何かに追い立てられるように、毎日、ブログのネタ探しに心を奪われ、汲々と日々を過ごす。そんなあくせくした生き方はすっぱりと放り出し、年寄りなら年寄らしく、時間を残らず自分のために用いるような、老年にふさわしい悠々自適の生き方をせよ。ーーそうセネカは言っていた。
その通りだ。残り少ないこの人生。何がおもしろくてそんな社畜営業マンのような窮屈な生き方をしなければならないのか。セネカの言葉にぐさりと胸を刺された私は、とりあえずブログ書きを止めることにしよう、と考えた。
さあ、これで良い。あとはだれのためでもない、この俺さまだけの時間だ。ーーそう考えた私は、久しぶりにのんびりと、ゆったりした時間を過ごした。
何をしたのか。何もしなかった。何を考えるでもなく、ボケーと新聞を読んだり、テレビを見たりして過ごしただけだった。
私は、索漠とした味気ない時間の流れに、ただボ〜と身を浮かばせていただけだったのかもしれない。漠とした予感はあったが、やがて私はそんな自分に倦み、時間を持て余しはじめた。
文章の一字一句にこだわり、推敲をくりかえしていた、きのうまでの自分。そんな自分を懐かしく感じはじめたのである。「そうだな。やはり、ブログ書きを止めるのは、止めよう!」そう私は思ったのだった。
とはいえ、これまでと全く同じではない。ネタが降りてきて、自分の中で書きたいと思う気持ちが高まったときに書く。ネタが降りてこなければ、書かない。
ネタが降りてこないのに、無理やりネタをでっち上げるような、そんな社畜もどきは止めよう。そう思ったのである。
思えば以前にも何度か、同じような決意をかかげたことがあった気がする。だが、この思いは徹底できなかった。結局は元の木阿弥である。
いったんブログ書きを始めてしまうと、何かに尻をたたかれたような気がしてきて、脇目も振らずネタ探しに邁進し、一匹の馬車馬に変身してしまう愚かな自分がいた。ネタが降りてこないのに、無理やりネタをでっち上げ、ブログ書きを毎日のノルマにしてしまう、社畜営業マンのような自分の愚かさは如何ともしがたかった。
今度こそはその轍を踏まないように、と考えた。馬車馬の自分にブレーキをかけるために、ブログ書きはきっかり週に一日だけにしよう。言ってみれば自粛基調の限定的な解禁である。
基本的に更新は週に一度。
その通りだ。残り少ないこの人生。何がおもしろくてそんな社畜営業マンのような窮屈な生き方をしなければならないのか。セネカの言葉にぐさりと胸を刺された私は、とりあえずブログ書きを止めることにしよう、と考えた。
さあ、これで良い。あとはだれのためでもない、この俺さまだけの時間だ。ーーそう考えた私は、久しぶりにのんびりと、ゆったりした時間を過ごした。
何をしたのか。何もしなかった。何を考えるでもなく、ボケーと新聞を読んだり、テレビを見たりして過ごしただけだった。
私は、索漠とした味気ない時間の流れに、ただボ〜と身を浮かばせていただけだったのかもしれない。漠とした予感はあったが、やがて私はそんな自分に倦み、時間を持て余しはじめた。
文章の一字一句にこだわり、推敲をくりかえしていた、きのうまでの自分。そんな自分を懐かしく感じはじめたのである。「そうだな。やはり、ブログ書きを止めるのは、止めよう!」そう私は思ったのだった。
とはいえ、これまでと全く同じではない。ネタが降りてきて、自分の中で書きたいと思う気持ちが高まったときに書く。ネタが降りてこなければ、書かない。
ネタが降りてこないのに、無理やりネタをでっち上げるような、そんな社畜もどきは止めよう。そう思ったのである。
思えば以前にも何度か、同じような決意をかかげたことがあった気がする。だが、この思いは徹底できなかった。結局は元の木阿弥である。
いったんブログ書きを始めてしまうと、何かに尻をたたかれたような気がしてきて、脇目も振らずネタ探しに邁進し、一匹の馬車馬に変身してしまう愚かな自分がいた。ネタが降りてこないのに、無理やりネタをでっち上げ、ブログ書きを毎日のノルマにしてしまう、社畜営業マンのような自分の愚かさは如何ともしがたかった。
今度こそはその轍を踏まないように、と考えた。馬車馬の自分にブレーキをかけるために、ブログ書きはきっかり週に一日だけにしよう。言ってみれば自粛基調の限定的な解禁である。
基本的に更新は週に一度。
ブログのタイトルを「ささやんの週刊X曜日」と変更したゆえんである。
諒とされたい。
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