます。もしだれかを赦すのに困難を覚えたら、神に助けを求めてください。母を赦す時、私はそうしました。そして母が亡くなるころまでには、母に対するかたくなな気持ちが全くなくなっていました。もしも赦すのが難しいと思える人がいるのでしたら、その人たちを赦す心が持てるように神に祈り求めてください。赦せない人たちのために、思いつく限りの祈りで祈ってあげましょう。私たちが人々のために祈る時、神がどれほど私たちの心を和らげてくださるかは、本当に驚嘆するほどです。私たちの怒りや恨み、傷が、愛に変えられるのです。
 でも、心配しないでください。私たちがだれかを赦す時に、それでその人たちが正しいとされたり、彼らのしたことが正当化されるのではありませんから。私たちは赦すことで、彼らを神の御手にゆだね、神ご自身が彼らを取り扱ってくださることができるようにしているのです。赦すことは、実は最高の復讐なのです。なぜなら、そうすることで私たちは、赦す相手から自由になれるだけでなく、神が用意してくださっているすべての祝福の中で生きていけるように解放されるからです。だれかを赦すということは、相手が罪を認めることや謝罪することに基づくものではありません。もしもそうなのであれば、私たちのほとんどが、決して赦すことなどできないでしょう。ほかの人がどうしようと、私たちは赦すことができるのです。
 人生には時々、その出来事ゆえに負った苦々しい気持ちがどれほど深いものであるかに長年気づかず過ごしてしまえるほど、あまりにもひどく心をボロボロにする出来事が起こります。時折私たちは、自分自身が犯してしまったことについて自分を赦せなくなり、自分がしてしまった何か、あるいは、しなかった何かについて、生涯自分を罰し続けようとします。また時には、何か起こってしまった出来事について、神を責めています。これらのことで、何かあなたの本当の姿と重なるものがないか、神に真実を示してくださるように祈り求めましょう。あなたの赦せない思いのせいで、神があなたの人生になさりたいと思っていることを制限してしまうのは、あまりにも悲しく損なことではありませんか。
続く

自分自身のために祈る(本) その③

2021-04-19 23:50:36 | 日記
③部分
<まず家族から>
家族に対して赦せない思いを抱くのは、いとも簡単です。家族はいちばん長く一緒に過ごし、私たちを最もよく知り、深く傷つけることができるからです。しかし、まさにこの理由で、家族のだれか一人に対して抱く赦せない思いが、私たちの人生に最大の荒廃をもたらします。だからこそ、赦しをまず家の中から始めなければならないのです。
 まず第一に、両親を赦しているかを確かめることがとても大切です。聖書はこの問題について非常にはっきりしています。十戒の第五の戒めはこう言っています。
*出エジプト記20:12
あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。
もしあなたが両親を敬わないなら、あなたの人生を縮めてしまいます。そして両親を赦していなければ、完全に尊敬することはできないのです。
 私が母を赦そうと決め、実行できたのは、神に従いたいためと、神が備えてくださっている祝福すべての中で生きたいためでした。もう大人になっていたので、うまくいったのだと思います。しかし、一回母を赦せたからといって、もう二度とそれについて心配しないでよくなるのではありません。私の内側には長年積み上げられてきた赦せない思いが幾重にも重なって存在し、その中の一つが表面に出てくるたびに、そのつど母を赦さなければならないことに気づきました。実際は母に会うたびに、毎回赦さなければなりませんでした。母の病状は年々悪化するばかりだったからです。
 ある日だれかに対する赦せない思いを告白したからといって、もうそれで二度と、赦せない思いを持たなくなるということにはなりません。だからこそ、赦しは私たちが「毎日」すべき選択なのです。自分がそうしたいか否かに関係なく、赦すことを選び取るのです。それは決断することであって、感じることではないのです。もし私たちが良い気分、良い感情が訪れるのを待っているなら、一生待ち続けることになりかねません。どんな苦々しさや赦せない気持でも持ち続けているなら、手放すという選択を自分がしていないのであって、それは常に私たちの過ちです。神に告白し、私たちが赦して前進していけるように助けを祈り求める責任が、私たちにあるのです。
 また、だれか家族に赦すべき人がいないか、示してくださるよう神に祈り求める必要があります。私たちは、自分が人を赦せない人間だとはあまり考えない傾向にあります。いらいらしたとしても、赦せないほどではない、と思います。でも思い出してください。私たちの基準は神の基準よりも著しく低い物であることを。そしてそのゆえに、私たちはしばしば、赦すべき事柄を、そうと認めないのだということを。家族のだれかに対してあなたが持っている、どんな赦せない気持ちも示してくださるように、神に祈り求めましょう。それが解決されるまでは、ずっと惨めな気持ちを引きずることになります。
続きは後日(笑)さすがに体力の限界です。
おやすみなさい

自分自身のために祈る(本) その② 

2021-04-19 23:50:36 | 日記
②部分
<優れた選択>
 私は「憎しみ」が非常に強いことばだと知っています。そして私たちはどんなことについても、「憎い」とか「嫌い」と言うのを嫌がります。自分がだれかに対する憎しみを実際に抱いたかもしれないと考えることさえ嫌います。しかし、それこそが赦せない思いというもの――憎しみの根なのです。赦せない思いを心に抱く時、それらは私たちの内側で憎しみに変化するのです。イエス様はこのことについてとても強く感じておられました。こう記されています。
*Ⅰヨハネ3:15
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。
またこうもおっしゃいました。
*マルコ11:25
また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対して恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。
 ここで少し整理しましょう。私たちが赦さない時、私たちは永遠への希望を少しも持たない殺人者と見なされ、他人を赦すまでは、自分への神の赦しを期待すべきではない者となるのです。つまり、もし赦すか赦さないかの問題なのであれば、赦すほうがはるかに良い選択に思われると申し上げたいと思います。
 赦さないことを選ぶ時、私たちは暗闇の中を歩くようになってしまいます。
*Ⅰヨハネ2:9-11
光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。
自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちに
はつまずきがありません。
しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。
物事をはっきりと見られなくなり、混乱の中でつまずくからです。赦せない思いは私たちの判断力を働かなくさせ、私たちは過ちを犯します。私たちは弱くなり、病気になり、苦々しくなります。周りの人々はこのすべてに気づきます。なぜなら赦せない思いは、その思いを持つ人の表情やことば、行動に現れるからです。たとえそれが何なのかはっきり確認できなくとも、人々はそれを見、その周りにいるのが居心地悪く感じます。私たちが赦す選択をする時、それは私たちの益となるのみならず、周りの人々にとっても恵みとなります。

自分自身のために祈る(本)より 『主よ、私が赦す人になれるよう助けてください』 その1

2021-04-19 23:46:42 | 日記
自分自身のために祈る(本)より
『主よ、私が赦す人になれるよう助けてください』
①部分
 私は大人になるまで母から虐待されましたが、父からひどい扱いを受けたことはありませんでした。クリスチャンになった時、母を赦すべきだということは、はっきりわかりました。それからずっと何年もたって、神は、父に対して赦せない思いを私が抱いていることを明らかになさいました。私の魂にある落ち着かなさとフラストレーションについてクリスチャン・カウンセラーと話していた時に、彼女から、「お父さんに対する赦せない思いを持っていはしませんか」と聞かれ、私は「持っていません」と答えました。父は虐待したりしなかったのに、どうしてそんな思いを抱くでしょう。でもそのカウンセラーから真実を示してくださいと神に祈り求めるように言われた時、それまでの生涯ずっと抱えてきたものすごい憤怒と傷、赦せない思い、涙が噴き出して、私の全存在から洪水のようにあふれ出ました。私は心の奥底で、父が決して私を救いに来なかったと感じていたのです。私が幼かったころ、母はあまりにも頻繁に私を長時間物置に閉じ込めました。父は一度も、私を出しに来てくれませんでした。
母が深刻な精神の病に冒されていると知りつつ、私を残酷に虐待するままにさせた父を、私は心の中でどれほど責めていたかに気づいていなかったのです。ついに父を赦した日、それまで一度も味わったことのない平安を感じました。
私たちはしばしば、自分の中の赦せない思いに気づかずにいます。自分は赦していると考えていても、本当は赦せていなかったりします。もしも、自分の中の赦せない気持ちを示してくださるよう神に祈り求めずにいるなら、赦せない思いから来る人生を麻痺させてしまう束縛から、生涯、決して解放されないかもしれません。自分の人生が神の御前にきよく正しいものであると確信するには、ほかの人々を赦しているかどうかが大きくかかわってきます。赦さない限り、決して、神が私たちのために備えてくださっている祝福すべての中で生きていくことはできません。