ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

平成の大事件

2019-04-30 11:27:11 | 日記
きょうで平成30年の世が終わるとあって、テレビも新聞も「平成30年特集」のオンパレードである。私もこれにあやかり、平成の世でいちばん印象的だった出来事は何か、歴史を変えたと思われる出来事は何かを考えてみた。阪神淡路大震災(1995年、平成7年)とか、地下鉄サリン事件(同年)とか、衝撃的な出来事はいろいろ思い浮かぶが、一つだけあげるとすれば、なんといってもアメリカの同時多発テロ事件(2001年、平成13年)だろう。

ニューヨークの貿易センタービルへ仕向けられたこのテロ事件を受けて、アメリカはアフガンへ、イラクへと軍事攻撃を仕掛け、日本にも軍事攻撃への参加を強く要求した。同盟国・日本の軍事組織である自衛隊は、否応なく世界各地の「テロとの戦い」に巻き込まれていく。アメリカを標的にしたこのテロ事件は、(平和国家を標榜する)日本の、その国の形をも変えてしまったという意味で、日本国民である私には見過ごせない事件なのである。

このテロ事件を機に、軍事的緊張は「東西冷戦」から「北朝鮮VS.日米同盟」へと形を変え、(平和ボケした)日本国民にとって、戦禍はもはや対岸の火事ではなくなった。北朝鮮のミサイル攻撃を想定して、応戦のために高価な軍備品をアメリカから調達しようとする日本政府の方針を、だれも批判できなくなった。安保法を制定して、米軍との絆を強めようとする日本政府の方針を、(多くの批判があったにもかかわらず)野党は押し止めることができなかった。

このテロ事件を機に、日本は確実に国の形を変えたが、対照的なのは、フクシマの原発事故(2011年、平成23年)である。東日本大震災と同時に起こったこの大事故は、言うまでもなく日本国内の出来事であり、日本国民に与えたインパクトは、ニューヨークで起きたテロ事件の比ではない。しかしこの出来事は、日本の国の形を変えなかった。日本政府はこの大事故のあとも、国の形を変えようとしなかった。多くの犠牲者が出たというのに、日本政府は原発を廃止するどころか、逆に原発の再稼働を推進しようとする始末である。フクシマの原発事故など、まるでなかったかのような対応なのだ。

平成30年の世が終わろうとする今、過ぎ去ろうとする平成の記憶とともに、我が日本政府のこうした無為無策を見過ごすことは、断じてあってはならない。そう考える天邪鬼爺のきょうこの頃である。
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連休に便乗して、自主休業したよ

2019-04-29 13:55:35 | 日記
きょうは10連休の・・・はて、何日目なのだろう。2日目だったか、3日目だったか、まあ、そんなことはどうでも良い。ともかく私は、この連休にあやかって、リハセンへの出勤を休むことにした。私が週に一度通うデイサのリハセンは、世の休日には関係なく、正月ぐらいしか休みにならないのである。

怠惰癖のある私は、何かと口実をもうけては「自主休業」をしている。きょうはあいにく天候に恵まれず、雨の降る気配が見当たらないので、「気分がすぐれない」という口実を使うことにした。

これは決して嘘ではない。最近は、リハセンに行くことを考えるたび、私は気が重くなるのである。私が通うリハセンでは、このところ毎週のように部屋の模様替えを行っている。収容人数を増やすためだという噂がある。真偽の程は判らないが、問題は、模様替えを重ねるたび、私にとっては、この施設での移動の難易度が増し、このリハセンが、くつろげない難行苦行の施設になっていくことである。

施設で過ごす時間のほとんどが緊張の連続で、とても疲れる。たとえば、通路の両側の壁が取り払われ、だだっ広い空間の中に立たされただけで、杖を突いてそこを歩く私の緊張は、一挙に倍加する。筋トレマシンまで移動する時間のほうが、筋トレマシンに取り組む時間よりも数倍疲れるという、皮肉な成り行きなのである。

こんなしんどい思いをして、それがどんな意味を持つのだろう、と私は考えた。「なに、それもリハビリですよ」と言う人がいるが、そんな苦行はリハビリとしては何の意味も持たない。私はそう思っている。

あるとき、こんな考えがふと脳裏をよぎった。「このリハセンは、私のような障害者をふるいにかけ、やめさせようとしているのではないか?代わりに、より軽度の、杖なしで歩ける『要支援』の高齢者を、もっと増やそうとしているのではないか?」
よし、それならそれで構わない。一向に構わない。こんな施設にーー営利優先のこんな施設にーーこだわらなければならない理由など、私にありはしないのだ。

善は急げである。私はこのリハセンをやめたいと思っている旨を、さっそくケアマネさんに伝えた。もっと自分に合ったリハビリ施設をさがしたいので、体験入所の手配をしてくれないか、とお願いした。連休が明けたら、追々2、3の施設に当たってみようと考えている。
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連休の日に親鸞を思う

2019-04-28 14:46:18 | 日記
我が家では今年1月から読売新聞を購読している。私が毎朝、楽しみに目を通すのは「人生案内」の欄である。悩みの相談に対して「識者」が回答するという、何の変哲もない企画だが、それが存外おもしろい。他人の悩みをおもしろがるというのは、悪趣味だろうか。

先日、その欄に「死が怖くてたまらない」という次のような投書があった。
「30歳の時、洗濯物を干している最中に『死んだらどうなるんだろう』と何となく考えたのが始まりです。その時、自分という存在がなくなって無になるという、真っ暗な深い穴をのぞいたような、どうしようもない絶望を感じました。ゾッとしました。それ以来、電車の中にいる時や夜寝る前などに、ふとその恐怖がやってくるのです。闇に閉じこめられるような恐怖です。
昨年、祖母を亡くしました。身内の死は耐え難いものですが、私の場合は自分が無になる、という恐怖の方が大きいのです。
死は誰にでもやってきて、逃れることはできません。みんなどのように折り合いをつけているのでしょうか。逃れることができないのなら、死を受け入れるためにどうすればいいのでしょうか。」

この投書が私の記憶に残ったのは、ここに書かれた「恐怖」の感覚が、私には馴染み深い感覚だったからである。この感覚を仮に「虚無感覚」と名づけるとすれば、この虚無感覚は若いころ私をしばしば襲って、大きな頭痛の種になった。この感覚に襲われたとき、私は発狂したように大声で叫びたくなるのである。
老いぼれになった近ごろでは、この感覚に襲われることはさすがに少なくなったが、それでも全く無縁になったわけではない。

話は変わるが、私はそのころ『歎異抄』に興味を持ち、これに関連する本を読みはじめていた。解説本『歎異抄をひらく』(高森顕徹著)には、以下のような宣伝文句が添えられている。
「生き方、人生を見つめ直す時に、手にとりたい日本の名著として、今なお高い人気を誇る『歎異抄』。その魅力は、「一切の書物を焼失しても『歎異抄』が残れば我慢できる」(哲学者・西田幾多郎)、「『歎異抄』よりも求心的な書物は、おそらく世界にあるまい。文章も日本文として実に名文だ。国宝と言っていい」(小説家・倉田百三)など、知識人たちの心をもとらえて離さない。」(アマゾンのHPより)

私が『歎異抄』に興味を持ったのは、こんな宣伝文句を読んだためかも知れない。
もっとも、この宣伝文句は私にとって、あくまでも一つのきっかけに過ぎなかった。もともと私は、親鸞の「他力」の思想につよい共感をおぼえていた。この「他力」の思想を、私は、「自分の力ではどうにもできないことがある。自分の力では、自分を救うことはできないのだ」と説く思想として理解したが、このような思想を唱導した親鸞がどういう人物なのか、私はもっと詳しく知りたいと思っていた。

にもかかわらず、私がすぐに『歎異抄』に向かわなかったのは、仏教思想そのものに一種わだかまりのようなものを感じていたからである。「阿弥陀仏が私を救ってくださる」という教えが、私にはどうしても受け入れられなかった。(「救世主のイエス様が私を救ってくださる」というキリスト教の教えも、私には同様である。私は宗教的人間ではないのだろう。)

そんな私のアンビヴァレンスを揺さぶったのが、読売新聞「人生案内」の投書だった。この投書を読んで、私はふと思ったのである。「救う」とは、そうした恐怖、一種の虚無感覚にとらわれた自分から、ーー悩める自分から、自分自身を解き放つことではないのか。そしてこの救済は、「阿弥陀仏が私を救いに来てくださる」という仏教の物語の中に、自分の身をおくことではないのか。悟りに向けた禁欲的な修行は、この共同幻想の中に自分の身をおくことを通して、それをリアルに体験し、この体験の積み重ねによって、虚無感覚(煩悩)にとらわれた自分を、自身から解き放つことではないのか。

そう考えたとき、私には『歎異抄』が身近に感じられるようになったのである。

きょうはうって変わって穏やかな快晴。きのう我が家に来た長女一家は、4人そろって近所の公園へ遊びに出かけた。そろそろ1歳になる2番目の孫は可愛い。キューピーさんのような丸々太った男の子で、まだ言葉は話せないが、彼がニコニコ笑顔を向けるだけで、私は何もかも忘れ、無条件に喜びを感じる。この喜びに理屈はいらない。私が読売「人生案内」の回答者だったら、「幼な子の温もりと笑顔を思い出しなさい」と答えるだろう。
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世は連休だけど

2019-04-27 13:58:08 | 日記
世間では、きょうから連休がスタートしたそうな。これから10日も休日が続くとあって、ニュースでは、駅や空港や高速道路は朝から混雑しているという。まあ、ヒッキー爺の私には関係のないことである。

考えてみれば、私は現役のころから、人さまが集まる場所を避けて暮らしてきた気がする。ゴールデンウィークに行楽地に出かけたことなど、これまで一度もない。幸か不幸か、我が家の子どもたちも(親に似て)人混みがあまり好きではなかった。

その子どもたちの1人、長女が、夫と子ども(私にとっては孫)2人を連れて、きょう我が家に帰ってくる。我が家に2泊して、連休の後半は一家でどこかに出かけるという。言い出しっぺが長女なのか、夫なのかはわからないが、娘夫婦は(私とは違って)一家での家族サービスも忘れてはいないようだ。子どもたちはまだ4歳と1歳である。どこに行くにしても大変なことだと思うが、それも若さのなぜるわざなのだろう。
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旧優生保護法 責めを負うのはだれか

2019-04-26 14:52:08 | 日記
70年ほど前のことになる。旧優生保護法に基づいて、多くの障害者たちに強制不妊手術が行われた。こんな理不尽が行われたのは一体なぜなのか。また、こんな理不尽を行ったのは一体だれなのか。その責任をだれがとるべきなのか。

かつて私は本ブログで次のように書いたことがある。
「日本で優生保護法が制定された1948年には、(世界的に見れば)優生学を危険なエセ科学と見なす思潮が形成されていた。こうした新しい思潮を無視し、優生学の負の側面に目を配ろうとしなかったこと、優生学を盲信して、これをあたかもマトモな科学であるかのようにとらえ、これに基づいて法律を制定したことが、当時の法曹界の最大の誤り(=過ち)だったと言えるだろう。
平成の世が終わろうとしている今、糾弾されるべきはこの誤り(=過ち)である。この過ちをおかしたのは「当時の法曹界」だと私は書いたが、さて、そうだとした場合、この過ちに対しては、だれが責任をとればよいのだろうか」
(2018年11月7日《優生保護法 改廃の根拠を問う(その3)》)

さて、このほど不妊手術の被害者を救済するための法律が、議員立法によって成立した。この法律の前文には、被害者が受けた多大な苦痛に対する「おわび」が明記されている。この法律ではこの「おわび」をする主体(主語)が「我々」という曖昧な表現になっているが、それはまあ良しとしよう。旧優生保護法は1948年に、与野党議員の主導で成立した。時代が違い、メンバーが異なるとはいえ、立法府(国会)の議員たちがこの悪法を立法した責任をとり、謝罪をするのは筋が通っている。

釈然としないのは、安倍首相が「政府としても真摯(しんし)に反省し、心からおわび申し上げる」と談話を発表したことである。首相は行政府(政府)の長であって、立法府(国会)の長ではない。安倍首相は「おわび」をする立場にはないのではないか。

それだけではない。救済法云々とは別に、不妊手術の被害者ら20人が国に損害賠償を求めて提訴し、全国7地裁で係争中だという。彼らは理不尽を行った責任が国にあるとみなし、国の責任を追及しているのである。

こういうことなのだろうか。旧優生保護法を制定したのは、国家(の一機関である国会)であり、それを執行したのは、国家(の一機関である内閣)である。よって、立法府と行政府を統轄する国家と、その最高責任者である首相が、この理不尽な行為の責めを負わなければならないのだ、と。

だが、責任を負うべき主体の、その外延をこのように拡大して捉えるならば、その究極は次のような朝日新聞の見解に行き着かざるを得ないだろう。
「旧法を作った国会、政策を進めた政府をはじめ、問題を放置してきた責任が社会全体に問われている。」
(朝日新聞社説4月25日《優生手術救済法成立 尊厳と共生を問い直す時》)

こうした見解に従うなら、理不尽な不妊手術を行った責任は、何よりもまず(世論をリードすべき)新聞に求められなければならない、ということになるだろう。当時の新聞は、優生学の非科学性をあばき、啓蒙する責任を負っていたと言うべきである。

だが残念なことに、「責任は自分たちにあるのだ」という自覚は、どの新聞にも見られない。朝日新聞も同断である。
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