プロフィールにもあるとおり、オイラは司馬遼太郎が好きで、
特に「街道をゆく」がお気に入りだ。
まことに残念ながら、司馬遼太郎は街道シリーズで加賀、能登に訪れなかった、
街道をゆくは司馬遼太郎の最晩年の作品だけに、もう少し長生きしていただけたのならと
悔しい思いもあったりする。
オイラは以前より司馬遼太郎が「街道をゆく18 越前の諸道」で訪れた勝山市の平泉寺に行ってみたいと思っていた。
ちなみに「越前の諸道」の冒頭の文はこうである。
かねがね越前の九頭竜川ぞいを上下してみたいとおもっていたが、この秋十月のはじめ(昭和五十五年)、須田画伯をさそって、念願を遂げることができた。
さて、オイラはその越前、勝山へは
鶴来から白峰を通過し勝山に入る山の県道157号線で行くことにした。
よし準備万端!レッツGO
だいたいトロピカーナオレンジがお供にある
手取川ダムだ。
以前ここをスタートに日本海まで辿る手取川紀行をしました。(ようやるわ)
手取湖の水面がキラキラと
さらに進むと恐竜パークの入口
恐竜は福井勝山の福井県立恐竜博物館が全国的に有名だからね。
こっちも頑張れ!
ちょうどこの場所の手取湖対岸に
桑島化石壁がある。
あの壁からいろいろ恐竜の化石が出るらしい。
さらに進む、
横を流れる川も雪解け水で流れが速い。
おっこれは!
白山眺望とある
いいねぇ
お~白山が近い!
白峰では白山が近すぎて拝めないと思っていたから、こんな場所に白山眺望のいいポイントがあったんだ
そして・・・・
福井県に入県!
こういうのがすぐ出てくるとワクワクするね
福井は水処
お約束のちゃぷちゃぷin勝山
そして、
平泉寺の入口に着いた・・・
これが菩提樹の林ということをオイラは知っている。
「越前の諸道から」
勝山の町から平泉寺までは、細い道がつづいている。
やがて前方に、平泉寺の歴史的象徴ともいうべき菩提林が見えてきた。かつて禅定道とよばれた境域への入口にある小森林である。
「いい森でしょう」
私は、須田画伯にいった。十数年前、水田の尽きるはてのあるこのみごとな杉の森を見た時の感動を、画伯につたえたかった。
この菩提林から、もうしばらく車で進むと無料駐車場があった。
GWだけに駐車場所には少し心配していたが大丈夫だった。
そばに池があって、鯉の子供がいっぱい泳いでいたのに驚いた。
白山平泉寺歴史探遊館まほろば
入館無料というのがうれしい
館内は撮影禁止、境内マップをもらった。
ここでしばし学習して、
いざ平泉寺境内に。
平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)は、
717年(養老元年)、泰澄によって開かれたという。中世以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られるようになり、豊原寺と双璧をなした。白山信仰の越前側の禅定道の拠点(越前馬場)として山伏僧兵が集まるところとなり、朝倉氏の保護を受けていた室町時代後半の最盛期には、48社、36堂、6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成した。
白山神社!?
全国2000社の白山神社の総本宮は加賀の白山比咩神社となるが、
この平泉寺白山神社はどうもその系列ではないようである。
いや~これは凄いなぁ・・・
壮大、荘厳、・・・とにかく凄いです。
少し脇に入ると、
御神木があって、その前に
神秘的な池があって、御手洗池(平泉)と呼ぶ。
あの池中にある影向岩より権現が現れたという。
平泉寺の名前の由来の場所である。
この森林から指す光がまた感動的で・・・木漏れ日という現象
いよいよ
出ました!このポイント。
ここですね。
この樹木と苔の関係がいいんだよねぇ
「越前の諸道から」
「こんな苔、見た事がありません」
須田画伯はうずくまってしまった。
「この苔の色は、日本画でいう白緑(びゃくろく)ですね」画伯がつぶやいた。
~(中略)~
京都の苔寺の苔など、この境内にひろがる苔の規模と質からみれば、笑止なほどであった。
しかも、苔寺は金をとって収入を得ているが、平泉寺は無料であった。すでに社寺の観光化と金儲けが常識になっていた時代だけに、このことも胆にひびくほどおどろかされた。
本社の段にのぼって拝殿の林間を見おろすと、繰りかえしのべてきている樹々と木漏れ日と苔のおもしろさが一段と立ちまさっている。
ちなみに今日現在でも
駐車場、資料館入館、境内拝観、すべて無料でした。
さてこの拝殿
前から気になっていたが、この拝殿は常にこの雨戸のようなもので閉めきっているのだろうか・・・。
本殿の後ろにある本社
さらに奥があって、三之宮に向かう
えっほ、えっほ
当時すでに高齢だった司馬遼太郎にしてみたら、この道のり厳しかっただろうね。
「越前の諸道から」
さらに登ってついに三之宮にいたるのだが、これよりさきは、はるかに道は白山の天嶺につづいている。三之宮の前で、尻腰をついて息を入れてしまった。
これか
白山禅定道平泉寺参拝口とある
ここから登るのか
さて、しばらく戻ってから、
司馬遼太郎が訪れた時にはおそらくなかった南谷発掘地に向う。
このマップは大いに役に立った。
昔の平泉寺はホントに広かったようだ。
復元された門・土塀
発掘して出てきた中世の石畳
マップを見ながらいろいろ歩くことができた。
ふむふむ
駐車場まで戻ってきて、おみやげ屋に入り
昼食にした。
やっぱ、ここは越前おろしそばだよね。
「越前の諸道から」
「こういう町は、そばがうまいんです」
私は期待とともにひと箸大きくあげ、勢いこんで一口すすりこんだ。平泉寺の門前の町らしく、何とはなく古格な味がしないでもなかった。
驚いたことに、その隅にマンガや雑誌といっしょに
寂円さま物語という書籍が置いてあった。
司馬遼太郎は、越前の諸道ではこの寂円のことについてかなり割いていた。
オイラも最初、寂円に深い関わりのある宝慶寺に行こうかとも思ったが、
やめた・・・。
やっぱり平泉寺の方が絶対絵になると思ったから
(それは正しかったと思う)
平泉寺は良かったです。
司馬遼太郎が感動しただけのことはあります。
あの林と苔と木漏れ日と・・・。
さて無視し続けようと思ったが、どうしても眼中に入ってくるので、
載せますが・・・・
あえて誤解を恐れず言わせてもらえば、この模擬天守城は良くない・・・
┐(´д`)┌
大金持ちさんが良かれと思って建てたらしいが、こういうのは何の意味があるんだろう・・・。
さて、帰りも白山道を通って帰るが、やっぱりあの白山眺望場所が気になって、
もう一度立ち寄った。
さらに、いい撮影ポジションを求めて・・・
はい!
スマホ画像だから、これが限界
実際はまことに美しいのです・・・。
最後に今日訪れた平泉寺について、司馬遼太郎の言葉を借りて文書をとじます。
「越前の諸道から」
勝山の宿で、平泉寺を訪れる人の数はおおぜいですか、ときくと、さほどではありません、という答えがもどってきた。ひとつには社家である平泉家が観光時代の猥雑さをきらい、無用の宣伝をせず、観光バスの誘致をせず、ひたすらに境域の静謐(せいひつ)をまもっているためでもある、という意味のことを宿のおかみさんが、敬意をこめていった。宿としてそれをありがたく思っているというのも、当節、得難いけなげさといわねばならない。
【ヒゲ親父】
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特に「街道をゆく」がお気に入りだ。
まことに残念ながら、司馬遼太郎は街道シリーズで加賀、能登に訪れなかった、
街道をゆくは司馬遼太郎の最晩年の作品だけに、もう少し長生きしていただけたのならと
悔しい思いもあったりする。
オイラは以前より司馬遼太郎が「街道をゆく18 越前の諸道」で訪れた勝山市の平泉寺に行ってみたいと思っていた。
ちなみに「越前の諸道」の冒頭の文はこうである。
かねがね越前の九頭竜川ぞいを上下してみたいとおもっていたが、この秋十月のはじめ(昭和五十五年)、須田画伯をさそって、念願を遂げることができた。
さて、オイラはその越前、勝山へは
鶴来から白峰を通過し勝山に入る山の県道157号線で行くことにした。
よし準備万端!レッツGO
だいたいトロピカーナオレンジがお供にある
手取川ダムだ。
以前ここをスタートに日本海まで辿る手取川紀行をしました。(ようやるわ)
手取湖の水面がキラキラと
さらに進むと恐竜パークの入口
恐竜は福井勝山の福井県立恐竜博物館が全国的に有名だからね。
こっちも頑張れ!
ちょうどこの場所の手取湖対岸に
桑島化石壁がある。
あの壁からいろいろ恐竜の化石が出るらしい。
さらに進む、
横を流れる川も雪解け水で流れが速い。
おっこれは!
白山眺望とある
いいねぇ
お~白山が近い!
白峰では白山が近すぎて拝めないと思っていたから、こんな場所に白山眺望のいいポイントがあったんだ
そして・・・・
福井県に入県!
こういうのがすぐ出てくるとワクワクするね
福井は水処
お約束のちゃぷちゃぷin勝山
そして、
平泉寺の入口に着いた・・・
これが菩提樹の林ということをオイラは知っている。
「越前の諸道から」
勝山の町から平泉寺までは、細い道がつづいている。
やがて前方に、平泉寺の歴史的象徴ともいうべき菩提林が見えてきた。かつて禅定道とよばれた境域への入口にある小森林である。
「いい森でしょう」
私は、須田画伯にいった。十数年前、水田の尽きるはてのあるこのみごとな杉の森を見た時の感動を、画伯につたえたかった。
この菩提林から、もうしばらく車で進むと無料駐車場があった。
GWだけに駐車場所には少し心配していたが大丈夫だった。
そばに池があって、鯉の子供がいっぱい泳いでいたのに驚いた。
白山平泉寺歴史探遊館まほろば
入館無料というのがうれしい
館内は撮影禁止、境内マップをもらった。
ここでしばし学習して、
いざ平泉寺境内に。
平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)は、
717年(養老元年)、泰澄によって開かれたという。中世以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られるようになり、豊原寺と双璧をなした。白山信仰の越前側の禅定道の拠点(越前馬場)として山伏僧兵が集まるところとなり、朝倉氏の保護を受けていた室町時代後半の最盛期には、48社、36堂、6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成した。
白山神社!?
全国2000社の白山神社の総本宮は加賀の白山比咩神社となるが、
この平泉寺白山神社はどうもその系列ではないようである。
いや~これは凄いなぁ・・・
壮大、荘厳、・・・とにかく凄いです。
少し脇に入ると、
御神木があって、その前に
神秘的な池があって、御手洗池(平泉)と呼ぶ。
あの池中にある影向岩より権現が現れたという。
平泉寺の名前の由来の場所である。
この森林から指す光がまた感動的で・・・木漏れ日という現象
いよいよ
出ました!このポイント。
ここですね。
この樹木と苔の関係がいいんだよねぇ
「越前の諸道から」
「こんな苔、見た事がありません」
須田画伯はうずくまってしまった。
「この苔の色は、日本画でいう白緑(びゃくろく)ですね」画伯がつぶやいた。
~(中略)~
京都の苔寺の苔など、この境内にひろがる苔の規模と質からみれば、笑止なほどであった。
しかも、苔寺は金をとって収入を得ているが、平泉寺は無料であった。すでに社寺の観光化と金儲けが常識になっていた時代だけに、このことも胆にひびくほどおどろかされた。
本社の段にのぼって拝殿の林間を見おろすと、繰りかえしのべてきている樹々と木漏れ日と苔のおもしろさが一段と立ちまさっている。
ちなみに今日現在でも
駐車場、資料館入館、境内拝観、すべて無料でした。
さてこの拝殿
前から気になっていたが、この拝殿は常にこの雨戸のようなもので閉めきっているのだろうか・・・。
本殿の後ろにある本社
さらに奥があって、三之宮に向かう
えっほ、えっほ
当時すでに高齢だった司馬遼太郎にしてみたら、この道のり厳しかっただろうね。
「越前の諸道から」
さらに登ってついに三之宮にいたるのだが、これよりさきは、はるかに道は白山の天嶺につづいている。三之宮の前で、尻腰をついて息を入れてしまった。
これか
白山禅定道平泉寺参拝口とある
ここから登るのか
さて、しばらく戻ってから、
司馬遼太郎が訪れた時にはおそらくなかった南谷発掘地に向う。
このマップは大いに役に立った。
昔の平泉寺はホントに広かったようだ。
復元された門・土塀
発掘して出てきた中世の石畳
マップを見ながらいろいろ歩くことができた。
ふむふむ
駐車場まで戻ってきて、おみやげ屋に入り
昼食にした。
やっぱ、ここは越前おろしそばだよね。
「越前の諸道から」
「こういう町は、そばがうまいんです」
私は期待とともにひと箸大きくあげ、勢いこんで一口すすりこんだ。平泉寺の門前の町らしく、何とはなく古格な味がしないでもなかった。
驚いたことに、その隅にマンガや雑誌といっしょに
寂円さま物語という書籍が置いてあった。
司馬遼太郎は、越前の諸道ではこの寂円のことについてかなり割いていた。
オイラも最初、寂円に深い関わりのある宝慶寺に行こうかとも思ったが、
やめた・・・。
やっぱり平泉寺の方が絶対絵になると思ったから
(それは正しかったと思う)
平泉寺は良かったです。
司馬遼太郎が感動しただけのことはあります。
あの林と苔と木漏れ日と・・・。
さて無視し続けようと思ったが、どうしても眼中に入ってくるので、
載せますが・・・・
あえて誤解を恐れず言わせてもらえば、この模擬天守城は良くない・・・
┐(´д`)┌
大金持ちさんが良かれと思って建てたらしいが、こういうのは何の意味があるんだろう・・・。
さて、帰りも白山道を通って帰るが、やっぱりあの白山眺望場所が気になって、
もう一度立ち寄った。
さらに、いい撮影ポジションを求めて・・・
はい!
スマホ画像だから、これが限界
実際はまことに美しいのです・・・。
最後に今日訪れた平泉寺について、司馬遼太郎の言葉を借りて文書をとじます。
「越前の諸道から」
勝山の宿で、平泉寺を訪れる人の数はおおぜいですか、ときくと、さほどではありません、という答えがもどってきた。ひとつには社家である平泉家が観光時代の猥雑さをきらい、無用の宣伝をせず、観光バスの誘致をせず、ひたすらに境域の静謐(せいひつ)をまもっているためでもある、という意味のことを宿のおかみさんが、敬意をこめていった。宿としてそれをありがたく思っているというのも、当節、得難いけなげさといわねばならない。
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