ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

抗議デモと原油価格

2022-11-30 07:26:50 | 日記
風が吹けば桶屋が儲かる。なぜなのか、読者はご存知だろうか。ネットで調べると、こういうことのようだ。

(1)大風が吹けば土埃が立ち、盲人などの眼病疾患者が増加する。
(2)盲人などが三味線を生業とし、演奏方法を指導したり、門付で三味線を演奏するので、三味線の需要が増える。
(3)三味線製造に猫の皮が欠かせないため、猫が多数減り、鼠が増加する。
これら鼠は箱の類(桶など)をかじることから、桶の需要も増加して桶屋が儲かる。
(Wikipedia より)

ふむふむ。出来事同士の結びつきが意外すぎて、つい笑ってしまうが、その結びつき自体はあり得ないことではない。一応、理解できる話ではある。

どうしても分からないのは、「中国で政権批判の抗議デモが起きると、中国の原油価格が下がる」ということ、また、それがなぜか、ということである。次のようなニュースがあった。

アジア時間の原油先物は、中国の厳格な新型コロナウイルス規制に対する抗議活動を受けて需要懸念が高まり、1ドル超下落した。ロシア産石油の価格上限を巡る西側の合意や主要産油国の会合を前に、投資家は慎重な姿勢を崩していない。
(ロイター11月28日配信)

抗議デモが起きると、「(原油の)需要懸念が高まる」とあるが、これはどういうことなのだろうか。抗議デモが起きると(中国人民は原油をあまり消費しなくなるから?)原油の需要が減ると懸念される」ということなのだろうか。

原油の需要が減れば、原油の価格は下落するから、たしかに私が投資家なら、私は中国の原油先物相場への投資を手控えるだろう。

だが、抗議デモが起きると、どうして中国の原油需要は減るのだろうか。なぜ中国の人民は原油を消費しなくなるのだろうか。

まずは抗議デモが起きると、どういう事態が次に生じるかを見てみることにしよう。充分あり得るのは、一連の抗議活動に対する政権側の厳しい対応である。

中国では週末、首都・北京や上海などで『ゼロコロナ』政策に対する大規模な抗議活動が行われ、集まった人たちが『自由がほしい』などと訴えましたが、警察は一部を拘束するなどして批判を抑え込む姿勢を鮮明にしています。
北京や上海の現場では、28日も多くの警察官や警察の車両が配備されたり、バリケードを設置したりしてものものしい雰囲気となっていました。

(NHK NEWS WEB 11月29日配信)

容易に想像できることだが、警察官が市街のあちこちに多数配備される物々しい警備体制を前にすれば、人々の心からは「ひとつディズニーランドにでも行って羽を伸ばしてくるか」といった遊び心は消え失せ、ディズニーランドのような娯楽施設は軒並み閑古鳥が鳴くことになる。

商売は上がったり、「ゼロコロナ」政策の追い打ちを受ける恰好で、娯楽施設は閉鎖の危機に見舞われるが、施設側は政権におもねり、ホンネとは裏腹に「コロナ感染予防のため、当分、施設を閉鎖します」と(当てつけがましく)発表することになるだろう。

中国 上海にあるディズニーランドは、新型コロナウイルスの感染対策のためとして、10月31日から一時、閉鎖すると発表しました。
(NHK NEWS WEB 10月31日配信)

原油先物相場の話はさておき、娯楽施設が軒並み閉鎖され、遊び心がはけ口を失った閉塞的空間で、中国の社会は今後どうなって行くのだろうか。
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習近平 盛者必衰の理

2022-11-29 04:54:29 | 日記
上海で起こった習近平と中国共産党に対する抗議デモのニュースは、またたく間に世界中を駆けめぐったようだ。このニュースは、きょうの(日本の)ほとんどのニュース番組でも取りあげられた。ニュースの画面に映ったデモの参加者が、口々に「自由をよこせ!」と叫んでいたのが印象的だった。

習国家主席がおし進めたゼロコロナ政策は、コロナ感染者が出た地区をロックダウンするなど、厳しい行動規制を住民に課し、徹底的に人民の自由を奪ってきた。それが彼ら人民には耐えがたかったのである。

このニュース映像を見ながら、私は「盛者必衰の理」の眼目がどこにあるかをまざまざと見せつけられた気がした。「盛者」としての独裁的統治者を衰亡へと導くもの、習近平国家主席を失脚へと追いやるもの、それはひと言でいえば、被治者たる人民の、その〈自由〉の剥奪である。

〈自由〉、それはだれもが欲しいと願うものであり、言い換えればそれは人間の「権利=求めても当然のこと」にほかならない。つまり「人としての権利」、「人権」そのものである。

中国共産党といえば、ウイグル自治区での人権蹂躙が取り沙汰され、国際社会で批判の種にもなったが、人権蹂躙はこの地区に限らず、中国全土で行われる日常茶飯事なのである。

人権を平気で蹂躙する中国共産党の姿勢は、「人権よりもメシのほうが大事だ。メシのためなら人権としての〈自由〉の制限もやむを得ない」という発想から来ている。これに対して人民は「メシなんかよりも自由のほうがずっと大事だ。自由を返せ!」と異を唱えているのである。

自由よりもメシなのか、メシよりも自由なのかーー。何やらドストエフスキーの「大審問官」のエピソードを思わせるが、この二者択一の根本を転換すれば、シー国家主席と中国共産党は自己否定に陥ることになる。

シーさんよ、さあ、どうする。天安門みたいに軍隊を出して、突っ走りますか。
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習近平という独裁者の末路

2022-11-28 03:13:33 | 日記
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛(たけ)き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。

ご存知「平家物語」の冒頭の一節である。盛者は必ず衰え、猛き者も最後には滅んでいく。ロシアのプーチンや中国の習近平、北朝鮮の金正恩など、世に「独裁者」と目される人物は何人かいるが、こういう人たちがどのような末路をたどるのか、私はとても興味がある。

他人の不幸は蜜の味。これが「独裁者」の不幸となれば、その蜜の味も格別である。

蜜の味を求めてやまない私・天邪鬼爺は、きのう興味をそそるニュースに出くわした。

厳しいゼロコロナ政策を続ける中国・上海で、きのう夜、習近平国家主席の退陣を求める大規模な抗議デモが行われました。
『共産党退陣しろ、習近平退陣しろ』
上海で抗議デモが行われたのは、新疆ウイグル自治区にちなんで名付けられた道路の交差点です。
ここで、24日に新疆ウイグル自治区で起きた火災の追悼式が行われていましたが、厳しいコロナ対策を維持する習近平指導部への批判に発展したということです。

(dmenuニュース11月27日配信)

先日、中国共産党大会を乗り切って盤石の1強体制を確立したばかりの独裁者・習近平だが、「盛者必衰の理」を思わせる反撃の狼煙(のろし)が上がった趣がある。シーさんには思ってもみない出来事である。

この事態を前にして、この独裁者はどうするのか。党内での地位は安泰でも、独裁政党「中国共産党」そのものの存続が脅かされる事態である。習近平は党の存続をはかり、第二の「天安門」を引き起こさざるを得ないだろう。軍隊を出し、抗議デモの首謀者たちを徹底的に排除せざるを得ないだろう。

そうなれば、台湾を侵攻する余力はなくなり、この独裁者の求心力も失せていく道理だ。その先には「盛者必滅」の末路が待っている。えも言われぬ蜜の風味が漂ってくる。
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ハラスメントについて

2022-11-27 04:04:46 | 日記
パワハラ、セクハラ、アカハラ、マタハラ、ーーいろんな「**ハラ」があるが、それらは結局、パワハラ(パワーハラスメント)の一種なのだと思う。

より力の強い者の力(パワー)の矛先が、より力の弱い者に向かう。そういうことである。
より力の強い存在としての男性の、その力の矛先が、より力の弱い存在としての女性に向かうとき、そこにセクハラが生まれる。
閉ざされたアカデミーの空間で、より力がある存在としての教師の、その力の矛先が、より力の弱い存在としての学生に向かうとき、そこにアカハラが生まれる。

私は若い頃、国立大学の助手の職に就いていたことがあるが、その頃の私の生活といえば、いじわるな教授連中の餌食になる毎日だった。

生きとし生けるものは〈力への意志〉の増大につとめ、〈力への意志〉同士のせめぎ合いが世界を形作る、ーーそう喝破したニーチェの思想が、リアルに感じられる毎日だった。


ニュースサイト「dmenuニュース」に掲載されていた記事《「心と体 汚されていく」「逃げ場がない」 自衛隊ハラスメントの実態【報道特集】》を読んだ。男性自衛官たちから日常的にセクハラ行為を受け、自衛隊という組織そのものからも冷たい仕打ちを受けた女性自衛官の、実体験にもとづく告発である。ジャーナリズムに自衛隊の実態を実名で訴える行為が、彼女の闘争の唯一の武器だったと言えるだろう。

身を削るような捨身の闘争の結果、彼女はセクハラの加害者当人たちと自衛隊幹部からの謝罪を勝ちとり、一応は鬱憤を晴らすことができた恰好である。だが、これで一件落着、万々歳、と言うわけにはいかない。止むに止まれぬ闘争だったとはいえ、この闘争によって彼女が深く傷ついたことも事実だろう。

今は社会的な風潮として、セクハラやパワハラは許されなくなってきている。だがジャーナリズムの目が届かない社会の暗部には、まだまだ種々のハラスメントがはびこっている。いびつな〈力への意志〉にとらわれた、いびつな強者たち。そんな彼らの餌食にならないためには、弱者は結束して彼らに立ち向かわなければならない。その場合、言葉による告発は闘争の有力な武器になる。
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宗教は難しい

2022-11-26 04:26:48 | 日記
宗教的な信仰心とは、なんとも微妙で不思議なものだ。信心を持たない者からすれば、それは不可解で厄介ですらある。

たとえばイスラム教に「ザカート(喜捨)」という宗教的な行いの形がある。Wikipedia によれば、これは「困窮者を助けるための義務的な行い」を指し、「制度喜捨」あるいは「救貧税」とも訳される。
「義務的」とあるからには、これは強制されて、嫌々なされる行いであるように思えるが、そうではない。コーランの教えを信じる者からすれば、それは自ら好んで行う自発的な行いであって、アッラーによって命じられるからではない。

「そんなのはまやかしさ。信者は、マインドコントロールにかけられてそう思い込まされているだけなのだ」と言いたくなるが、そう言い切れないところが、宗教の微妙なところである。そもそも宗教とは、強制と自由とが表裏一体をなす、ある種不可解な幻想領域なのではないかと思う。

こうしたイスラムの教えは、イエス・キリストの教えにも通底している。

「だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々十字架を負い、そして私について来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、私のために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」
(ルカの福音書9・23−24)

イエスの弟子たちの中には、イエスのこの言葉を信じ、自分の全財産を投げだそうとした者もいたことだろう。この哀れな信者を「マインド・コントロールにかけられた犠牲者」と呼ぶことができるかというと、必ずしもそう言い切れないところが宗教の微妙なところである。

私・天邪鬼爺のような不信心者にとって、宗教は難しい。難しすぎる。そう思うこの頃である。
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